FC2ブログ

70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

藤田 (東北本線) 1979

fujita_02-Edit.jpg

前にも書いたと思うのだが、ここで仙台を中心とした地域の記事の多いのは、そこが東北本線のほぼ中間に位置したからである。上野からも青森からも仙台で朝を迎える夜行の設定があり、道内撮影との往きに帰りにの立寄りに利便があったのである。小牛田に降り立つ陸東線や石巻線には往路の、青森から<八甲田>を使う仙台市内や仙山線へは帰路の立寄りが多かったと思う。
東北本線の、この宮城・福島県境の国見峠区間には電化幹線と云うこともあり、それほど熱心に通った訳では無い。福島・会津磐梯特殊用均一周遊乗車券(販売名-ミニ周遊券)の自由周遊区間に白石までが含まれていて、会津行きの際に足を伸ばしたことも在るけれど、大抵は道内からの帰路であった。峠とは云え、歩くのは田園の田舎道ばかりだったし仙台周辺の帰りがけの駄賃と云ったところである。但し、ここへ向かうには<八甲田>を白石か次の福島で降りていた。

日本鉄道が、40分の一勾配(=25‰)を以てしてまで国見峠を経路と選定した経緯は良く分からない。この時代の文献調査の基礎資料である『日本鐵道史』(1921年鉄道省編纂)には、開拓使雇いの鉄道技師ジョセフ・ユーリー・クロフォードに委託した調査にて阿武隈川西岸に沿う経路が示されたとあるものの、これが国見峠を越えて刈田郡内の通過に変更された経緯は記述しない。通説には、それは当時に一大養蚕地帯であった伊具郡内阿武隈川流域住民の強硬な鉄道忌避の結果とされるが、改めて関係地域の市史、町史や村史の当該個所を読んでみると、それぞれの記述のかなり相違しているのが分かる。自治体の正史であるから無理からぬことで、その濃淡から読み解く他に無い。
養蚕を主要産業としていた事情には伊具・刈田の両地域ともに変わりはなく、それぞれに在った、得体の知れぬ「汽車」に対する蚕生育への不安からの強硬な反対運動が書かれている。そして同時に刈田郡の白石・大河原、伊具郡の丸森・角田ともに線路誘致を主張する有力者の存在も記録され、地域史からは双方に反対勢力と積極的な誘致論の併存が読み取れるのである。
委細は省くが、この状況下に経路決定の要因となったのは、大河原の有力者尾形安平の存在に思える。誘致論者の彼は日本鉄道の株式応募を地元素封家に積極的に説いて回り、鉄道用地となり得る広大な土地も私費にて買収しており、鉄道側は反対運動に無縁のこれを評価したものであろう。そこに至る経路での運動には会社発起人のひとりである銀行家渋沢栄一が白石の豪商米竹清右衛門を説得して用地を提供させ落着を図った様子である。
かくして、線路は当時に宮城県南の中心都市角田を外れて、白石-大河原-船岡を経路としたのであった。この伊具郡と刈田郡側の鉄道を巡る確執は、戦後に丸森線の建設と東北本線の電化・複線化に際して再燃するのだが、それは別項に譲る。

国見峠は県境の山稜に開けた低い鞍部を通過する標高190メートルばかりの小さな峠なのだが、それでも福島・白石方ともに比高100メートルを上る難所に違いなく、鉄道には建設規程に許容される限界の25パーミルが連続して、電機運転に至るまで重連の領域であった。この頃には残存していた気動車急行は、それこそ停まりそうな速度でここを越えていたのを思い出す。けれど、軽快に駆け上がる電車特急はそれを感じさせない。
まだ、首都圏とは築館インタまでしか通じていなかった東北道と併走するのは、1009M<ひばり9号>。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5 1/500sec@f5.6 Y48 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

関連記事

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://monochromeyears.blog.fc2.com/tb.php/143-9e4300e2
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)