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70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

今川信号場-越後寒川 (羽越本線) 1971 

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国鉄が小荷物輸送から撤退して早四半世紀を越える。それは1986年11月1日ダイヤ改正を期してのことだったけれど、1970年代から規模の縮小の始まり、80年代に至ればあまり利用されるものでもなくなっていたから、その実際を知らぬ世代が大半となっていよう。
けれど、少なくとも70年代前半までは荷物を発送しようとすれば、郵便小包か鉄道小荷物しか選択肢はなかったのである。この当時、トラック輸送の混載便も勿論存在したが、それを個人が利用するのは余程大型か嵩高の荷物に限られ、場合によっては貨物と呼ばれて、その運賃とともに身近な手段とは云えなかった。郵便小包は重量6キロまでに制限され、それを越えれば客車便と通称されていた鉄道小荷物が唯一であった。

70年代前半まで、と書いたのは、1976年1月にヤマト運輸による「宅急便」なる一般向け小口混載輸送事業が始められたからである。多くの路線トラック業者の参入を招き、瞬く間に鉄道小荷物のシェアを浸蝕したこのサーヴィスは、当時の関係者への非礼を承知で書くのだが、その商品開発は国鉄の荷物輸送を反面教師とすれば事足りたはずである。
梱包に頑丈な箱や防水紙、十字に複十字にの紐掛けを要求され、2枚の鉄道荷札を括り付け、しかも駅の荷物フロントまで持込まねばならない。着駅まで2日から5日を要し、全ての駅で配達業務を行っていたのでは無いから、到着通知のハガキを手にした引き取りも常態であった。紐括りの荷姿は、数度の仕訳や積替に紐を鷲掴みしての放り投げの荷役ゆえであったから、荷傷みも多々生じていた。
生活水準の向上した国民意識とは明らかに乖離していたと云わざるを得ず、事態に慌てた国鉄は、手小荷物業務を外部委託していた鉄道荷物会社他の受託業者をテコ入れし、個別集配を一体化した小荷物営業を商品名「宅配鉄道便Q」として1982年に開始し、これに市中の取次店を整備した「ひかり宅配便」を1985年より始めるが、最早列車輸送を維持する程のシェア回復は難しく、1986年11月1日ダイヤ改正での大幅な撤退は既定方針であった。

国鉄による荷物輸送量のピークは1億5000万個余りを記録した1963年度とされる。戦後を通じて70年代に至るまで、年末始繁忙期の荷物に埋め尽くされた汐留駅の多忙は、毎年ニュース映像に記録される年末の風物詩でもあった。
旅客列車に併結の荷物車によって全国津々浦々に輸送されて来た小荷物は、幹線における列車本数の増強とともに荷扱いにともなう停車時分や乗降場の荷役時間中の占有が問題視され、1960年代には専用列車化が推進されたのだった。荷物列車と呼ばれた列車種別である。これには郵便輸送の多くも一本化された。輸送量のある幹線にのみ設定され、本数こそ多くはないが、札幌から鹿児島までを走ったから眼にする機会は少なく無かった。
写真は、日本海縦貫線を走破していた荷2048列車。この直後の1972年3月15日改正で荷4048列車となり、荷物輸送の終焉まで存続した。この頃、新津機関区のC57の秋田までの運転は821列車で下り、翌日の荷2048で上る1仕業だけと記憶する。

[Data] NikonF PhotomicFTN+AutoNikkor200mm/F4 1/250sec@f4 Y48 filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR4 on Mac.
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