70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

川渡 (陸羽東線) 1971

kawatabi_02-Edit.jpg

1997年から流行りの温泉駅を名乗っているけれど、川渡温泉は直線で1.2キロばかりを離れた荒雄川の対岸であり、一日に僅か5便のバスの連絡するものの、それは古川鳴子間路線の経路上に停留所の所在するに過ぎない。今にここに降りて温泉を目指す旅客など皆無であろう。

川渡温泉は平安期より記録に現れると云う古からの温泉場ではあったが、陸羽線の線路選定は当初より岩出山鳴子間を荒雄川左岸として、そこを経過地とはしなかったのである。長大な第一と第二の荒雄川橋梁を架橋してまでのその事由に「陸羽東線建設概要」は触れること無く、玉造郡一栗村に置いた池月停車場を「栗原郡に通ずる要衝に設置」と書くのみなのだが、この間の右岸には山稜の迫って隧道を要するとも思われる地形の箇所が見られるから、それとの建設費を勘案した結果と云うのが正解だろう。
けれど、1914年4月19日に玉造郡温泉村大字名生定に仮の終端駅として開かれた停車場は川渡を名乗ったのである。江戸期以来の名生定村にかかわらず、当時に合併して同じ村内となっていたとは云え対岸旧大口村の、しかも小字に当たる川渡を採ったのは異例として良い。やはり温泉場として高名だったゆえであろうし、駅も実際に湯治客で賑わったには違いない。
当然に要員が詰め、構内には機関車駐泊所も併置された運行の拠点であったが、時代の下った1983年のCTC制御施行にて要員の引揚げられ、待合室に残存したキオスク売店が乗車券類販売を受託していた。それも1991年には撤退して寂れるばかりの中での温泉駅改名は、地域プロモウションに加担させられているだけのことで、古い鉄道屋にはあまり愉快に思えぬ。

この1971年当時、陸羽東線には3本の重連牽引列車が存在した。新庄を朝に出て小牛田まで通した1790列車、昼過ぎに川渡から堺田へと峠を上った前補機の1793列車、そしてその補機の川渡からの帰区回送の行われた旅客の724列車である。回送とは云え、小牛田へと続く下り勾配にぶら下がるばかりの後機ではなく、本務機前位への連結ゆえ停車場からの進出や第一荒雄川橋梁への築堤等では力行もしてくれたので、これを目当てに午後には山を下りるのが定番の行程だった。
写真は11月の低い西日に川渡を出て往く724列車。画面構成の拙さはご容赦いただく他ない。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor5cm/F2 1/250@f2.8 NON filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

スポンサーサイト

前谷地 (石巻線) 1973

040-13-Edit.jpg

大崎平野を空中写真に眺めれば、さながら海に浮かぶ島の如き丘陵地の散在が見て取れる。北上山地南端の篦岳丘陵や仙南平野とを分ける松島丘陵から樹枝状に連なる丘陵群である。
小牛田から東進する石巻線は、二箇所でこれに行く手を遮られた。格好の俯瞰位置となっていた欠山からの尾根先もそのひとつで、ここはその先端部を辛うじて迂回する線形が選ばれたが、前谷地の手前で松島丘陵が北に張出した旭山から龍ノ口山への標高50メートルから100メートルの高みは避け切れずに、鳥谷坂隧道を穿って通過していた。

前谷地に降りて、その丘陵地へと緩い勾配を上ると旭山へと続く斜面に箱泉寺なる寺院が所在する。800年代初頭から遅くとも870年代までの開基とされる古刹である。おそらくは一つ前の東北地方太平洋沖地震である869年の貞観地震に沿岸への大津波を経験しているだろうし、この災禍や864年の富士山噴火など続く天変地異による世相不安の人心安定に開かれたのかも知れない。
一帯は旭山伏流水の湧水が豊富で、古には流れ出るそれを辿った鬱蒼とした樹林の山中に建立されたものだろう。そして水流の先は江合川の蛇行する一面の湿地が広がっていた。北方民族の言葉を語源に「ヤチ」や「ヤト」と呼ばれた地形であり、箱泉寺の門前のそれが前谷地の謂れである(『風土記御用書出』1780年頃)。
大崎平野には「谷地」地名がそこかしこに残され、かつての広大な低湿地を裏付けている。稲作の適地に違いなく、中世以来に新田開発の進んで近世には既に一大穀倉地帯に姿を変えていた。そこに位置した箱泉寺は伊達藩により手厚く保護されたと記録にある。

