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70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

折原 (八高線) 1997

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DD51形式内燃機に付された「本線用大型機」との区分は、あくまで「入換機」に対してのことと承知していても、古い鉄道屋には蒸機のそれに従った「幹線機」を指すものと聞こえてしまう。実際に量産開始当初には盛岡や東新潟、長野に鳥栖など地方幹線上の要衝に配備されて、そこの最優等列車から優先的に置替られたのだった。勿論吹田第一区のように大都市内線区の無煙化用途もあるが、そこでも長大編成貨物列車の先頭に立っていた。
1970年代半ばまでに、それら地方幹線に電気運転が及ぶと、幹線機らしい運転は北海道内に見られるだけとなるが、釜石や秋田、東新潟、郡山、佐倉、稲沢第一、亀山、福知山、米子、岡山、厚狭、直方などの配置車が亜幹線の客貨牽引に稼働し、中には山陰線での特急仕業も含まれた。

けれど、1970年2月から配備の行われた高崎第一機関区の仕業線区である八高線は全くのルーラル線区であった。
関東平野の西縁で中央本線と高崎線を短絡するに過ぎないこの線区の特殊性は、秩父山系での石灰石産出にともなう沿線でのセメント製造所の存在による。1925年より操業の秩父セメント秩父工場からの出荷は1934年10月6日の八高線全通後には寄居から八王子方面に運ばれ、戦後の1946年以降には氷川の奥多摩工業からの石灰石輸送も加わったこととは思うが、セメント輸送の本格化するのは1956年に大野原へ大規模な秩父セメント秩父第二工場が、1955年に高麗川へ日本セメント埼玉工場が建設されて以降のことである。
戦後には高崎に八王子のC58が客貨を牽き、重量のある貨物には9600が使われていたのだが、これに際しての機関車一台運転による定数450の実現には、より強力な大型蒸機を要して、関東近郊のルーラル線区には珍しいD51の運転線区となっていたのである。したがって1970年10月改正にともなう無煙化は、高崎第一機関区へのDE10では無くDD51-14両の投入にて行われたのだった。

丙線規格の八高線への動軸重15tのD51の入線は橋梁負担力や軌道強化をともなったとしても、当然に速度制限を要するが、低速度の重量貨物列車の仕業には問題のないと判断されたものだろう。それを引き継いだDD51も実にゆっくりとこの線路を走っていた。おそらくは同機の定期運用線区では最も低規格線であったと思われ、その姿は、函館線を18両組成-900tのコンテナ編成を率いて疾走するのと同じ機関車とは思えなかったものである。
竹沢から折原へ抜ける丘陵地、強烈な照り返しと草いきれの線路を往くのは5263列車。八王子で信越線川中島からの5470列車を分割したセメントホッパ車の返空列車である。

[Data] NikonF4s+AiNikkorED300mm/F2.8S 1/500sec@f5.6 NON filter Ektachrome Professional E100S [ISO160 / 0.5EV push] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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