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70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

甲斐大島 (身延線) 1996

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トンネルよりも小学校が先だったのである。
富士川沿いの田園風景を撮るつもりで甲斐大島に降り、和津の伊勢神明宮に向けて宮の下踏切(起点39K874M)まで歩くと彼方の大島トンネル上部に平坦な土地が見えた。集落を抜けてやがては坂道となる田舎道を辿れば、建てられた記念碑にてそこがかつての小学校跡地と知れた。

此処に在った大河内小学校大和分校は、1902年1月に創設された大河内村の大和尋常小学校をその直接の前身としていた。1955年2月11日付にて身延町と合併した大河内村は、かつての身延町の富士川対岸に大島地域から帯金地域に至って所在した自治体である。その南部の大島地区と和田地区には1875年に相次いで教習所が開かれ、それぞれ大島学校、和田学校と称していた。これが1884年に合併して大和学校を名乗り、やがては大和尋常小学校へと改組されるのである。お判りの通り「大和」は地区名の合造であり、本来なら「おおわ」とするべきだろうが「やまと」と読んだ。
この大島トンネル上の敷地へ校舎を新築しての移転は1904年9月と記録される。大島と和田のほぼ中間、大島字的場の山腹斜面を削る大規模な土木工事は、学校が地域/地区の象徴的存在だった当時に、その校舎を両地区から見通せ、また子供らに自分達の地域をそして富士川を校庭より見下ろす視点を与えたかったものだろう。

1919年4月8日に甲斐大島までを開通し、翌年5月18日に身延へ延長の富士身延鉄道は富士川左岸まで山稜の張出したこの地点を隧道で通過する他には無く、ここに大島隧道が建設された。余り類例の無い学校敷地下の隧道である。
1970年代の末、北区赤羽台地内の東北新幹線通過に際し星美学園敷地へのトンネル建設には、散々揉めた挙げ句に多額の賃借料にて決着した事件が記憶に新しいけれど、ここは待望の鉄道路線であり、電気運転にて煙に燻されることもなかったから、寧ろ学校のシンボルとして歓迎されたに違いない。

写真は、その校庭跡地から見下ろした4001M<ふじかわ1号>。
ここは和津集落からトンネルに向かって気持ちの良い盛土区間が続いていた。

戦後の大河内村立(→身延町立)大和小学校は、1972年に帯金小学校と併合されて大河内小学校大和分校となり、翌73年には本校の身延町丸滝への移転に際してそれに統合、廃校となったのだった。『身延町誌』(1970年身延町誌編集委員会編)には1934年の台風被災にて建替えられたと云う好ましい木造校舎が示されている。健在な当時には良い添景となってくれたことだろう。

[Data] NikonF4s+AFNikkorED180mm/F2.8D  1/250sec.@f5.6+1/3 PLfilter Ektachrome Professional E100S [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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