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70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

大館 (奥羽本線) 1972

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特急を牽く機関車の掲げる円形の列車名表示板、所謂トレインマークは、戦後には「列車標」と呼ばれ、1954年12月1日付にて第一種(後尾用)と第二種(前頭用)が「国有鉄道鉄道掲示規程」「同鉄道掲示基準規定」に指導標として規定されたのに始まる。1960年3月30日付総裁達により、「列車標」を「列車名標」に改め、電車・気動車による優等列車運転に対応して第二種に甲・乙・丙の区分を設け、機関車掲出の円形型は丙種とされた。なお、この際に電車・気動車・客車特急の電照式掲示を第三種と規定している。
1963年の<みずほ>を最後に第一種の使用も無くなり、国鉄部内で1961年以降に進められた規程・規定類の近代化により、1967年12月10日付にて掲示規程は全面的な見直しの行われ、そこでは第一種から第三種までの全てが「トレインマーク」の名称に一本化されたのだった。鉄道屋としては、機関車に掲出のトレインマークと電車等の電照式列車名表示(愛称版)は区別したいところだが、これ以降規定上はどちらも「トレインマーク」である。

これらは車両の一部と見なされて管理や保守、運用は車両に準じ、検修区所や運転区所がそれに当たって来た。車両の配置区と同一のこともあるが、寧ろ別の事例が多く、その独自の運用が列車や線区ごとに運転区所に指定されたのである。これら区所が列車仕立駅などに派出所を置いたのは、トレインマークばかりでない列車名標や列車種別標、行先標などの着脱実務と管理のためである。大宮の鉄道博物館ではクハ481の車両展示に愛称板の交換風景が再現されているけれど、上野駅でこれを作業していたのは上野駅の職員ではなく、尾久客車区上野派出の要員であった。
機関車掲出のトレインマークに限れば、伝統的に車両配置の機関区が管理した事例が大半を占める。特急列車が数本であり、機関車にも特別に整備した特急組の運用が組まれていた時代には、それはほぼ機関車と一体運用であったから着脱は自区での出入区の際に限られた。比較的短距離に複数の特急仕業の在った門司機関区では、煩瑣を避けて特急組機関車の除煙板裏側に複数の列車標を常備して運用を一元化していた。
ところが、1970年代至れば電化、内燃化の進展にて機関車の集中配置が進み、また特急の設定も増えれば、機関車は特急から貨物列車までに共通に運用され、トレインマーク着脱の実務も配置区所の出入区時ばかりではなくなり、仕業行路中途で必要とされることの多くなった。
これ自体は前記のとおり連綿と行われて来た業務の範疇を出るものでないが、国鉄の財政悪化から省力化や作業効率向上の叫ばれた時代と重なり、1970年春より始められた生産性向上運動(マル生運動)の国鉄当局による強引な推進に反発した組合との労使関係の悪化も加わって、列車運転に必須の部材では無いトレインマークの運用管理が問題視されたのであった。これは歩み寄ることの無かった両者の協議の迫間に落込んだとして良く、72年頃より区間によっては掲出の無い特急列車が現れ始めていた。
区所によっては特急牽引を含む仕業の出区から帰区まで装着のままとする方策が取られ、常磐線内で<ゆうづる>のマークを付けたままのED75による貨物列車や普通列車の見られたのも、この頃である。
合理化を拒む組合側に対し、要員削減の口実としたい当局側は1975年3月10日改正でのトレインマーク廃止を決定するのだが、既に多くの列車や区間で掲出のなかったのが実際であった。東海道・山陽線の東京-下関間の除外されたのは、この区間を牽いた東京機関区のEF65が同区間を往復するばかりの特急専用機ゆえである。

写真は大館を発車する4001列車<日本海>。急行用などへ格下げ後の20系客車なら見慣れた光景かも知れないが、これは堂々の特急列車である。編成半ばには食堂車も営業している。秋田機関区は、この1972年夏にはトレインマーク運用を廃していた。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor135mm/F2.8 1/500sec@f5.6 Y52filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

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