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70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

川渡 (陸羽東線) 1972

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陸羽東線は堺田の前後に連続した18パーミル勾配に重量貨物列車には補機を要し、その解結駅の川渡には機関車駐泊所が設けられていた。この施設が何時置かれたものかは調べ得なかったが、おそらくは、この線が1914年4月19日に岩出山からここまで延長された際と思われ、終端駅設備であると同時に将来の新庄への全通時の補機運用拠点化を見越したものであったろう。
以来、日本海岸と結ぶ物資輸送の補機仕業に貢献したに違いないのだが、この1971年10月1日改正ダイヤでは、ここから補機を運用するのは昼間の1793列車のみであり、給炭/給水施設に転車台は稼働していたものの、駐泊庫は既に保線車両の収容に転用されていた。なお、この施設は小牛田機関区の分所ではなく駅に所属するものである。
当時のダイヤにおいて、小牛田-新庄間を通過していた下り貨物列車は4本が設定されていたのだが、その内の1本を堺田まで2本に分割した運転が興味深い。補機に要員運用の削減を意図したものである。
小牛田を早朝5時45分に出発した1791列車は川渡から765列車に継送されて堺田に10時11分に到着する。これを小牛田から牽いて来た機関車は切り離され川渡へ戻り、この日の1793列車の補機運用に就くのである。一方、貨車編成は日中を堺田にて留置され、小牛田を14時15分に出た1795列車の前位に連結されて新庄に21時に到着した。1791に連結された貨車は線内通過に実に15時間余りを要するのだが、これにて1791/1795は補機が不要となり、それだけ要員も削減されていたのである。
このような、重量貨物列車を分割して勾配の頂上まで運転し前途を併合する輸送方式は、機材に要員も不足した戦時下を中心に全国の各線で行われていたものと思われ、ここに見られたのはその名残であろう。戦後には陸上輸送をほぼ独占していた国鉄の「殿様」商売の残滓でもある。

川渡の転車台は、給炭場の奥に林を切り開いて設置され、それに囲まれるようなロケーションにあった。
1793列車の補機仕業を終えて単行768列車で川渡に戻った機関車は、小牛田向きに転向の後に給炭・給水を受け単行770列車にて機関区へと帰る。

[Data] NikonF+P-AutoNikkor50mm/F2 1/125sec@f4 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR4 on Mac.
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