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70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

撫牛子 (奥羽本線) 1980

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1930年代の日本は、早期に世界恐慌の影響を脱しつつあったものの、これも世界的天候不順から冷害に凶作が続き、加えての昭和三陸津波にて東北や北海道地域の農家は疲弊し、一方では軍部が発言力を高め2.26事件を経て、遂には大陸での開戦に至る不穏な時代にあった。
けれど、それは戦前における鉄道の黄金期でもあり、鉄道省は、その営業線をほぼ唯一の基幹交通機関として長距離輸送は勿論、都市圏に地域内輸送にも、技術革新を背景に様々なサーヴィスによる増収策を展開していたのである。超特急<燕>の運転、省営自動車の運行、長距離電車の実用化、丹那・清水隧道の開通、3等寝台車、連帯運輸制度に貨物の宅扱い制度など、後年にエポックとなったこの時代の事象には事欠かない。現代にも繋がる地方都市圏近郊区間での旅客のフリークエントな輸送施策もそのひとつであり、これに導入されたのがガソリン機関による気動車であった。

単車構造の鉄道省最初のガソリン動車キハニ5000形の12両は、1929年に日本車輌を出場し、翌1930年2月1日より東海道線支線の大垣-美濃赤坂間にて試用の後、初期故障などの曲折を経乍らも同区間の他、室蘭、仙台、姫路、徳島などの近郊区間に実用された。この車両は試作的要素を持ち、48PSのガソリンエンジンに従来の客車同様の構造が単位重量あたりの出力不足を招くなどの課題を残したものの、フリークエント運転による旅客の誘発効果が確かめられ、1933年からはボギー構造の標準型キハ41000形(登場時はキハ36900形)、それの支線区用であるキハ40000形、そして1934年には流線型車体を採用したキハ42000形が量産され、全国各地に導入がなされたのである。
仙台鉄道局においては、弘前機関区へのキハ42000の配置(両数不明)により弘前近郊区間の頻発運転にこれを運用した。弘前市は1898年10月1日に歩兵第4旅団および歩兵第16旅団からなる陸軍第8師団が、ここに創設されて以来、平時1万人規模の師団に加えて軍関連施設や関連事業所などが立地、人口増に経済規模も拡大して、県都青森を凌ぐ都市に発展していたのである。
ガソリン動車の運行は、1935年4月15日より奥羽本線の大鰐から川部を経て五能線五所川原の区間にて開始され、それは第8師団の兵営地帯を貫通するものであった。この際には既設停車場間に10箇所の停車場を新設、簡易な乗降場設備に旅客フロントを持たないこれらは、ガソリンカー駅と通称された。
ここに限らず、全国のガソリン動車運行区間に営業施策として展開されたもので、戦後に旭川鉄道管理局管内他に大量に設置された局独自の仮乗降場設備の源流を成すが、ここでは全てが旅客駅であった。
順風であった運転も、1937年7月からの日中戦争戦時下に至ると同年12月には早くもガソリン消費統制が施行され、以降数次に渡る統制発令に中止せざるを得なかった。ここでの運行停止日は分からないが、ガソリンカー駅としての開業駅は1940年11月1日を以て廃止されている。
撫牛子は、その中で生き残った幸運な例である。(他には五能線林崎が戦時の休止を経乍ら戦後に復活している) 弘前に隣接して利用の多かったものだろう。

今や、市街地外縁の住宅地に呑み込まれんとしている撫牛子も、この当時までなら周辺には長閑な田園が広がっていた。農道を歩いて岩木山の方角を望むけれど、強い西日に溶込んで判然としない。
ガソリンカーの末裔達の4両編成は、キハ40+22+11+28と全て形式が異なる。この頃には当たり前に見られた組成。五能線直通の1740D、鯵ヶ沢行きである。

[Data] NikonF3P+AiNikkor28mm/F2.8 1/500sec@f8 Nikon Y52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

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