70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

羽前赤倉 (陸羽東線) 1978

uzen_akakura_01-Edit.jpg

旅客鉄道会社から分離された整備新幹線並行在来線を運営する第三セクター鉄道の「恥ずかしい」会社名称については、とっくにご承知と思う。架空地名に鉄道とは何ら関係の無い事象や抽象名が、必然性の無い「ひらがな」を含んで羅列されるそれは、恐ろしいほどにセンスが無い。この行政の絡むと碌なことの無い代表事例のような悪癖は、1980年代に続いた地方交通線の転換による第三セクター鉄道の社名や線名に始まったのは間違いない。
例えば1985年に矢島線を転換した由利高原鉄道である。この羽後本荘から矢島まで23キロの鉄道は、子吉川の谷底平野を遡るばかりで高原状地形上に敷設されたでなく、何より「由利高原」なる地名は実在しない。引継いだ線路の線名も、それまでの事例の全てが国土交通省への事業計画書において国鉄線名を継承した中で(新線区間を含んだ三陸鉄道は例外)「鳥海山ろく線」としていた。多分に観光を意識した命名は早くも「ひらがな」をも含んで、株主となった行政の意向を強く反映したものであろう。
信楽高原鉄道信楽線や錦川鉄道錦川清流線などの続く中で、1987年には山形鉄道フラワー長井線、89年に北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線なる名称が現れる。当時に、この二社の鉄道事業者とは思えぬ社名・線名には強い違和感を覚えたものだった。有体に申さば、もっと真面目にやれと云うところである。

この動きは旅客鉄道会社にも伝染する。社名・線名の変えようはないから、それは線区愛称名としてであった。青森-函館間を線区名称にかかわらず津軽海峡線と案内したり、長距離旅客輸送から撤退した東海道本線を大阪起点に京都線・神戸線に分けたり、東北行き列車の無くなった東北本線を高崎線に併せて宇都宮線と呼称するなど、旅客流動や運転系統に沿っての愛称付名は良しとしても、東日本旅客鉃道管内で先行した「ドラゴンレール大船渡線」やら「ゆうゆうあぶくまライン」などの広告コピィ的愛称線名は、九州旅客鉄道での「由布」「阿蘇」「えびの」の各「高原線」を経て、西日本旅客鉄道の「万葉まほろば線」や四国旅客鉄道の「愛ある伊予灘線」と第三セクター鉄道顔負けの部類まで産み出すに至っている。いったい誰が桜井線や予讃線をこの名で呼ぶと云うのだろうか。

陸羽東線そして西線に対しても、両線接続点にあたる新庄市が主導した陸羽東西線利用推進協議会により1998年夏に一般公募のなされ、総数1332通の応募からの同年11月の選定結果を、東日本旅客鉃道仙台支社が1999年12月4日の東北新幹線直通列車の新庄延伸に際して採用すると云った形式を以て愛称付名が行われた。東線のそれは、恥ずかしげも無く「奥の細道湯けむりライン」であった。自治体が沿線地域のプロモウションに用いるならまだしも、鉄道会社が自社路線を自ら呼称するとは到底思えない類いである。そればかりか、この付名に併せては、山形県側の羽前赤倉、瀬見の「温泉駅」への改称も施行され、陸羽東線は1997年3月の鳴子地区4駅に加えて、6駅の温泉駅名を持つに至った。
羽前赤倉、現在の赤倉温泉駅から温泉までは約3キロの距離があり、民営バスの撤退した後を最上町の町営バスが12分程で連絡している。平日に7往復、休日に5往復の運行が確保されているけれど、鉄道とバスでの温泉客なぞ、まずは居ないだろう。今更ながらの改称には、経費の大半が地元自治体負担と云えど宣伝に利用されるばかりで、鉄道屋とすれば些かに面白くはない。

蒸機の去ってからの陸羽東線には、小牛田からだとそれの運転時刻に縛られて入ることのなかった堺田の先を訪ねたものだった。羽前赤倉手前でこんもりとした小山を隧道で抜けていた。笹森トンネルだったと思うが定かで無い。樹木の少ない斜面は、もがきながらだけれど積雪期なら入り込めた。
降雪の最中の列車は727Dの新庄行き。後追いである。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8S 1/250@f5.6 NONfilter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

