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70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

阿木-飯羽間 (明知線) 1972

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鉄道省が1932年に、国有鉄道簡易線建設規程(1932年5月27日鉄道省令第8号)を制定して、それまでの国有鉄道建設規程(1929年7月15日鉄道省令第2号)に規定の甲乙丙各線の線路種別に簡易線規格を追加したのは、ニューヨーク証券取引所における1929年10月24日からの株式の大暴落を引き金に世界的に波及した経済不況を背景としている。これによる客貨の減少に加えて、自動車運送の普及による輸送量の低下が営業収入減をもたらし、幹線網は完成してルーラル地域が中心となっていた新線建設や既設線の改良・保守計画を見直さざるを得なくなったのである。それまでの建設規程によらない簡易線規格を設けることにより、丙線で計画されていた新線を簡易線として建設費を低廉化した他、同時に国有鉄道建設規程も荷重制限の規格基準を緩和する改正(1932年5月27日鉄道省令第7号による)を行い既設線の線路種別の格下げも可能として保守経費の低減をも図ったものである。

この施策により、鉄道省はおよそ3000万円(当時)の予算を圧縮したとされており、これを転用して1930年代から製作の開始されたのが、それら丙線や簡易線での運転を用途としたC10に始まるタンク式機関車の一群なのである。それまで、許容軸重が13tと規定の丙線規格に適合する機関車は古典機関車の淘汰以来存在せず、速度制限を課して9600や8620が入線していた事情があり、早急に代替機の要求されていたのである。また、不況期の増収策に都市近郊での快速列車の頻発運転用としての需要も存在していた。試作的要素の在ったC10を引き継いでK-13の丙線用に量産されたのがC11であり、簡易線向けにK-11で製作されたのがC12である。

1933年から翌年にかけて全通した明知線は、丙線規格での計画を制定されたばかりの簡易線に変更して建設され、岐阜県恵那地方の山間に散在する小さな盆地を連絡する経路から、随所に簡易線に許容された35パーミルに近い30から33パーミル勾配が連続していた。丙線としてならば、想定される需要からそれらの特認無くして建設の困難であったと思われる。その設計荷重にて開通当初よりC12が投入された模様だが、その輸入古典機関車と同等の火床面積に軽い軸重には過酷な仕業であったに違いない。牽引定数も相当に制限を受けたと思われ、輸送量の減少していたこの当時でも、ここの貨物列車は午前と午後の2往復設定があった。

中津川市と岩村町(現恵那市)を隔てる低い丘陵の鞍部を越えるこの区間も、その中間のここまで阿木から32パーミルが連続していた。C12の貨物列車はそれこそ止まりそうな速度で登って来る。
モノクロブログに、この頃までモノクロと併用していたカラーネガでの撮影をご容赦頂きたい。

=参考文献=
土木学会誌 第25巻第5号 (1939年5月) - 土木図書館ディジタルアーカイブ収蔵資料
C56/C12形機関車明細図 鉄道史料保存会 (1991年)

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2 1/125sec@f5.6 Non filter  SakuraColor100  Edit by PhotoshopLR4 on Mac.
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