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70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

龍ヶ森 (花輪線) 1975

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岩手県岩手郡松尾村に所在する標高679メートルの龍ヶ森がスキー適地として衆目を集めるのは戦後のことである。1926年11月10日に、ここへ鉄道の開通し龍ヶ森信号場が置かれた以降には、当時に普及しつつあったスキーの実践者に、その車窓に見えた広大な斜面は注目されたであろうが、戦前の岩手県のスキー場案内に沿線の田山は記されても龍ヶ森の名は無い。

戦後の1952年(*1)にこの信号場の廃止されてしまい到達手段も無くなっていた中で、1957年1月3日の信号場跡地への乗降場開設は、盛岡からも手近であり、列車で到着すれば眼前が滑降地と云う龍ヶ森斜面への誘客を図ってのことである。当時より盛岡鉄道管理局はスキー客誘致に熱心で、1952年には松尾村寄木に山の家「もみ山山荘」(*2)も設置していた。
ここでの乗降は、1959年(*3)の信号場の再設置以降も勿論そこの客扱いとして継続されていた。
この国鉄の措置により来訪者を増やしつつあった龍ヶ森スキー場に、地元松尾村は当時に不可欠の設備とされつつあった特殊索道(現乙種索道-スキーリフト)の導入を決め、1961年12月28日より運用を開始とした。同日を以ての信号場の正駅格上げは、これを受けてのことである。
旅客フロントを持つ新本屋を設置するでなく、旅客扱いの実態に変わりないのだが、待合室に替えては当時に用途廃止の進んでいたオハ31形5両の車体を連ねたヒュッテを構内に開設したのだった。「山の家」の簡易ヴァージョンとも云え、国鉄が直営した。1962年シーズンからは、同年より運転を開始した準急列車の臨時停車も行われていた。
ここへ8620形蒸機の三台運転を目当てに初めて降り立った1968年は、この現状の時期であった。夏期とあってヒュッテの営業はなされていなかったけれど、休憩室とされた1両は車内が開放されていたと記憶する。鉄道屋ばかりでなく、ここへやって来る登山・ハイキング客を意識してのことに思えた。
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(*1) 8月5日付での廃止とされるが、確証が無い。
(*2) 1970年まで営業し、後に国鉄は解体跡地へ「八幡平リゾートホテル」を建設・運営した。
(*3) 月日付名。鉄道公報に記載がなく、おそらく盛岡局の局長達によると推定。

ここでの蒸機撮影の狂乱は別項に譲るとして、写真は喧噪の去った1975年に再訪した際の撮影である。標高500メートル の初秋は深々と冷え、虫の音に響く閉塞器の電鈴は二度と聴くことの出来ない駅の情景である。
客車ヒュッテ側から撮っているのだが、それが据え替えられたオハ46の車体であったかの記憶はない。
光跡を残して通過するのは、914D<よねしろ2号>盛岡行き。19時10分通過だが、ここを通る上りの最終である。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 Bulb@f5.6 NonFilter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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