FC2ブログ

70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

北常盤 (奥羽本線) 1981

kita_tokiwa_03-Edit.jpg

東京-鹿児島間を31から32時間、二夜行を要した急行<さつま>には乗ってみたかったものだ。然りとて、1958年10月の改正で消滅(九州島内区間のみに短縮)してしまったから叶ったはずも無い。せめてもと、同区間の<桜島><高千穂>には1975年3月の廃止直前に乗りに往っている。往きを鹿児島線経由で24時間50分を掛けて到達し、28時間を乗り続ける日豊線経由で帰って来た。西鹿児島滞在1時間2分で下り<桜島>から上り<高千穂>へと折返すだけの53時間あまりを乗りっぱなしは10代の鉄道小僧だったからこそだろう。それでも、出発から三日後夕方の東京駅到着には臀部筋肉の緊張は極限だったと書いておく。
1970年代には客車や電車の特急寝台列車がダイヤ改正の度に増発されていたとは云え、長距離急行もまだまだ健在だった時代である。新幹線の博多開業にて東京・関西と九州間はすっかり寂しくなってしまったけれど、上野には多くのそれが発着していたし、大阪-青森間には<きたぐに>が特急寝台<日本海>とは使命を異にして走り続けていた。

羽越線に蒸機を撮りに往けば、ナハ11を連ね食堂車オシ17も組込んでDD51に牽かれる<きたぐに>の姿を幾度も目撃して、その19時間30分を乗り通してみたいと思っていたものの、東京に住む限りには無縁の列車でもあった。1972年11月6日未明に下り列車自らが当事者となった北陸トンネル列車火災事故にてオシ17の外され、翌1973年10月1日改正を以てはスロ62を除く座席車が12系に置替られ、1978年10月2日改正ではそのスロ62の連結も無くなれば、客車急行の風格は全くに失われてしまうのだが、それでも乗りたい列車には違いなかった。それを実現させるのは1970年代も末となってのことで、思いきって北海道周遊券の青森までの乗車経路のひとつ、上越・信越・羽越線回りの新津以南を放棄し、都区内→新大阪→新津の連続乗車券を別途購入したものだった。
当時に下りは青森で2時間余りを浪費するものの、青函27便を介して函館からは夜行<すずらん>に接続しており、翌日を道央の何処かにしておけばスケジュールの無駄も無いのだった。ただし、都内を12時間早くの出発を強いられた。

津軽平野の只中を往く502列車<きたぐに>。大阪まで19時間の旅の先は長い。
大館市内の病院で入院生活を送っていた友人を度々見舞いに訪れていたこの当時、近い将来に新潟打切りの噂も聞かれて、帰京をわざわざ米原回りとして幾度か乗ったものだった。
後位は宮原客車区のオユ10による航送運用[大航21]である。進行方向の変わる新潟以南の基準駅である米原方への連結は、以北区間では逆位置となっていた。郵便扱駅ではホームを端から端まで郵袋を移動することになって、関係者には難儀な列車だったに違いない。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor50mm/F1.4S 1/250sec@f4 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

関連記事

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://monochromeyears.blog.fc2.com/tb.php/270-fd4401d2
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)