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70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

徳沢 (磐越西線) 1979

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阿賀野川(福島県域では阿賀川)の谷は古代からの交通路であったが、その流れを用いた水運は中世以降に本格化した。けれど、それは河口より津川までのことで、そこより上流は山峡を曲流して舟の通行可能な河川ではなく、明神や西海枝(さいかち)の浅瀬や銚子ノ口の急流がそれを妨げていたのである。
その最初の開削工事は、徳川幕藩体制初期の1620年に時の会津藩主蒲生忠郷により目論まれるも、工事途上に現在の喜多方市利田(かがた)地内で斜面の崩落が起き、これにて水流に3メートル程の落差を生じてしまい頓挫する。これは後に利田ノ滝と呼ばれ、今は1943年竣工の山郷ダムの貯水域に水没している。
その後の1645年にも会津藩転封後の保科正之が試みるが、これも失敗に終わり、ようやくに1685年の開削工事にて辛うじての運行に成功したと云う。会津藩は姓を松平と改めた正容の時代であった。それでも渇水期の通行には難儀して1729年に追加工事の記録がある。

会津の領主がこれほどまでに阿賀野川の舟運に拘ったのは、産米の日本海廻船(北前船)を利用した上方への移出のためであった。風向の関係でそれの運行される4月・6月に領民の百姓は農作業に多忙で陸路輸送の人夫確保が難しく、それに比べて人手を要さない水運を必要としたのである。
揚川通船と呼ばれた津川から塩川の区間には8箇所の河戸(船着場)が設けられ、津川から遡って最初の河戸が徳沢であった。運賃はこの河戸間ごとに決められていたらしい。ここには唯一の舟番所も置かれたから主要な中継地点だったのだろう。

1914年11月14日の徳沢を含む津川-野沢間を最終区間とした岩越線(現磐越西線)の全通により、阿賀野川の水運は壊滅するのだけれど、この揚川通船区間に限れば、運行水路河道や手綱道(*1)の維持管理の困難から、それ以前より衰退していたようである。
1882年に福島県令に着任した三島通庸の住民弾圧に近い強権行政と裏腹の積極的な土木政策により、越後街道(ほぼ現国道49号線)の馬車道への改修の進んだこともあるのだろう。
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(*1) 舟を上流に運行する際に、それに綱を架けて牽く人夫が歩く水流沿いの通路である。

写真は、阿賀野川徳沢橋梁を往く224列車、郡山行き。普通列車の7両組成は、かつて首都と新潟を連絡していた主要幹線の名残と云えようか。
郵便局舎と合築される前の木造駅に降りて、その橋梁を見上げる位置まで坂道を下ると船着場に着き、そこには放置された起重機の残骸があった。聞けば、かつて船の揚陸に使われたと云う。水面との位置からは、1929年に竣工の豊実ダムにて水位の上がった以降の設置と思われ、ここでの水運に使われたではなさそうだった。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4 1/250sec.@f5.6  Non filter  Tri-X(ISO320)  Edit by PhotoshopLR4 on Mac.
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