旧河南町の役場所在地だった前谷地は、集落規模では隣接の涌谷町の中心市街地に遥かに及ばないものの、停車場は三陸縦貫鉄道の起点となったことで拡張され涌谷を凌いでいた。跨線橋までの設備は、計画時にそれが亜幹線なみの輸送量を想定されていたゆえである。とは云え、当時に柳津までが柳津線として開通したのみの盲腸線は、一日に5往復の運転されるだけの閑散線区であった。
前谷地周辺は、鳥谷坂の隧道区間を除けば取り立てての位置は見つからない。煙を期待するなら駅と云うことになる。
出発して往くのは865列車、石巻港行き。

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor50mm/F2 1/500sec@f8 Y48 filter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

打保-杉原 (高山本線) 1997

utsubo_07-Edit.jpg

1990年代に高山線通いを再開した頃、打保や杉原に降りると無人化以来の殺風景な待合室に手作りの版画カレンダーが掛けられていた。
版木から大きめの和紙に一枚一枚丁寧に摺られ、表紙と4月から3月の二ヶ月ずつの7枚を割木で挟み込んで紐で括ったそれは、打保を出た下り列車が第三宮川橋梁を渡ると右手の川沿いに見えた宮川村立坂下小学校の児童たちによる作品と知れた。
地域に伝わる民話をテーマにした絵柄にカレンダー部分の曜日に日付までも版木に彫り込まれ、小学生だから版画とすれば稚拙に違いないのだけれども、その素朴と云って良い味わいには惚れ込んでしまい、降りる度にじっくりと眺めていたものだった。
実を言うと、仕舞いにはそれに飽き足らなくなり、一括りの頒布を頼みに学校を訪ねたことがある。残念ながら取置きの払底してそれは叶わなかったのだが、通された校長室では地域の過疎と少子化からの深刻な児童の減少を聞かされた。校長は、版画カレンダーは代々卒業記念に6年生が分担して制作して来たものが、近年では上級生全員が手分けせねばならず、その意味の無くなりつつ有ること、そしてそれさえいつまで続けられるか分からぬとも嘆くのだった。

1956年9月30日に坂上村と坂下村が合併しての宮川村成立当時、村内には坂上、坂下小学校の他、それは種蔵と大無雁にも所在し、洞に坂下小の、ニコイ平に種蔵小の分校が、小谷には大無雁小の冬季間のみの分校も開かれていた。けれど、いずれも開拓地だった分校は離農の相次いで(特にニコイ平は1962年に集団離村)1970年代初めまでに閉校となり、種蔵、大無雁も人口減少から1980年代に失われて、二校体制が永く続いていたのだった。
それは岐阜山中に限らず、この時代に全国至る所の農山村で見られた事象だろう。そこでの疲弊は日本の経済成長と云う農村には恩恵の無い絵空事との引換えに始まったのである。それが資本と結託した時の政権党に支えられた、農民を土地から引き剥がして工業労働力とする国策であったことも忘れてはならない。
宮川村からの人口流失は今尚も続き、打保に通い始めての数年だけでもストーブの煙突に昨年までの煙の上がらぬ何軒かを見ている。古川町など5町村との合併にて飛騨市の発足して以降の2005年から2010年の5年間にも旧宮川村域では55世帯162人を減らした(国勢調査データによる)。

校長室を辞して、中沢上(なかそうれ)集落から裏手の林道を上った。第三宮川橋梁を渡って往くのは1025D<ひだ5号>。
間もなく車窓に坂下小学校を見る。
そこからは翌年3月に新しいカレンダーが届き、添えられた児童代表の手紙にはこう在った。
「私たちのカレンダーが神奈川の人の家に飾られるなんて想像もしませんでした。」
それから3年後、2000年3月23日を以て坂下小学校は廃校となり、打保や杉原地区の子供達は巡回するスクールバスで10キロほど先、村で唯一の坂上小学校へ通う。

