FC2ブログ

70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

青森 (奥羽本線) 1985

aomori_01-Edit.jpg

日本海縦貫線を上下した特急<日本海>は首都圏から北へ向かう身には無縁の存在だった。けれど、それには1968年10月改正での設定から強く惹きつけられたものだった。当時に電気運転は糸魚川までしか及ばす、以北の行路は信越線の宮内から新津を除き、自動信号はもとより連査閉塞すら施行されて間もない単線に信号場の細道だったのである。<日本海>は当時に寝台特急最短編成の9両で途中4回の機関車交換を繰り返しながら走り、糸魚川以北は東新潟と秋田に配置された新鋭機、DD51が牽いていた。

これにようやくの初乗車を果たすのは、米原を通らなくなり、早岐客貨車区の14系が関西-九州間列車と共通運用されていた頃の1977年と記録にある。東北地域の蒸機の一掃され道内との行き来の途上に下車することもなくなって、北海道周遊券には都区内から山科(京都)経由宮内行きと云う大回りの片道乗車券を付加せねばならなかったけれど、思い切って散財したのである。その替わりに新幹線との京都乗継ぎに<日本海>の特急料金は半額に割り引かれた。
世の大勢に既に食堂車の組成も無く全区間が架線の下ではあったが、その16時間あまりには多いに満足したものだった。これに味を占めて、1980年代に架けて度々この経路を渡道に利用していた。新幹線移動の東京口での時間の関係から4003・4002列車の利用が大半で、青森・函館とも昼の12時台出航の連絡船接続は札幌より先が道内夜行となって効率も良かったのである。但し、それは釧路にせよ稚内・網走にせよ、二夜行37時間あまりを要する旅では在った。
青森始発が永いこと16時25分だった4002列車ならば、大館から東能代まで乗り込む花善の販売員を首尾よく捕まえて「鶏めし」を夕食とし、朝食用には秋田での機関車交換中に仕入れたものだったが、これも夜半には食べてしまっていたと記憶する。その運行距離に区間利用の旅客も多く、秋田や酒田は勿論、0時近い新津でも乗車客のあり、驚かされたのは、そこでの下車客も多々見かけたことであった。確かに青森で午後に及ぶ用務を済ませてからでは寝台券を要するこの列車しか無い。まだ深夜である富山に金沢での下車も散見されて、多様に利用されていたのを伺わせた。

写真は西に傾いた斜光を受けて発車を待つ4002列車<日本海2号>。
1971年10月の奥羽北線電気運転にともない、この機関車に置替られてまもなくに掲出の無くなってしまったトレインマークは、以来10余年を経た1985年3月改正で復活した。復活後最初の対面となったこの時には、かつてDD51に見たそれを懐かしく眺めたものだった。通りがかった職員に声をかけて線路に下ろしてもらう。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250@f8 Fuji SC52 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

関連記事

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://monochromeyears.blog.fc2.com/tb.php/198-addd24bb
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)