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70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

中山平 (陸羽東線) 1971

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陸羽東線の最長隧道は、分水界の手前に所在する延長1062メートルの鳴子トンネルである。大谷川が深い峡谷を刻む右岸の山塊に穿たれたこの隧道は直線の線形が採用され、線路はそのまま国道47号線大深沢橋からの遠望で知られる第一大谷川を渡り、直後に第一中山トンネルへと続くのだが、この隧道は半径300メートルの曲線で左転して大谷川の断崖中腹に出るのである。線形として決して不自然ではないけれど、仙台市所在の新聞社、河北新報が1917年10月27日号から31日号で鉄道省新庄建設事務所発表として伝える「陸羽東線建設概要」によれば、それは急遽測量・設計された迂回経路であり、第一中山トンネルの入口抗口は本来に直線線形のまま中山平停車場に至る中山隧道の抗口として計画されたものと云う。

中山隧道は鳴子隧道とともに第五工区に含まれ、峡谷断崖に面する入口抗口からの掘削が困難なため、1913年1月にそれに替えての横抗(記事は「横シャフト」と書くが地形からは斜抗ではないかと思う)掘削に着工したが、その工事中に硫化水素ガスの噴出に遭遇し、深度を増す毎に激しさを増すそれに遂には工事は一時中断に追い込まれたのである。その間の改めての地質調査により計画隧道がガス含有層を貫通していることが知れ、已む無く迂回経路の調査・選定に着手、1914年8月に測量を終えて直ちに再着工されたのが、大谷川の断崖中腹を第一から第三の中山トンネルと切取り、築堤にて通過する現行経路なのである。ここでも少量ながらガスの噴出の見られ、隧道構造材や敷設軌条などの鉄材には腐蝕に対する防腐措置を要したと在る。
趣味的興味は、隧道工事の常識から当然に着工していたと思われる出口側抗口なのだが、記事には計画隧道の延長の記述されず推定の仕様が無い。等高線からは現第三中山トンネル出口に並んでいたものと思われるものの、戦後まもなくの古い空中写真にも、当然ながらそれらしき工事の痕跡は見当たらなかった。

写真は第三中山トンネル入口抗口上から見下ろした1793列車。煙の向こうに第二中山トンネルの出口がある。
せっかくの重連運転なのに、左に落ちた影からしかそれと知れぬのが少し悲しい。被写体に対する位置選定に未熟な頃のカットと云える。
なお、国有鉄道における「隧道」の呼称は、1970年4月1日を以て「トンネル」に統一されている。

[Data] NikonF+P-AutoNikkor50mm/F2  1/250sec@f5.6 Y48filter  NeopanSSS  Edit by PhotoahopCC on Mac.

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