[Data] NikonF5+AiNikkor105mm/F1.8S 1/125sec@f2.8 C-PLfilter EktachromeProfessional E100SW [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

院内 (奥羽本線) 1974

innai_01-Edit.jpg

板谷峠に矢立峠と南北に輸送の隘路を抱えた奥羽本線に在っては、秋田・山形県境、雄勝峠の区間もまた院内隧道を頂点に1/55(18.2パーミル)から1/50(20パーミル)の勾配が連続する難所であったのだが、大滝方・院内方ともに真室川(及位からは朴木沢)、雄勝川の谷を直線的に上ってしまい画角の乏しかったものか、あるいは奥羽線内中、最も少ない区間輸送量に知る限りの1960年代以降には補機を要するまでもなかったせいか、蒸機運転当時の先輩諸兄の作品を見かけることもほとんど無い。その米沢機関区や新庄・横手機関区などのC57、D51の運転も1968年10月改正までのことで、所謂蒸機ブームの初期に無煙化の達成されていたのも一因であろうか。

この峠越えが線内での最閑散区間とは云え、首都圏対秋田地区連絡の幹線上には相違なく及位-院内間8.6キロの線路容量の僅か46回は優等列車設定上の隘路ともなり、第三次長期計画にて線増が予算化された。貨物輸送単位の小さいことから勾配の改良を伴わず、延長1356メートル単線断面の(新)院内トンネルを別線で掘削する他は、ほぼ既設線への腹付線増にて計画されたのだが、院内まで4キロあまり、福島起点190.5キロ付近に所在の岩崖隧道を挟む1600メートル区間は、急峻な地形の続くため雄勝川に第一雄勝川橋梁(l=141M)と第二雄勝川橋梁(l=315M)を架橋、両橋梁間に短い岩瀬トンネルを穿って対岸を迂回する別線とされていた。1904年開通の既設線岩崖隧道は1956年から57年に架けて老朽化にともなう改修工事を電化対応の断面改築と併せて行っており、これの下り線としての使用継続が既定方針だったのである。
ところが、1960年代に線路路盤下方斜面で行われた国道13号線の拡輻改修工事の発破作業の影響にて変状を生じ、補強措置を講じて運転を確保したものの抜本的な再改修を要する事態となってしまった。これには前記線増線を急遽複線に設計変更として現況となったものである。
既設線を放棄しての新線への切替は1966年11月に行われ、当初には将来の下り線を使用した単線での開通であった。続いては(新)院内トンネルの完成により全区間を増設線での単線運転として、この間に既設線院内隧道(I=1237M)の改修を施行し、これを上り線とした複線での使用開始は1968年9月29日と記録されている。

この雄勝川と国道13号線を2度交差する新たな鉄道景観の出現には魅力を感じてはいたものの、ようやくに訪問の叶うのは電化柱も建ち並んだ1974年のことだった。紅葉黄葉を当て込んで選んだ11月の半ばは、それを外したばかりか予期せぬ降雪に見舞われた。秋季向けの装備には寒さの堪え、目当ての橋梁下では何やらの工事も行われていて散々だった覚えがある。
岩瀬トンネルから第二雄勝川橋梁に至るのは1D<つばさ1号>である。
ここには翌年の電化開業直前に、冬装備と共に再訪して面目を施したものだった。

[Data] NikonF2A+AutoNikkor105mm/F2.5 1/250sec@f4 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

