70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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角川 (高山本線) 1997

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角川なら玉屋である。ここに多々降りるようになった頃には食堂は止めてしまっていて食料・雑貨の営業だけだったけれど、食料(と云っても菓子パンの類いだが)に飲料の補給には欠かせない店だった。おそらく半月に一度程度だったろうパンの仕入れ(配送)には賞味期限ギリギリのパサつき加減だったものの、徒歩の鉄道屋には有り難い存在だったのである。
ここでの乗車券類簡易委託販売の受託先でもあり、丸めがねの恰幅良いご婦人が窓口に座っていたのをご記憶の方もあろうかと思う。あれが玉屋のおばちゃんで、撮影の度に世間話などから情報を仕入れさせていただいたものだった。

2004年10月にこの地を襲った台風23号の水害にて飛騨古川-猪谷間が長期不通となった高山本線は、翌2005年10月1日に角川までが復旧し、終端の代行バス乗継ぎ駅となった角川は列車の折返し運転に際して、下り本線の使用を停止して駅舎側の上り線のみにて扱いの行われた。これについては当面の終端駅でもあり、鉄道雑誌などで情報も得ていたのだけれど、玉屋への簡易委託契約の打切りは、2007年9月8日の全線開通後となった再訪にて知るところだった。
久し振りに再会したおばちゃんは、足腰を痛めていたこともあって列車時刻毎の駅通いの無くなって清々したとの弁ではあったものの、些かに張りを無くしたのも確かな様子に見えた。飛騨古川駅からの委託廃止の話しは2005年の春と聞いたから、それは復旧工事に関わり無く東海旅客鉃道の既定方針だったのだろう。
全線復旧の暁には使用再開と思っていた下り線も、被災前ダイヤでの夜間に一度のみの列車行違いには不要と判断されたものか、それを廃して棒線化されてしまったのだった。

写真は、上り線をゆっくりと通過して往く1026D<ひだ6号>の後ろ姿。
背景が山稜斜面へと抜けるこのホーム上からの画角では、季節や時間毎にそのスクリーンを楽しめた。そこまでのある程度の距離には、その空気感も写り込んでくれるので好きな場所だった。後追いが予定調和するような画角にはあまり出会えない。これは紅葉黄葉の始まりの頃である。
玉屋のおばちゃんは切符売りの傍らホームの清掃もしていて、この時は画角左側で落ち葉を掃き出していたものだから、特急が来たらホームに出ないようお願いした覚えの在る。
今は下り列車もやって来る画角なのだが、旧下り線の軌道撤去跡に荒れた乗降場も入り込むのには絵にならなくなった。
棒線化で用済みの跨線橋ばかりでなく、開業以来の木造駅舎も2010年秋までには取り壊され、翌年3月には小さな待合所に取って代わられた。最近に降りると、玉屋の店はひっそりと閉じられ、新聞の取り次ぎ販売も止めてしまったものか、その看板類も全てが取り払われていた。訪ねれば、おばちゃんの顔を出すとは思いもしたが、少しばかり躊躇する佇まいだった。

[Data] NikonF5+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D 1/250sec.@f4 C-PL filter Ektachrome Professional E100SW [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

〔お詫び〕3月いっぱいに本業が極めて多忙となってしまい、更新の滞り気味なことご容赦下さい。

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滝谷 (只見線) 1971

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1949年に発足した日本国有鉄道が、多くを抱え込むこととなった非採算線区の運営に線区別経営方式導入に至る経緯については、大湊運転区 (大湊線) 1973 に書いた。
1958年度内に各鉄道管理局管内で少なくとも1線区以上を同方式とするよう求めた同年7月の副総裁通牒に対し、既に仙石線が試行線区となっていた仙台局が選定したひとつが会津線であった。これを受けては当時に会津若松-会津川口間、西若松-会津滝ノ原間の延長118.2キロを管轄する会津線管理所が1959年4月30日付にて会津若松に開設された。
増収の見込めない線区での収支改善とは運営経費の削減の他に無く、鉄道管理局長から大幅な権限委譲を受けた線区別経営体では、線区限りの弾力的な列車設定や運行、現場による用品調達の工夫なども為されたものの、あくまで主体は駅務、運転、保線などの見直しによる要員削減の推進であり、会津線管理所においても設置初年度の1959年度末までに61人の要員を減らしたとある。
しかしながら、損失額の低減は1958年度の395.087千円が386.837千円と僅か800万円ばかりに留まり、営業係数は230から239へと逆に悪化していた。これは奥只見の電源開発事業に1957年12月から運用を開始した通称田子倉線への接続線として会津宮下から会津川口の区間を1956年9月20日に開業し、建設資材輸送の貨物列車運転は在っても旅客収入のほとんど見込めない新線を管轄に加えていたことによる。そして、この貨物列車の運行は線内輸送の客貨分離による合理化策、即ち気動車の導入を遅らせる要因ともなっていたのである。
1963年度に磐越西線運用には気動車の配備されるものの、会津線へは管理所廃止直前の1967年3月20日改正での滝ノ原方列車の一部置替を待たねばならず、全面気動車化も同方面が先行して、川口方には1971年8月29日の只見線としての全通以降も1972年10月2日改正まで蒸機牽引の客車列車の残存を招いたのだった。

