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70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

下北 (大湊線) 1973

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大湊線は、この年の10月改正で内燃機の導入が決まっていたから、その直前の道内行きでも途上に組み込んでいた。東北線の終着間近の野辺地なら、上野を19時過ぎの<八甲田>で翌朝5時半には到着し、すぐに大湊線の始発に乗り継げた。

むつ市は、藩政時代から南部藩の代官所が置かれ下北地域の中心であった田名部町と、戦前には帝国海軍の軍港を擁する軍事都市として発展し、戦後も海上自衛隊大湊地方隊の主要部隊の配備された大湊町が1959年に合併して成立している。1939年の大畑線開通以降は、この市域に三つの拠点駅が存在して役割を分担していたのが面白い。市街地中心部に位置して玄関口として機能していた田名部(開業時には本田名部)、大湊線終端で運転区や車掌区支区の置かれた大湊、そして両駅の貨物扱いを集約した形になっていた下北である。
大畑線の下北交通転換後には線路が分断され、旧大畑線本線を転用した専用乗降場に発着していた同線であるが、国鉄当時には全列車が大湊に直通しており、8往復の設定は大湊線と同等で内3往復は野辺地発着であった。これは偏に田名部駅の存在ゆえと思われる。

この当時の下北は、田名部川河口の関根浜埋立地に隣接して、島式乗降場を挟む大湊/大畑両本線の他、駅本屋野辺地方に2線の貨物積卸場を、海側にも2本の貨物側線を持ち、そこからは埋立地先端に向かって専用線も伸びていた。その先には、放射能の漏出事故で動くことのままならなかった原子力船「むつ」の船影を認めたものである。
線内貨物列車は下北発着にて設定され、機関車のみが配置区の大湊まで出入りしていた。

写真は、田名部川を廃しての放水路、新田名部川を渡る臨時貨物8782列車。
発車直後なので力行してくれるが、釜臥山はその煙に隠されてしまう。

大湊線は、この数日後に襲った集中豪雨の被害により長期運休を余儀なくされ、大湊運転区の3両のC11はそのまま火を落としたのだった。

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor50mm/F2 1/500sec@f5.6 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.
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