深浦 (五能線) 1979

fukaura_05-Edit.jpg

蒸機運転の最末期、1972年12月2日早朝に広戸-追良瀬間にて生じた機関車の海中転落をご記憶の向きは多いことと思う。前夜来の波浪に道床の流失しての事故であった。
かように五能線は浪害の災害線区なのだが、かつてに自然災害に非ず人為的誤謬により上下列車が相対し、正面衝突直前に両列車機関士らの機転にて回避と云う出来事が記録されている。深浦から川部方へ1.6キロ程、車窓に奇岩の岩礁を見下ろす断崖の区間でのことゆえ、事故を生じていれば両機関車とも転落は免れず、大惨事となっていたであろう。
1957年3月5日のことである。この日も風雪に列車運行は上下とも遅延していた。
14時34分、168列車は36分延にて追良瀬を出発、深浦へと向かった。なお、当時に広戸は未開業である。ところが、深浦側も定刻とすれば168列車と行違いとなる165列車を、それの追良瀬に変更と誤謬し14時39分に27分延で発車させてしまったのである。かくて両列車は単線上に相対し、半径200から300メートル曲線の連続で海岸線をトレースする見通しの悪い区間には正面衝突は必至の事態となったのだった。
行合崎基部を越え12パーミル下り勾配を時速48キロで絶気運転していた168列車の水戸機関助士は、14時41分、起点68.5キロ手前で段丘に遮られた彼方に微かな黒煙を視認、咄嗟に機関車のものと直感して「赤、赤、赤」と叫びながら短急汽笛を吹鳴、助士の叫びに山谷機関士も急制動を掛けるが、下り勾配には100メートルの制動距離を要して68.4キロ付近でようやくに停車、接近する黒煙にその後も汽笛吹鳴を続けたのである。
しかしながら、一方の165列車には折からの風雪と、また給気運転中とあってそれの届かず、石沢機関助士が岩陰に機関車の煙突らしきを見たのは起点68.2キロを過ぎたあたり、時速40キロでの力行途上であった。石沢助士も「赤、赤」と叫んで短急汽笛を吹鳴、三浦機関士も間髪を入れずに急制動に移り、上り勾配を幸に約70メートルを進んで停車に成功した。この時、両機関車間の距離は50メートルに満たなかったと記録には在る。

165列車が力行していなかったら、またその煙を168列車が見なかったら事故は避け得なかったかも知れない。信号以外には注視義務の無いとは云え、前方確認に注意を怠らなかった乗務員の機転の在ってこその事故回避であった。
時の国鉄総裁、十河信三は4人の機関士・助士に総裁表彰を与えてこれに報いている。それは緊急停車措置に対してばかりでなく、双方とも相手方が停止しきれない場合を考慮して、停車後直ちに後退運転の態勢として万が一の回避にまで備えた職務規程には無い機敏な行動を讃えたものであった。
なお、原因は深浦と追良瀬駅長間の連絡不備と規程違反にあり、遅延から深浦で168列車から受取り165列車に授ける通票授受が出来ぬのなら、閉塞器より新たな通票を取り出せねばならないのに、それを現場限りと省略したゆえであった。165列車は無閉塞運転だったのである。

深浦定番の断崖上の区間、列車は1734Dの東能代行き。
168列車の急制動で停車したのが、このカメラ位置付近である。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8 1/500sec@f8 Y52 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

米沢機関区 (米坂線) 1971

yonezawa_EH_02-Edit.jpg

米沢機関区の庫での時間は記憶に鮮やかだ。足早にスナップして歩く程度のカットしか撮れないことの多い機関区詣の中で、1968年10月改正以降に残った米坂線と長井線の支線区運用には深夜の出入区の無くなっていたここでは、その時間帯を選べば庫内でじっくりと機関車と向き合えた上、米沢の待合室で駅寝の身には頗る好都合でもあった。

駅前から凍り付いた雪道に足を取られながら南側の踏切へと迂回すれば10分程で機関区の正門に到達し、当直の保火番が詰める事務室で許可を請う。備え付けの帳面に住所氏名を記入しての口頭での注意事項は、夜間ゆえに庫外での撮影禁止であった。
この頃、同じような体験をなされた向きも多かろうとは思うが、あの情景を何と表現すれば良いのだろうか。巨大な生物の眠る住処に迷い込んだとでも云うのは、些か物語に過ぎる気もする。けれど、うす暗い庫の中では何杯もの缶罐がまさに寝息を立てていたのである。深とした静けさに耳を澄ませば、まるで薬缶のように沸々と湯の上がる音に、どこからとも知れぬ蒸気の吐息、そして缶圧の変化にボイラの軋みが聴こえ来るのである。それはそれで賑やかとして良いかも知れない。庫内は保火の石炭の匂いと水蒸気に満ちて、ほの灯りはまるでステージ照明のごとくに機関車を浮かび上がらせてくれるのだった。
この光景を眼前にしては、短いバルブの間、カメラはレリーズの先の三脚の上と云うのに思わずに息を止めていたのを思い出す。

