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70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

三見 (山陰本線) 1974

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専ら北海道に奥羽地域をフィールドにして、西日本方面の鉄道はほとんど撮っていない。北の人間だから、既知の風土に惹かれたのだとは思うが、裏を返せば南のそれは苦手だったことになる。ひとつには景観の主要な部位を成す植生にあった。西に、南へと向かう程の照葉樹、広葉樹の大きく枝葉を広げた森林を画角に切ると、地表を覆う地衣類のごとくに強弱に乏しく、加えての北には無い竹の群落の遠景に見ての畝りにも似た様には、息苦しささえ覚えたのだった。平たく云えば、その「もっさり感」を敬遠したのである。
後にホウムグラウンドにした飛騨地域にしろ、この74年に幾度か向かっていた西山陰にせよ、西国に在っては心象の風景に相似形を見てのことだ。

山陰海岸との呼称は、京都府北部から兵庫、鳥取県域に跨がる延長凡そ75キロの海岸線「山陰海岸国立公園」の指定域を指して使われるようだ。ならば、この山陰西部の海岸を何と呼んで良いのか承知しないが、ここにも日本海の成因にかかわると思われる険しい地形が続いている。
とは云え、五能線や羽越本線の沿線を歩いていた身には、西の穏やかな海岸風景に見えた。多分、この年の秋には蒸機の消えて風雪の季節を知らぬからだろう。
三見に降りての徒歩には、連子格子の町家と土蔵の古い街並に、由緒の在りそうな社寺山門を記憶する。当時には知る由もなかったけれど、ここは1600年代初頭に萩城下と赤間関(現下関)の間に開かれた赤間関街道の経過地であった、海沿いの漁業集落-方免村に1665年に置かれた宿駅町-三見市(さんみいち)なのだった。
『萩市史』によれば、街道沿いの目代所(駅逓)を中心に、前間5間、奥行き15間に町割りされた町家47軒が建ち並び、他に馬持ち31軒、宿持ち31軒、小商いの商店17軒の規模だったと云う。1889年の三見村を経て1955年に萩市の一部となっていた。
1925年4月3日の美禰線としての鉄道開通までは牛馬・馬車交通の要衝として機能したことだろう。40年前、その残滓を通り過ぎて飯井方に歩いたわけである。

尾ヶ崎前後の海沿い区間まで、山陰本線が三見トンネルで抜ける山稜を越えて歩いた、その古の赤間関街道はかなりの細道だった。十分とは云えないロケハンにポイント探して先を急いだが、尾ヶ崎を回り込む辺りに上れそうな棚田を見つけて安堵した覚えが在る。
写真は、尾ヶ崎トンネルに向かう825列車、益田からの下関行き。列車の位置は、僅かな延長だけれど25.7パーミルの勾配である。
手前に伸びるのが旧赤間関街道。

[Data] NikonF2A+AutoNikkor50mm/F2 1/250sec@f5.6 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.
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コメント

Re: こんな立ち位置が

いつも、ありがとうございます。
レスポンスの遅くなりまして、申し訳ありません。

尾ヶ崎のトンネル上には上れたのですか。それこそ知りませんでした。
そちらの方が煙は期待出来たような気がしますね。
この日は、尾ヶ崎を回った先で<まつかぜ>を撮り、そのまま飯井へ抜けてロケハンしたと記録にはあります。
蜜柑畑だったように思いますが、随分と歩き回った気がします。

  • 2014/02/10(月) 02:51:06 |
  • URL |
  • Wonder+Graphics #-
  • [ 編集 ]

こんな立ち位置が

尾が崎の鼻の方に足場があったんですね。
三見と飯井の間はほとんど歩いたのですが、
ここには気が付きませんでした。
線路脇ばかり歩いていたので、
見落としたのでしょう。
尾が崎トンネルの上から撮影したような
記憶があります。
なかなか引きが取れない場所にも拘わらず、
いつもながらさすがですね。

  • 2014/02/08(土) 18:51:12 |
  • URL |
  • マイオ #pcU4xDNY
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