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70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

女鹿信号場 (羽越本線) 1971

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かつて写真の鉄道屋は列車で旅をしていた。それの大半が自動車で移動するようになって、埋め合わせするかのように、今度は鉄道の旅を目的とする一群が現れた。ひたすら列車に乗り続けるだけで戻って来る鉄道屋は、その昔から存在したけれど、途中に下車を繰り返しながら「駅」を観光するところは新しい。その行動様式は、既に鉄道自体を懐古趣味の対象化したところに始まって、古い鉄道屋は何とも複雑な思いで眺めている。
そのひとつのジャンルである「秘境駅探訪」なる遊びが何時頃に始まったものか承知していない。その切っ掛けと思われ、また筆頭に挙げられる室蘭本線の小幌にしても、北海道旅客鉄道への承継後に駅として全国版の時刻表に掲載のなされて「発見」されたのであるから1990年代からこの方のことであろう。ここの信号場としての現役当時の状況(*1)やその後の経過を知る鉄道屋には当然の現況だったのだが、確かに再発見者には「秘境」に見えて不思議はない。
以後に競うように続いた「発見」は、小幌のごとき事例は稀で多くは過疎の進展による。線路容量の増大を意図する信号場は地形等の条件が許せば停車場間のほぼ中間位置が選ばれ、周囲に利用者の存在しないゆえに駅とはされなかったものであるし、戦後の社会構造の変化が呼び込んだ中山間地の過疎にて、そこに駅だけが取り残されるのは今に始まったことでは無く、蒸機を追って峠の駅に降り立っていた鉄道屋はとっくの昔から知っていて、どちらも当たり前の光景だったのだけれど、鉄道に懐古を感じ始めていた旅行趣味者の一群がそれを再発見したと云うことなのだろう。
「発見」にも限界のあるゆえか、鉃道としての利便性にまで言及しての「秘境駅」は、たかが遊びと知りつつも鉄道屋には違和感がある。

1962年10月30日に使用開始の信号場であった女鹿もそのひとつに数えられるらしい。この吹浦-小砂川間の8.7キロは隧道に盛土・切取が続いて土工の容易さから現位置の選ばれたものであろう。結果、切取区間に隔絶されたものだが、連鎖閉塞の運転要員を要し、付近に集落も存在してその便宜に客扱いも行っていた。その設置時に地元からの要請に応えて酒田方面への通勤・通学の利便を図ったもので、現行の停車列車もそれを引き継いでいる。
これも東日本旅客鉃道の発足に際して駅に認められての「発見」であろうが、とても「秘境」とは云い難いし、過疎地に所在するでもない。
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(*1) 断崖上部の国道より車道が通じ、本屋に職員の宿舎も建てられ、旅客を便宜的に扱ったように海岸へと降りれば数戸の漁家も存在していた。

ここの前後区間は線路の断崖の海岸線に接近して、蒸機の時代から注目されてはいたのだけれど、決定的な位置と云うのは無かったように思う。線路に近づくと並行する国道を画角に排除出来ないからでもあった。
この日も、吹浦に降りて十六羅漢を見物しながら信号場まで歩いても気に入った位置の見つからず、女鹿の集落から三崎峠を越えていた旧道に入って、ようやくに線路と海を眺めたのだった。
列車は荷2048列車。残念なことにロケハンの時には無かった電化柱が建てられてしまっていた。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2 1/500sec@f4 Y48 filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.
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