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70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

羽前沼沢 (米坂線) 1971

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戦後の道路整備は1952年制定の道路法(1952年6月10日法律第180号)により進められた。ここでは、国道は1級と2級路線に区分され、国土を縦貫ないし横断する基幹路線である1級国道の40路線と、これに接続して幹線道路網を構成する2級国道の144路線が政令にて指定された。
当時に国道とは云え、それは1960年代に至るまで基幹道路と認定された程の意味しか持たず、一部を除けば未舗装の砂利道に過ぎなかった。記憶を辿れば、国民車と云われたトヨタ「パブリカ」での遠出に走った国道5号線は、市街地や集落内こそアスファルト舗装の進んでいたものの、そこを一歩離れれば砂利に土埃の舞う田舎道が続いたものだった。
道路の事情に詳しいでは無いが、これのバイパス建設を含む曲線や幅員の改良の進展の見られるのは60年代後半からで、1965年の道路法改正で1・2級が統合されていたとは云え、当然に旧1級国道区間から手の付けられ、当時の経済成長を背景にした旧2級路線への着手は多くの路線で70年代に入ってのことである。

この米坂線とともに荒川水系流域を遡り宇津峠を越えて置賜平野に達する旧2級国道であった国道113号線の改良工事は、1967年8月にこの地域を襲った「羽越水害」からの復興を兼ねて、関川村域や小国町西部区間が先行して施工されたものの、1971年当時に宇津峠区間には一部区間に着手されたばかりであり、宇津峠にトンネルこそ開通していたけれど、前後には農道然とした砂利道も残されていたのだった。
特に、羽前沼沢から伊佐領へは、代替のトンネルが県道として開通していた子子見、綱取の半洞門区間までは細道の国道で、それを駅前から30分ばかり辿ると左手に現れたのが明沢橋梁(l=65M)であった。この半径200メートルの曲線上の橋梁は、明沢川と桜川の合流点に架橋されて橋梁周囲が開けていたから、この細道の国道上に多くの鉄道屋を集めていた。伊佐領方向に進むと明沢の上流側を巻いて、その右岸の段丘上に達して格好の俯瞰位置も在ったのだが、峠を下る列車を撮ることになって当時にここに立つ人は疎らだった。

写真は、その位置から見下ろした611D<あさひ1号>。気動車急行なら勾配は無視して良い。
仙山線・米坂線経由で仙台と新潟を連絡していた2往復の内、この611Dと上りの614Dは多層建てを基本とした東北地域の気動車急行群にあって、珍しく始発から終着まで解結の無い運転であった。但し、共通運用の関係で順位は新潟方から7-11号車とされていた。
座席指定車には、当時新潟運転所に4両の配置の在ったキロ25格下げのキハ26 400番台が所定だったのだが、この日は何故か組成が無い。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2 1/500sec@f5.6 Y48 filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

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コメント

Re: 沼沢橋梁

風太郎さんの記事で、このカットを思い出した次第です。

この位置は旧道から上った斜面だったのですが、その後には杉の樹林となって失われました。
画角にも写っている対岸の旧道からも、樹木が成長して鉄橋は見えなくなっています。
明沢橋梁は撮れないのが現状ではないでしょうか。

  • 2013/12/14(土) 13:36:20 |
  • URL |
  • Wonder+Graphics #-
  • [ 編集 ]

沼沢橋梁

早速沼沢の写真を見せて頂き有難うございます。
そうですか、晴れた日に上から見るとこんな場所だったんですね。
私も吹雪の日に「鉄道屋」の一人として国道上に立った訳ですが、
天候もさることながら撮っている人など見かけませんでしたね。
時は流れてキハ52 の最後など、このポイントも大入りだったのでは。

  • 2013/12/14(土) 13:17:22 |
  • URL |
  • 風太郎 #ORZvdv76
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