FC2ブログ

70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

東鳴子 (陸羽東線) 1975

higashi_naruko_01-Edit.jpg

陸羽東線へは、ここの蒸機運転が無くなってからも行っていた。煙の無くても良い撮影なら、ポイントの選択範囲も広がったものだった。

東鳴子は、荒雄川右岸で第二荒雄川橋梁(389M)に接する盛土部に、戦後の1952年1月25日に開設された比較的新しい駅である。当初より場内を持たない閉塞区間中間の停車場であった。
ここの特徴は、用地の関係からか橋梁上まで延伸された乗降場にあり、それは既設の橋脚や桁への荷重負担を避けて独立して設けられていた。橋梁に高架橋のへばりつく如き外観は、あまり例の無いだろう。たかが乗降台を支えるために河川敷から高く構築された構造は、軽量鋼材の入手出来なかった時代の所産であろうか。近年ここに通された国道47号線新道への支障部分が撤去されたものの一部は健在である。
ここは1997年3月22日改正を以て、鳴子御殿湯と改称している。御殿湯は、古に赤湯と呼ばれたここに湧く温泉の別名からと云うが、未だに馴染めない。けれど、切妻屋根を乗降場上屋に兼用した木造モルタル造りの旧本屋を2004年に改築した現駅舎の意匠は好ましく、岩出山 (陸羽東線) 1972 の岩出山駅舎と同じ東日本旅客鉃道仙台支社の仕事とは思えぬ程だ。

写真は、第二荒雄川橋梁上の711D列車。キロ28を含む前4両が青森行き<千秋1号>、後2両が羽後本荘行き<もがみ>である。
1959年12月1日に、それぞれ<たざわ><もがみ>として新設されたこの列車は、その後に続々と東北地域に誕生する多層建気動車急行群の先駆けであり、その中でも仙台からと米沢からの同名列車と新庄で相互に編成を入替える点に置いて特異な存在であった。(各区間での編成表を追記に掲げるので、興味のある方はご覧いただきたい)

歓楽温泉化しつつあった隣の鳴子に対して、ここは湯治客中心の鄙びた風情を見せていた頃である。画角の下側に目立つ「いさぜん旅館」は、40年を経た現在でも湯治宿としてここに在る建物のままに盛業中である。虎党は往かねばならぬ宿でもあるようだ。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F1.8S  1/250sec@f8  Y48 filter  Tri-X(ISO320)  Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

この列車の各区間での編成は、下表のとおりである。
この表では、上りの4714D<もがみ>の新庄-米沢間が省略されているが、それは下り4711Dの7・8号車が1・2号車となる4両組成の編成形態に変わりはない。仙台からの編成を羽後本荘で米沢行きで折返しているためである。
さらには、711Dは大曲-秋田間でその前位に、仙台を711Dの5分前に4811D<たざわ1号・陸中1号・むろね1号>として出発した<たざわ1号>を併結し(この区間では10両の長大編成)、4711Dは、山形-米沢間で仙台からの613D<あさひ2号・月山3号>の<あさひ2号>の後位に併結され(この区間も9両編成)、ここでも<月山3号>の山形増結編成を含めて編成の入換えを生じていた。
<千秋・もがみ>の運用自体その前後で他の列車に繋がっており、この時期の東北地域の気動車運用は良く云われるように正にパズルだったのである。
新庄駅で毎日10時と17時前に見られた、乗客を乗せたままでの場内の上下方を同時に使用した入換作業は、その間本線を支障するから迅速性が求められ、711Dの停車時分はこの転線入換をともなっても10分、4714Dに至っては僅か8分停車であった。
駅の案内では、それぞれの出発ホームで待つよう指示されるのだが、旅慣れた乗客は早い座席確保に到着ホームでも待っていたものだった。

hensei.jpg
(3/1975 時刻表 - 国鉄仙台駐在理事室発行 1975 より抜粋)
関連記事

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://monochromeyears.blog.fc2.com/tb.php/64-92a759f3
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)