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70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

西金 (水郡線) 1982

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道内撮影からの帰路に思いつきで立ち寄った水郡線は、その後の数年間、実家への帰省の度に撮っていた。特に惹かれるところの在ったでは無いのだが、強いて云えばそこは水戸から至近の非電化線だったからである。
その核心区間は、やはり久慈川が八溝山地に蛇行を繰返す山方宿から矢祭山の奥久慈渓谷であろう。矢祭山北方の高い橋脚の第九久慈川橋梁や袋田の第五久慈川なども気にはなったけれど、中でも足場の多く取れそうな西金に降りるのを定番にしていた。

西金は吾妻線小野上と並んで関東地域一円の線路道床に用いられる砕石の出荷駅であることは、ご承知のことと思う。
ここで採取事業を行う関東商工株式会社によれば、久慈川対岸の山中での採取は1941年からと云うから、戦時下での開発は主には建設資材の調達目的であったろう。当然に西金には鉄道での移出設備が整備されたに違いなく、戦後の1946年に事業自体を同社が引き継いだとある。
1962年11月17日付での水戸鉄道管理局による水郡線貨物営業の見直しに際して、西金の貨物扱いは廃止されたのだが、その1962年日本国有鉄道公示第557号には「接続専用線発着車扱貨物に限り取り扱う」との但書きがなされ、この当時に積込設備は専用線だったことが知れる。道床用ばかりではなかった砕石輸送は国鉄の貨物営業に組み込まれていたのである。けれど、ここに幾度か降り立った1980年代前半時期に、水郡線貨物列車廃止前にもその搬出は工臨列車に依っていたと記憶する。使われていた貨車もバラスト散布装置を備えたホキ800形式にて、既に国鉄の事業用途しか輸送の無かったことになり、関東商工の国鉄納入品以外はトラック運送に切替えられていたのだろうか。専用線だった施設を国鉄が編入したものかなど、経緯は興味深いのだけれども手元資料の限りには調べ得なかった。

この1980年代当時に採取地から西金構内隣接の野積場への久慈川を越える運搬には索道が用いられており、それは予備知識無しでの初訪問後に入手の五万分の一地形図にも記入されていた。索道分野は不勉強なのだが、対岸山上と比高30メートル程に150メートル程の延長にて4本の鋼索が渡され、索道は2本と見て取れた。それぞれにバケット型の搬器1台が吊り下がり、野積場で下部を開放し砕石を落下させては山上へ戻って積込みを行う動作を繰り返す単純な循環式である。搬器2台の往復式としないのは支柱の区間両端のみの構造には荷重がそれで精一杯だったのだろう。日がな一日、ガラガラとした音を山峡に響かせていたものだった。
野積場での積替やホキ800形式貨車への積込はベルトコンベヤにより、山上側でのステイションまでの搬送にバケット積込も同様であったと思われる。

駅前から国道118号線の新道に出て西金大橋へ向かう手前で、湯沢川の細い流れを見下ろせる。山清水を集めて久慈川へと注ぐ無数の流れのひとつであるが、河川名称のあればそれは大きい方に属しようか。その先には短い湯沢川橋梁に築堤も見えて陽光に照り返す澄んだ水流に画角を採れば、ここでも竹林が覆い被さるのだった。
札幌にはなかったこれの苦手なことは、これまでにも何度か書いた。もっさりとした植生がどうにも納得できないのである。南方系の照葉樹の枝葉の広がった様も同様で、蒸機撮影の当時、当然に九州への旅を計画したのだけれど、出発直前に日豊線霧島神宮付近での先達のカットを目にして急遽いつもの道内行きに変更した覚えもある。
列車は普通343D。この旧盆期など多客期運転の9413D<奥久慈51号>は水郡線を定期普通列車のスジに乗っていた。つまり、その期間だけ343Dはキハ58/28の冷房編成と化すのである。

[Data] NikonF3P+AiNikkor28mm/F2.8S 1/500sec@f5.6 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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