常陸岡田 (日立電鉄・日立電鉄線) 1975

066-29-Edit.jpg

常陸台地の北に尽きるところ、八溝山系南端の低い丘陵の裾を沿うように走っていた日立電鉄線の廃止から、まる10年を経過した。それはつい最近のことだから、善くぞそこまで生き延びたとすべきなのだろうか。
1961年度の771万人の利用がひとつのピークだったと知れば、国鉄の事例にて線区収支改善の道具と認識されたCTC制御を1969年と云う極めて早い時期に設備・施行し、車掌省略運転も1971年度には導入するなど経営改善の推進に熱心であり、それが功を奏しての延命だったかも知れないが、1986年度の379万人を以て赤字経営に陥って以来に利用者数の回復すること無く、極限までに合理化された経営も21世紀を迎えて力尽きたと云うことである。
ルーラル鉄道とは云え、沿線は決して過疎地では無い。日立市の人口は1970年に19万人に達して以来に横這いを続け、常陸太田市も2005年度の3万8千人余りは1975年度の3万5千人を上回っており、寧ろ両市街地の拡大は沿線域に及んでいたに関わらず、廃線を公表した2003年度の利用人員は162万人まで減少していたという。
ここも、経営合理化が運転本数の削減に踏み込んで以来に、それが利用者数の減少を呼び込む悪循環に沿線から見放された典型なのだろう。市街地化により増加した沿線住民は利便性の高いバス交通に流れ、何より世帯あたり保有台数が1.6台を越える茨城県にあっては自家用車移動を選択した結果であった。

人口集積地での事例としては岐阜市郊外の名鉄美濃町線と同様にも見えるけれど、ここでは鉄道を利用して太田市側と日立市相互間を、或は常陸太田・大甕から水戸方面へと流動した高校通学生とその親達から、強い廃線反対運動の派生した。彼らがバスよりも定時性に優れ、高速性も持ち合わせた鉄道の特性を希求したのは当然と云えよう。
これを、かの巨大資本を親会社に持つ経営側は無視し、行政も全くに機能せずに廃線は強行されたのであるが、その後の両者の動向は不可解であった。跡地利用を会社より付託された日立市の選択は広大だった久慈浜駅跡を除き、当初よりバス専用道への転換なのである。しかも、それは鮎川から大甕の区間に限ってとされた。市街地化の進んだ地域で単線の線路敷の拡輻は困難な上に、多くの既存一般道との交差に通行の優先権は確保されないから、バス運行の表定速度は20km/h程度で計画せざるを得ず、両端での一般道運行には定時運行も保証されない。これは沿線の集積人口を背景に利便性を伴ったLRTへの転換を図る鉄道運行では駄目だったのだろうか。
百歩を譲ってバス転換を容認したとしても、本来に専用道の必要と思えるインター区間の大甕-常北太田間に至っての、常陸太田市の表明した「地域集会所に不足していた駐車場」への駅跡地の利用程度とは話しにならない。もっとマシな責任逃れのいい訳はなかったものかとさえ思う。

地方公務員を経験された方なら良くご存知だろうが、自治体の政策は首長の資質において大きく変わる。この2000年代初頭に両市の首長だったお二人は、残念乍ら鉄道交通への理解と、それを前提としたリーダーシップの全くに持ち合わせていなかったとしか云い様がない。

暮色濃い常陸岡田を発車して往く常北太田行き。夕方の通勤列車は雑多な形式の4両編成だった。
運転の合理化には不可欠の発条転轍機が見える。要員の当の昔に引上げられたここでは、固定資産税の回避からなのか駅舎も取り払われ、代替の待合所すら無かった。画角に見える建物は変電設備である。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 1/30@f4 NonFilter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

杉原 (高山本線) 1996

sugihara_02-Edit.jpg

子供時代を札幌近郊で過ごしたので小学校での冬の体育科目はスキーだった。校庭には雪を積上げた斜面の造られていたし、荒井山へのスキー遠足も定例の行事となっていた。スキー板は運動具店ばかりでなく、靴屋は勿論、荒物屋に雑貨屋に、果ては学校前の文具店でも売られており、何より私道まで除雪の行き届かない新興住宅地に、それは通学手段でもあった。
日常の履物には特にスキー場まで出掛けて往く、と云う意識も薄かったから、内地に転じては自然と遠ざかっていた中で、おそらく二十代後半の頃だったと思うけれど、誘われてゲレンデに立てば、十数年振りのスキー板には難なく乗れたものだった。さらに二十年を経た四十代後半の時にも身体は覚えており、きっと今でもすぐに滑れるだろう。ただ、生憎と永年に混雑したゲレンデに出掛ける気にはなれず、それを趣味に楽しんだことは無い。けれど、降雪の頃となればスキーやスキー場のことは気には掛けていた。

