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70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

間島 (羽越本線) 1968

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1960年代の半ば、小樽築港機関区には18両のC57が集結して小樽-旭川間を中心に仕業が組まれていた。多くがボイラー上部に重油タンクを載せた重油併燃の厳めしい姿で、それが狩勝を越えて長駆釧路まで、千歳線/室蘭本線を経由して函館までの運転に備えたものだとは、機関区の職員に教えられて子供ながらにも承知していた。
線路端に立てば必ずやって来る機関車だから珍しくもなかったけれど、配備されたばかりの軽量客車による寝台車にそれに粧いを合わせた食堂車を含む<まりも>の長い編成を従えての姿は別格で、これは札幌以東でしか見られなかったので、日曜の朝早くに苗穂あたりまで出掛けたものだった。
それは堂々足る急客機だったのだけれども、同じ頃「鉄道ファン」誌のグラビアと記事に北陸線親不知の荒波を往く姿も見つけて、それには魅せられたのだった。単線の通票閉塞に信号場で優等列車から貨物列車までを捌く潮騒の亜幹線にも強く惹き付けられ、以来にC57と云えば、当時裏縦貫と呼ばれた北陸・信越・羽越線の細い鉄路を往く亜幹線急客機との印象を強くしていた。
しかしながら、札幌の地から親不知は余りに遠く、夏休みの帰省の往路に立ち寄った花輪線に続いて、その帰路に親父にせいぜいとせがんだのが羽越線であった。

この68年当時、C57は新津機関区に12両、酒田機関区にも5両の配置が在り、残念なことに優等列車は<日本海>も<羽黒>も秋田区のDF50に替わっていたけれど、やって来る旅客列車の大半を牽いていた。
羽越本線は当然に単線非電化の線路が続き、1961年度に連査閉塞の施行されたものの、自動信号化は1966年7月30日の酒田-羽後本荘間の完成を以て全線に及んだばかりだった。ようやくに幹線の面目を施したものの、全線の複線電化の完成した東北本線とは比べ物にならない亜幹線の姿には違いなかった。風雪にはほど遠い季節ではあったけれど、その海辺の細い線路には多いに満足したものだった。

新津から新発田を過ぎても水田の広がる内陸を走り続けた羽越線の列車は、村上の先で三面川橋梁を渡り、その河口の岩ヶ崎を旋回してようやく車窓に日本海を見る。情報の乏しい当時に撮影適地としては今川信号場前後の笹川流れが知られるだけだったから、そのエメラルドの海面には思わず降りてしまったのである。
越後早川方に隧道を一つ越えた先には人気の無い白砂の海岸が続いていた。今は観光資源とされるこの光景も、砂利道の県道を走る自動車は疎らな頃である。
写真は835列車の秋田行き。C57に続く客車はオハ61ばかりだった。

[Data] NikomatFT+P-AutoNikkor5cm/F2 1/500sec@f5.6 Y48filter NeopanSS  Edit by CaptureOne5 on Mac.

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