FC2ブログ

70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

川渡 (陸羽東線) 1971

kawatabi_02-Edit.jpg

1997年から流行りの温泉駅を名乗っているけれど、川渡温泉は直線で1.2キロばかりを離れた荒雄川の対岸であり、一日に僅か5便のバスの連絡するものの、それは古川鳴子間路線の経路上に停留所の所在するに過ぎない。今にここに降りて温泉を目指す旅客など皆無であろう。

川渡温泉は平安期より記録に現れると云う古からの温泉場ではあったが、陸羽線の線路選定は当初より岩出山鳴子間を荒雄川左岸として、そこを経過地とはしなかったのである。長大な第一と第二の荒雄川橋梁を架橋してまでのその事由に「陸羽東線建設概要」は触れること無く、玉造郡一栗村に置いた池月停車場を「栗原郡に通ずる要衝に設置」と書くのみなのだが、この間の右岸には山稜の迫って隧道を要するとも思われる地形の箇所が見られるから、それとの建設費を勘案した結果と云うのが正解だろう。
けれど、1914年4月19日に玉造郡温泉村大字名生定に仮の終端駅として開かれた停車場は川渡を名乗ったのである。江戸期以来の名生定村にかかわらず、当時に合併して同じ村内となっていたとは云え対岸旧大口村の、しかも小字に当たる川渡を採ったのは異例として良い。やはり温泉場として高名だったゆえであろうし、駅も実際に湯治客で賑わったには違いない。
当然に要員が詰め、構内には機関車駐泊所も併置された運行の拠点であったが、時代の下った1983年のCTC制御施行にて要員の引揚げられ、待合室に残存したキオスク売店が乗車券類販売を受託していた。それも1991年には撤退して寂れるばかりの中での温泉駅改名は、地域プロモウションに加担させられているだけのことで、古い鉄道屋にはあまり愉快に思えぬ。

この1971年当時、陸羽東線には3本の重連牽引列車が存在した。新庄を朝に出て小牛田まで通した1790列車、昼過ぎに川渡から堺田へと峠を上った前補機の1793列車、そしてその補機の川渡からの帰区回送の行われた旅客の724列車である。回送とは云え、小牛田へと続く下り勾配にぶら下がるばかりの後機ではなく、本務機前位への連結ゆえ停車場からの進出や第一荒雄川橋梁への築堤等では力行もしてくれたので、これを目当てに午後には山を下りるのが定番の行程だった。
写真は11月の低い西日に川渡を出て往く724列車。画面構成の拙さはご容赦いただく他ない。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor5cm/F2 1/250@f2.8 NON filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

関連記事

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://monochromeyears.blog.fc2.com/tb.php/262-c083c0d8
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)