日本生産性本部による「レジャー白書」に見れば、日本のスキー人口は1993年度に1770万人で過去最高を記録して以来に長期低落傾向に在り、2013年には480万人まで減じている。1997年より統計に現れるボード人口を加えても770万人である。しかも、ひとりのスキーヤーのシーズンにおける「平均参加回数」も1990年代前半の6回から2000年代には4回へ減少したとされている。
この事態は当然ながらスキー産業全体に影響を及ぼして、2000年代半ばに至れば中小スキー場の休廃業の目立つところとなっている。

宮川村(2004年から飛騨市宮川町)杉原に所在の「白木ヶ峰スキー場」も呷りを受けたひとつである。2008年度に年間入込み客数を3900人まで減らしたところで、経営する宮川スキー場開発株式会社(*1)は2009年度を週末に祝日だけの営業とし、続く2010年度の全面休止を経て、2011年12月12日付にて廃業・閉鎖を告知したのだった。
腰掛部を取り外された延長476mと572mの二基の特殊索道(*2)は積雪に埋もれ、夏期には錆びた姿を晒していたのだが、2013年春から解体工事の始まり6月にはすっかりと取り払われてしまった。
スキー人口が、まだ300万人台だった1972年12月24日の開業と記録されるここは、将来のそれの伸長を見込んでの地元資本による建設であり、近年の国道360号線新道である宮川細入道路の開通まで鉄道に限られた積雪期の富山側との往来には、開設期間中に金沢・富山着発の急行列車が杉原に臨時停車してスキー客を送込んでいた。勿論に名古屋方面からの入込みにも利用されたことだろう。それは、急行が特急列車に格上げされて以降の2002年度シーズンまで続いた。多くのスキー客の姿を認めた待合室には要員無配置化以降もストーブの焚かれていたものだった。
...................................................................................................
(*1) 実質的に宮川村
(*2) 1980年1月に288mの一基を増設

峡谷を刻む宮川沿いの僅かばかりの緩斜面に開けた杉原の集落は、飛騨地域独特の屋根裏部屋を持つ切妻様式の家々の並ぶ景観に趣の在った。北側の牧花トンネル上部から眺める構内はそれを背景にした好きな画角で、季節や天候を変えて幾度も撮っていた。
散漫になるので画角からは排除しているけれど、此処に立てば白木ヶ峰スキー場の斜面が良く見える。
列車は828Dを待たせて通過する1021D<ひだ1号>。西日本旅客鉄道のキハ120が高山まで入っていた頃である。

[Data] NikonF5+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D 1/250sec.@f5.6 C-PL filter Ektachrome Professional E100SW [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

面白山信号場-山寺 (仙山線) 1980

yamadera_11-Edit.jpg

鉄道省秋田建設事務所が1939年3月に省内資料として作成した「仙山隧道工事並作並山寺間電化工事誌」は、残念ながら国会図書館に収蔵されておらず、関係自治体である宮城県図書館か山形県立図書館に出向かぬと閲覧が出来ない。おそらくは当時に鉄道省が両県に寄贈したものであろう。
仕方なく、土木学会誌の1937年8月号(第23巻第8号)に所載の当時の秋田建設事務所所長による論説報告「仙山線仙山隧道の直轄工事に就いて」や時報記事などからの推察に頼るのだが、山寺から延長となる仙山隧道山形方抗口までの区間は、1933年10月17日に仙山西線として開業した羽前千歳-山寺間と一体で建設されたものと思われる。路盤工事は勿論、橋梁なども架設され、既に軌道も敷設されていたことだろう。
仙山隧道の導抗掘削への着工は1935年4月1日と記録されるけれど、工事には抗口直近から山寺方500メートルの位置まで大規模な抗外施設の建設を要し、記録に在る掘削着手後の資材輸送ばかりでなく、これにも将来の営業線に運搬列車の運転されたはずである。

さらにはそれへの便乗扱いだろうが、スキー客輸送にも使われたと推定される。
2009年のシーズン以来に営業のなされず、施設の廃墟と化しているらしい南面白山の北斜面に所在のスキー場の開設は、仙山西線が山寺までを開業した1933年の鉄道省の手になる。1937年に仙山線の全通すればスキー場直下に面白山乗降場が置かれるのだけれど、それまでの4シーズンもスキー客の到達は鉄道に依っていたとしか思えぬのである。所部付近から南面白山の尾根に取り付けば、確かにスキー場斜面上部に達するが、山寺駅から直線距離としても6キロ、途中にピークをひとつ越える尾根筋は3キロ余り続く。
鉄道省にしてみれば全通後を見通した投資であるから、非営業線での便宜的旅客扱いも考えられぬではなかろう。今のところ確証は無いのだけれど、当時の山形市内に発行の新聞記事を丹念に拾えば、記事のひとつくらいは見つかりそうではある。

