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70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

飯井 (山陰本線) 1974

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小樽・手稲と暮らした頃、蜜柑とは年の瀬に内地の叔母から届けられる南国の果実と認識していた。当時に叔母夫婦は神奈川県の湯河原で農園を経営していたのである。
放り投げを荷扱いの基本としていた鉄道の小荷物輸送に荒縄を二重十文字に掛けた頑丈な木箱に詰められたそれは、釘抜きで打ち付けられた木板を剥がせば甘酸っぱい香りが解き放たれ、冬休みに正月の近いことを感じさせたものだった。
道内には無かったその果樹には湯河原を母と訪ねて初めて接し、林檎のように枝にぶら下がるものと信じていたそれの、樹木一杯の山成りには驚きもしたのだった。

この後も、蜜柑は伊豆方面や房総半島を北限に西国太平洋岸の温暖な地域で栽培されるものと理解していたから、三見に歩くつもりで降りた飯井で季節外れに黄色く染まる斜面には奇妙な感覚を覚えたもした。山陰本線が隧道で越える険しい地形に海岸線に向かって僅かばかり開けた谷の両側斜面は密柑山だったのである。日本海岸と聞けば風雪に波浪を想う身には、西国とは云え不釣り合いな景観に思えたものだった。漁港を見下ろす斜面に登ってみれば、それは蜜柑でも個体の大きい伊予柑と知れた。ならば春の結実も辻褄が合う。
最近のデータではあるが、飯井・三見地区も属する「JAあぶらんど萩」によれば、萩市と阿武町では7.6haで伊予柑が栽培され、年間出荷量は75tと云う。海岸沿いに隣接する長門市にも1haが確認されるから、この7.6haの大半は飯井・三見地区と考えて良さそうである。
ここでの栽培がいつごろに始まったものかは知り得なかったけれど、1870年代に幕藩体制崩壊後の士族救済策として始められたと聞く萩市の三角州を囲む斜面での夏蜜柑栽培の波及と思われ、ここも当初にはその果樹の植えられたものだろう。

1964年1月21日に開駅の飯井は、美禰線としての萩への延伸から40年を経て、ようやくに地元の請願の叶った駅である。10K590Mと距離の長い三見-長門三隅間の中間ながら、当初より要員無配置の棒線だったのは高度成長期と云えど列車回数の少なかったゆえだろう。飯井川橋梁(l=30M)に連なる高い盛土区間に置かれた乗降場からは飯井の入江がよく見えた。
写真は、飯井トンネルからの15.2パーミル勾配を下り駅を通過して往く2012D<まつかぜ>。後追いである。
飯井川にに沿って赤い石州瓦の集落が続いて、伊予柑の黄色と緑に映える景色の国鉄特急色にはモノクロームをお詫びするしかない。これに海の青が加わって、ここは地中海的南国なのだろう。

[Data] NikonF2A+AutoNikkor50mm/F2 1/500sec@f4 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.


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