滝谷至近の滝谷川橋梁(l=155M)は、当時の撮影者には外せない定番位置だったと記憶する。橋梁は3パーミル勾配なのだが、滝谷の発車直後に加えて原谷トンネルの13パーミルには力行の煙が期待出来たのである。
福島・会津磐梯ミニ周遊券の自由周遊区間に含まれないこともあって余り足を踏み入れなかった只見線なのだが、初めての滝谷下車でこの積雪の光景に出会えていた。これを撮れたので後は会津線側にばかり通ったと云うのが正解かも知れない。客車列車の残存もこの線に遅れて来た撮影者としては誠に幸いと云えたのだった。
列車は425列車の会津川口行き。
今は樹木の成長でこの位置には立てないと聞くが、この当時には右にも左にも回り込めて、橋梁を横側からも撮れたのである。ただ、残念ながらそれがどんな場所だったのか覚えていない。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor5cm/F2 1/250@f8 Y48 filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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野辺地 (大湊線) 1973

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ルーラル地域の線区に一往復なり二往復程度設定されていた貨物列車は、1970年代の前半までならそれなりの財源を持って運行されていた。既に近距離輸送なら道路交通への転移も相当に進んでいたはずではあるが、高速道路の整備途上のこの時代には鉄道に依存する荷主もまた数多かったのである。以来1980年代に向けて機関車に従う貨車の目に見えて減るのは、それの整備進展に加えて度重なった貨物運賃の引上げが荷主の流失を加速したゆえ、と説明されるのだけれど正確では無い。それらを事由に国鉄自らが中小荷主を切り捨てた結果となのである。幹線物流へのトラックの進出により、その即応性には高級貨物が浸食され、やがては大口貨物をも失えば、ヤードを経由した国鉄の車扱輸送は恐ろしくコスト高となり、政策的に低廉に押さえられた運賃には自身が耐えられなかったのである。
国鉄総裁の諮問機関であった貨物経営改善委員会は1969年7月に行った中間報告で、直行・一貫輸送体系の整備に輸送施設の整備を重点項目とし、設備改良の効率化には拠点駅への集中投資の要を説いていた。それは中小貨物扱駅の集約化を意味して、1971年度以降に国鉄はルーラル線区の貨物営業から順次撤退を開始したのだった。各々の線区に拠点駅は残されたから貨物列車の運行自体は確保されたのだけれど、そこまでトラック輸送を強いられた小駅での荷主は鉄道輸送を諦めざるを得ず、線区輸送量は自ずと低下して往ったのである。
来るべき1984年2月改正は1985年度での収支均衡を法的に迫られた国鉄の苦渋の決断との見方もあろうが、既視感ある未来として準備されていたとも云えよう。
大湊線は1972年3月15日改正を以て、海陸連絡荷役に埠頭線まで設備していた下北を拠点に残して線内各駅の貨物扱を廃止、貨物列車の運行は同駅着発で1984年2月改正まで残ったから、それの典型路線ではあった。

1973年の春時点ともなれば、道内と往来した東北線筋に残る蒸機運転は石巻線と大湊線だけになっていた。上野と青森のほぼ中間に位置して双方から早朝に到着できる夜行急行の在った小牛田には、道内との往来の途上に多々降りていたのだけれど、臨貨運転の無ければ撮影チャンスの一日に一本だけと云う大湊線には、なかなかに足の向かなかったのである。それでも、この事態を迎えてはようやくに野辺地へと幾度か降り立つことになった。
けれど、予定した道内撮影スケジュールの往きか帰り、つまりはその日程の最初か最後に臨貨運転の確認出来れば、上野を<八甲田>で発つなり、帰路に青函を深夜便で渡るなりで早朝に野辺地到着として一日を線内で過ごしたのだが、そうでなければ夜行<すずらん>から接続した午前便の連絡船を選び、13時過ぎの野辺地で定期貨物列車を駅撮りしてお茶を濁したものだった。

写真は、野辺地の中線(2番線)から発車して往く783列車。この頃には下北着発貨物だけとは云え、結構な財源を牽いていた。
野辺地には1968年8月5日より、大平トンネルを掘削して新線に切替られた東北本線の千曳からの旧線を借り受けて南部縦貫鉄道が乗入れており、そこのキハ10形内燃車-通称のレイルバス目当て降りた向きも多かろうと思うが、個人的にはそれよりもこちらだったのである。

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor50mm/F2 1/250sec.@f8 Y48 filter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

〔お詫び〕本業が極めて多忙となってしまい、更新の滞り気味です。3月末頃までとご容赦下さいませ。

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