通称の紅葉川林道、山形市道所部面白山線の開削時期は調べ得ていない。その自動車通行前提の線形設計や山寺市街へと直結する経路選定からは、早くとも戦後、比較的近年のことではないか。林野庁管轄の林道ではなく、最初から自治体による開設だったと思われる。対して、千手院から奥へと伸びる山道は長い尾根筋を面白山山頂へ至る登山道として旧い時代から存在したのではなかろうか。
写真は、その途上から望める第一紅葉川橋梁。813M<仙山3号>が33パーミルを駆け降りて往く。後追いである。
この千手院からの林道は、徒歩の鉄道屋には楽しいルートだった。尾根への小道を分ければ、まもなくに第二紅葉川橋梁の下をくぐって渓谷を渡り、急坂を上って紅葉川林道に合流していた。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8 1/250sec@f8 Nikon Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

陣場 (奥羽本線) 1977

jimba_08-Edit.jpg

延長3180メートルの矢立トンネルで通過してしまうようになって、この峠越えでの撮影は陣場の手前、下り線の松原トンネル出口に接する第二下内川橋梁から続くR=600Mの曲線区間が定番位置なのはご承知のことと思う。
この下り新線は白沢-長峰間線増計画の最後の区間として1971年9月25日に開通している。奥羽北線の電気運転化に併せてのことだが、10月1日を以てのそれに辛うじて間に合わせたもので、白沢-陣場間での習熟運転期間は僅かに一週間だったことになる。その間には蒸機の仕業も残ったから、そこも牽引列車は走行したはずなのだが、第二下内川橋梁上のD51の写真など先輩諸兄の作品に見たことは無く、勿論自身も電化柱の並び架線の張られた矢立峠には近づかなかった。

連絡船を目指した奥羽線の車窓に国道から張出した畑作地を見つけ、電機目当てにそこに立つのは蒸機の消え去った1976年のことだった。裏手、国見山の風穴は当時の五万分の一地形図にも史跡・名勝・天然記念物の記号で長走風穴鉱山植物群落との表記はなされていたものの、現在のごとくに公園形態に整備されるで無く、細い草道が杉の斜面を上っていただけと覚えている。風穴館なる施設はごく最近の開設になり、当時には付近に民家らしきが2軒ほど並んでいた。
後年に定番位置と化すここで、それを知らねばモグリと云われそうなのが風穴ドライブインである。お陰で、この位置では食事に心配することが無い。主要国道の改良が全国に及んだ1960年代に走行距離の長大化した貨物自動車や遠出のドライヴ需要を当て込んで伸長したロードサイドビジネスのひとつがドライブインと呼ばれた供食スタイルであった。特にトラック運転手相手のそれなどは街中の大衆食堂が国道沿いに進出したに過ぎないのだが、1970年代に架けては飲食業の花形でもあった。1976年には存在した風穴ドライブインも改良の進んで新潟方面や秋田から青森へ、さらには八戸方面へと走ることになった長距離トラックの需要に加え、風穴へ観光客の取込みを目論んで1970年代初頭には開業していたものと思う。おそらくは、そのせいなのだろうが、当時からどの供食品目も他店での「大盛り」相当だったと記憶する。初代店舗の建物は現在にも敷地内に残り、まさに大衆食堂程度の規模である。正面に張出しての二階部分は後の増築だったはずで、店舗拡張に店内に在ったと思われる居住ないし休憩スペースを移設したものと思う。
隣接の新店舗は、広かった駐車スペイスを潰して建てられており、大館側や弘前側のバイパス沿いでの供食施設の充実や長距離ドライヴァ達の生活意識の変化に大型トラックの何台も駐車することも無くなっていたのであろう。一般客向けに「盛り」の良さを売りにする方向転換もこの頃からと思われ、近い将来の秋田自動車道の小坂ジャンクションへの接続を想定したそれは功を奏して、「大盛り」の店としてWeb上への投稿も多々見掛けることになっている。まずは盛業をお慶び申し上げたい。

風穴ドライブインの駐車場隅から続く下内川への細道を降りて往くと、下り新線建設関連で築堤上に付け替えられた上り線がその先に覗く。ED75 700番台は502列車<きたぐに>の牽引機である。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5S 1/125@f8 NON filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

前のページ 次のページ

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。