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70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

鳴子 (陸羽東線) 1971

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現在に鳴子温泉と総称される温泉地帯の中心域には300もの源泉が集中しているそうである。その発見は1000年を遡れると云うけれど、そのような古は別として、1900年代初頭には既に一定規模の温泉旅館街が成立していたものと思う。
小牛田新庄間鉄道は、『鉄道敷設法』 (1892年6月21日法律第4号)第二条に「宮城縣下石ノ巻ヨリ小牛田ヲ經テ山形縣下舟形町ニ至ル鐵道」と規定され、国家骨格を構成する主要路線に位置づけられていた。本線の名こそ与えられなかったものの、最初の開業区間となった小牛田-岩出山間に付された線名が東北本線の支線では無く、陸羽線部を設けての陸羽東線だったことがそれを示している。
この路線の鳴子への延長は1915年4月18日のことで、鳴子停車場は源泉湧出中心地区、即ち温泉街の立地していた緩斜面下部に置かれた。それは切取土工にて用地を確保したものと地形図には見て取れたのだが、改めて鐵道院新庄建設事務所による「陸羽東線建設概要」を読むと事情は異なっていた。そこには「土地狭隘にして他に適当の個所なかりしを以て荒雄川右岸の一部を埋立て」と記され、斜面への腹付け盛土による構築と知れた。既存の温泉街を避けては用地確保が困難だったのである。
これには、基礎に高さ24ft.(≒7.13m)、延長700ft.(≒213m)程に及ぶコンクリート製擁壁を築いた上で、およそ70ft.(≒21.3m)の高さまで盛土を行い、法面防護には栗石(ぐりいし)張りを施行したと在った。わざわざ一項を設けての記述は、この線区の建設に際しての停車場土工の中でも最も工費、工程を要したゆえであろうし、1910年代と云う時代には確かに多くの土工人夫を駆り出した大工事だったことだろう。
その後、この法面には樹木が生育し1970年代当時には乗降場から荒雄川方向の視界を隠す程だったのだが、近年には補修工事でも行われたものか全て取り払われ、氾濫原から転じた宅地に張出した施工当初の姿を見ることが出来る。

本線は鳴子停車場を出ると直ぐに1/55(≒18.2‰)の線内最急勾配区間が始まり、山脚に取り付いたまま不動沢と水無川の渓流を渡り鳴子トンネルへと向かう。この区間での車窓に電波塔の建つ上部が整地された高みを見つけて、現地へと赴いてみれば果たしてその全区間を見通せたのだった。
現在での「鳴子公園」だが、当時にはその名称は無かったように思う。電波塔は1963年1月に送信を開始した東北放送の鳴子ラジオ中継送信所の施設であった。

鳴子トンネル抗口直前を上るのは1793列車。まだ客車列車の1往復も残存した頃だけれど、この昼過ぎに峠を上る重連列車が撮影のハイライトだった。

[Data] NikonF PhotomicFTN+AutoNikkor200mm/F4 1/250sec@f4 Y48 filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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