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70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

大湊運転区 (大湊線) 1973

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それも織込み済みであったに違いない。自己の地盤構築に有利と見て建主改従を主張していた時の政権党、立憲政友会は第26回帝国議会にて『軽便鉄道法』(1910年4月21日法律第57号)を成立させると、私設鉄道を想定と説明していた同法を拡大解釈し、続く第27回帝国議会に同法に準拠した国有鉄道路線の建設予算700万円を計上し、1911年度より毎年に100万円ずつを拠出する予算案を提出、可決させたのである。これが、以後に続々と低規格の地域交通線が建設される契機であった。
これら線区の戦前期における地域開発への貢献、住民生活への寄与を疑うではないが、その立地からは当然に全てが非採算線区であり、戦後1949年に発足した日本国有鉄道は、早速にその経営に苦慮するところとなった。
これに対しては、発足翌年より特定の閑散線区に特定線区保守方式を導入し、業務の簡素化に要員、経費の節減を進めながら、本社審議室にて支線区経営に関わる研究・検討の行われた結果、線区別経営を妥当として、1953年11月に「線区別経営改善計画について」とした副総裁通牒(依命通達)が地方機関の長宛に出されたのであった。この通牒には「国鉄経営改善のためには、性格を異にする線区ごとにその方策を具体的に検討することが必要と思われるので、下記要領により貴管内線区中より数線区を選び、その徹底的経営改善計画の試案を作成し提出されたし」とあり、提出された中から1954年9月に千葉鉄道管理局管内木原線と久留里線にそれぞれ大原運輸区、木更津運輸区を、翌1955年1月には金沢局管内富山港線に富山運輸区を置き、1956年10月には仙台局の仙石線にそれをさらに進めた仙石線管理所を開設して、それの試行を始めたのであった。
これらが現場の努力もあって経営改善に顕著な効果の認められたことから、国鉄本社はこの管理方式の全国的波及を図るべく、1958年7月に副総裁通牒「非採算線区の経営合理化推進について」を通達し、将来に支線区経営の原則線区別経営を明確とした上で、同年度内に各鉄道管理局管内で少なくとも1線区を同経営方式とするよう求め、同年秋から翌年にかけ全国に続々と線区別経営単位が開設された。それらには上記に加えて管理長なる職制も含まれ、その数は1960年5月までに15運輸区、22管理所、44管理長となり、管理下の線区延長5034キロは全営業キロの24.7パーセントに及び、全職員の7.6パーセントがこれらに所属した。

運輸区・管理所・管理長は、ともに鉄道管理局(新潟・中国・四国は支社)に属した線区経営単位であり、局長(支社長)に直属して当該線区運営に関する権限を移譲されるのは共通したものの、線区の実情により選択され、以下の差異があった。
運輸区は比較的営業キロの短い行き止り線が対象とされて、施設関係を除いた線内の営業・運転の現業機関を統合、従って駅長や区長の廃され、それを上回る権限を付与された運輸区長が直接にこれらを統括したのに対し、管理所は施設を含めた線内の現業機関の職制を統合するものの、駅長を配置した他一部現業機関の存置も認めて、その上位機関に位置づけられた。管理所長には局長より大幅な日常運営の権限が与えられ、線区別経営の基本形態である。
統合される関係現業機関やその方策は線区の実情などにより異なり、運輸区に保線職員の所属することもあれば、管理所においては線区外にも跨がる業務を持つ運転区所や車両区所を含むことが多々あった。
管理長は、当該線区を支社駐在運輸長の所管から分離の上、線内既存現業機関の統廃合を行うこと無く、局長ないし支社長の指揮により総合的に統括管理する非現業職とされた。当初に運輸区を管理のみの非現業機関としていたことを引き継いでの職制である。

当時に年々1億2千万円の欠損を計上していた大湊線大畑線に、盛岡鉄道管理局が大湊大畑線管理所を設置したのは1958年10月20日のことであった。大湊線も1921年9月25日に正に軽便線として開業した線区である。
これに際して、盛岡局は気動車の投入による客貨分離にてこれを支援し、管理所においては駅の要員無配置化、線路保守の特定線路分区への移行、第一種踏切の自動化、駅勤務時や勤務体制の見直し等の合理化により1960年度末までに41名要員を削減、団体募集などの積極的旅客営業に貨物においては列車の弾力的運転により経費削減と繁忙期の増収を図って、1959年度の欠損を8600万円まで圧縮する成果を上げた。
しかしながら、同管理所に限らず、この地域交通線経営策は一定の合理化を達成してしまえば、存続に意味のなくなって1970年代前半までには姿を消して往く。当該区所の職員には相当の努力を強いるものだったが、本社の狙いは当初より労組の強い影響力下での合理化推進にあったと見て良かろう。大湊大畑線管理所の廃止は1972年10月20日で、14年間丁度の存続であった。

大湊の機関車検修施設は管理所廃止に際して機関区には復帰せず、気動車/客貨車を含めた運転区とされていた。その設備は管理所時代を通じて機関区当時と変わらない。
写真は給炭線に佇むC11224。扇形庫と気動車庫(旧客車庫)との中間、乗降場から至近の位置に在った。
背景は釜臥山。

[Data] NikonF photomicFTN+P-Auto Nikkor135mm/F2.8 1/250sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by PhoyoshopLR5 on Mac.

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