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70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

浦宿 (石巻線) 1973

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余談から書いてしまうが、東北地域の人々は鉄道好きである。福岡に仮住まいの頃、仕事仲間を始めとした当地の人間と話していて、その感を強くした。
九州人はヒコーキ好きなのである。首都圏から遠く、当時に新幹線で7時間の東京との往来が航空機が自然であるせいか、新幹線にて3時間40分の関西方面出張も原則空路、時間当り1本の設定は在った特急で約4時間の鹿児島も同様なのだった。比較例として適切かどうか分からないのだが、同じく約4時間の行程であった上野-仙台間は、頻発運転していた東北線特急群が圧倒的なシェアを占めていたはずである。約6時間の博多-宮崎と上野-盛岡を見ても、九州人は既に鉄道を見捨てていたように思う。対して、8時間を越えていた青森に秋田へさえも週末の特急券などは入手難が続いていたのが東北地域である。現在、所要3時間30分の<こまち>が航空機と互角に戦えるのも、東北人の鉄道への愛着ゆえに思える。東日本旅客鉄道が<はやぶさ>に投資するインセンティブでもある。

60年代から70年代前半にかけて、東北地域には本線上区間へはもとより、支線区へも上野からの多層建て気動車による直通列車が設定されていた。陸羽東線の鳴子や大船渡線盛、山田線宮古、八戸線久慈までに花輪線、陸羽西線内などである。異列車併結区間での列車内乗換を可とすれば、五能線陸奥岩崎までも加わる時期さえあった。
旧盆・年末始時期の東北方面列車の寝台車や食堂車を座席車に差替える輸送力列車化や、上野駅に出現する列車待ちのテント村、列車は捌けても乗客を収容出来ずに品川を発駅とした措置など今や昔語りであるが、この時期には定期列車では直通の無い石巻線女川着発の列車も設定されていたのである。以前にも少し触れた<おしか>である。

1970年以前は知らぬのだが、この臨時急行は上りのみの設定で、小牛田から上野までは本線系統列車に併結され、それは石越始発の8106<まつしま53号>だったり常磐線を回る9210<そうま51号>だったりした。
この73年冬臨期の運転では8106への併結にて、女川を11時40分に出て上野まで9時間余りを要し、石巻線内小牛田までの1時間30分は同区間の普通列車よりも遅かった。通過駅の有るゆえの急行設定とは思われるのだが、それはホーム有効長の短い駅員無配置駅に停車しないだけだから、当時の国鉄の殿様商売振りが伺える。全席指定にて座席の確保が確実で直通であることがサーヴィスだったのである。
なお、下りは夜行の9107<まつしま55号>の仙台止まりで設定され、その編成を石越・女川へと回送して上りに充当していた。尾久客車区による1組編成使用の臨運用である。

写真は、万石浦沿いを往く<おしか>編成の女川への送込み回送、回9817列車。
波動輸送用12系客車478両が配備された後なのだが、この列車に運用されることは無かった。それでも、(1両の近代化工事未施工のオハ35を除けば)捻出された「急行」用客車の堂々足る急行編成である。かつての臨時急行のようにスハ32やオハ61までもが組成されるではない。

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor50mm/F2 1/500sec@f8 Y52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.
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