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70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

岩出山 (陸羽東線) 1971

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上野からの夜行<いわて>を早朝の小牛田に捨てての陸羽東線の撮影は、直ぐに接続する723Dに乗継げば陸前古川で追いつく1791列車から始まる。奥羽山脈越えの核心区間に急ぎたいところだが、それは川渡までの運転ゆえ西岩出山(現上野目)の橋梁か、さもなくば岩出山の駅に降りるのが定番だった。そこには5760列車も到着していて構内に2台の蒸機が煙を上げることになる。

岩出山は、1591年に領主となった伊達政宗がそれまでの岩手澤を改めて以来、およそ400年間に渡り伊達家の城下として形成・発展した。1947年に米軍の撮影した空中写真にも羽後街道(現県道226号岩出山宮崎線)沿いに間口の狭くて奥行きのある町家と思しき街並の連続する様が見て取れる。この頃までなら江戸期からの多くの建物が残されていたのだろう。今でも、酒蔵に味噌蔵、醤油蔵に麹屋、それらに麹菌を供給した微生物商売のもやし屋までもが所在する情緒在る街である。
1913年4月20日にここへ達した陸羽線は羽後街道東側を迂回して街中を通過することのなかったが、翌1914年4月19日開業の川渡までの延長線がその北端を横断していた。
この当時に、そこまでを承知していたでは無いものの、その趣には惹かれるところのあり、街道沿いの古い街並と組合せを狙って周辺を彷徨いたのだが、バイパスも建設途上の街道は交通量も多く気に入った画角は得られなかったのだった。この辺りのことは 岩出山 (陸羽東線) 1972 にも書いている。

写真は、そのひとつ西側に所在した河原町踏切(起点25K613M)である。曖昧な記憶だが、街並を諦めての画角であろう。当時に羽後街道と並行に有備館から城山下へと通じていたこの道は土道であった。警報機は付帯しても遮断機の無い第三種踏切も、今ではほとんど見ることが無い。森民酒造の蔵がこの少し先に在る。
接近する列車は勿論、岩出山を出発した1791列車。まもなくに第一荒雄川橋梁への築堤を上る10パーミル勾配が始まるので、機関車はこのままに力行して往く。
なお、踏切は今では河原街道踏切と名称が変わっている。

[Data] NikonF+P-AutoNikkor50mm/F2  1/500sec@f5.6 Y48filter  NeopanSSS  Edit by PhotoahopCC on Mac.

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