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70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

撫牛子-川部 (奥羽本線) 1982

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オハ50形客車と基本設計を同一とした形式の車両群、即ち便宜上の50系客車(国鉄はこれら形式を系列と呼称していなかった)は、周知のとおり、1970年代後半に至って老朽化の進みつつ在った在来型客車の置替に計画・新製されたものである。その時点での製造技術による近代設計ではあるが、客車と云う性格上全ての線区・区間への入線と運行を優先し、車体設備や接客設備に自動扉の採用を除けば大きな革新の在ったで無く、単なる車両更新の範疇を出るものではなかった。
気動車や電車での新製の考慮されなかったのは、この当時に多くの客車運用列車が線区を超えた規模で郵便・荷物輸送を担っていたに加えて、老朽気動車の更新も要していた時期でもあり、1980年代半ばまでに1000両に迫るとされた需給予想からの予算上の事由が大きい。当時に機関車が余剰気味だったとは云え、いずれは更新を要するのだが、その10余年の後に郵便荷物輸送が消滅するばかりか、国鉄自体が瓦解してそれが旅客・貨物に分割されるなど想定外だったのだろう。
結果的に国鉄を承継した旅客鉄道会社に機関車保有のインセンティブは生じず、その老朽化には代替に電車や気動車の新製され、また、1980年代に地方交通線の転換が進んで気動車に余剰を生じたのも一因となって、1977年度の製造初年に対し1988年度には用途廃止の始まり、1990年代半ばにはほぼ運用を終えたのである。
客車にて新製の事由ともなった郵便・荷物車の併結についても、空気駆動式客扉の採用による機関車からの元溜管(MR管)引通しが嫌われ、荷物輸送の縮小時期と重なったことから幹線系線区では荷物列車へ集約されて、その機会はほとんどなかった。北海道線などでは併結運用に最後まで在来型が残留した他、それを要した場合にはMR管を装備するマニ50やスユニ50への形式変更も伴ったほどである。
とは云え、在来型の代替車投入を迫られる中で、将来想定のなされたにせよ、先行き不透明なそれに気動車・電車新製となれば、経年の浅い機関車の大量余剰には会計検査院に二重投資を指摘されただろうから、やはり選択は製作費の低廉な客車であったろう。在来型客車から気動車・電車への繋ぎ役を運命付けられた車両群だったと云えようか。

オハ50系列客車の奥羽本線秋田-青森間への投入は、1978年度第一次債務車両計画車35両の弘前客貨車区への配備により、1979年5月10日より同区間に上下33本設定の内15本列車の置替に始まり、全てが郵便・荷物車併結の無い運用であった。1979年度第三次債務車28両の81年3月の秋田運転区配置により置替は進むのだが、これも旅客車のみの運用が優先されて、併結運用には在来型が使われた。この際、例外が1833と626列車の一往復に生じたものの、全てにマニ50が充当され、在来型車へのMR管追設工事は避けられていた。
そして、1982年12月の1981年度第二次債務車の秋田20両/弘前18両の追加配備にて全面置替を完了したのだった。この時点で秋田-青森間に郵便・荷物車併結の運用は皆無となっていた。

奥羽本線は弘前の構内を抜けたところの半径400メートル曲線で右転すると、浪岡までの13キロ余りを直線で通過する。そこは津軽平野の只中であり、沿線には平坦な水田の広がるばかりの風景が続く。
記録を紐解くと、この変哲も無い区間に70年代末から80年代半ばに架けて都合5回も降りていた。何も無いところに画材と画角を見い出そうとしていたのだろうが、恥ずかし乍らそれは不発に終わったとしか思えない。
初夏の風、遍く渡り往く田園。列車は633列車の青森行きである。
ここでの全面置替が東北本線の盛岡-青森間に先行したのは、やはり荷物専用列車に集約し得る郵便・荷物車運用の少なさゆえだったろう。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.8S 1/250sec@f8 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.
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