9634の経歴についてはWeb上にも記述の多いので繰返さない。この頃には蒸気機関車の物理的命数と云われた車齢60年に至らんとしていたけれど、調子の良い個体だったのか峠では本当に良く出逢った。かつて装備していた集煙装置に化粧煙突を切り詰められるなど、決してプロポウションの良い機関車では無かったにかかわらず、当時に通例だった若番機人気から1972年3月14日を以ての無煙化に際して、惜別記念列車となった125列車を79606と重連で坂町までを牽き、米沢へは130列車を59634との牽引にて帰区して、翌日には火を落としたと聞いた。この時、小国で見送った130列車は 小国 (米坂線) 1972 に書いている。
9600形式のテンダは新製時の差異やその後の改造、振替などにより多様な形状の混在しているのは周知の通りである。9634は石炭増量の改造を受けたものと思われ、本来の古風な二段型形状は失われていた。これも同機のプロポウションを崩す一因だったろう。
後面に付された[450立方呎]のプレイトは1910年代、鐵道院の時代からの炭水車容量表示であり、9600のそれは6-13型であった。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor5cm/F2 Bulb@f8 NON filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

津軽湯の沢 (奥羽本線) 1969

tsugaru_yunosawa_03-Edit.jpg

日本海縦貫を往来した特急寝台列車<日本海>は1968年10月1日改正を以ての設定であった。旺盛な旅客需要を見せていた1961年10月以来の<白鳥><おおぞら>と結んだ北海道対関西連絡に、従来に急行列車の担っていた本州内を夜行とするチャンネルを加え、その大幅な到達時分短縮の実現を意図してのことである。これを急行<日本海>の格上げ設定とする記述を多々見かけるが、正しくは無い。急行の関西-信越間夜行を奥羽間としたもので、連絡船接続の時間帯設定も異なり、そのスジは純然たる新設であった。
しかしながら、国鉄当局も需要に完全な自信を持ち得なかったものか、編成は当時の特急寝台列車では分併運用を別にすれば最短組成の電源車を含む9両に抑えられていた。しかも、68年10月改正に対応した関西九州間および青森間増発用として1967年度第二次・第三次債務車両計画にて88両もの20系固定編成客車の増備されておきながら、それらは全て品川と向日町の配置とされ、需給は<はくつる>の電車化にともなう尾久から青森への配転車を主体に向日町からの玉突き転出にて賄われたのだった。

1968年当時、日本海縦貫線の電気運転は上越線関連の宮内-新潟間を除けば北陸線が糸魚川に達したのみであり、単線区間が大半であった以北の細い道を東新潟区のDD51が秋田までを、先を秋田区の同型が牽いていた。この頃に20系客車は全車がAREBブレーキ装置の搭載により、それを使用しない運転でも元空気溜の増圧にはMR管の引き通しを持った機関車を要し、それはDD51では1965年製の第5次車にあたる28以降が装備するのだが、それの配置を持たなかった東新潟区へは<日本海>対応として、盛岡区から0番台-2両、釜石区から500番台-6両の配転がなされ、秋田区共に限定運用が組まれていた。当時の実見や誌上に公表の写真からは、0番台と500番台の運用を区分し、500番台を特急牽引を含む仕業に充てていたと推察される。

1年後の1969年10月1日改正では編成の13両への増強が計画され、1968年度第五次債務車両計画にて発注のナハネ20ばかり10両が、今度こそ青森に新製配備される。運転開始から半年を経ない時点での発注を考えれば、営業成績の中々に良好であったと伺われる。現車13両、換算41両で特通客E5の確保には、矢立峠を始め二ツ井-前山間や大釈迦-鶴ケ坂間に介在する勾配区間に補機を要して、秋田-青森間でDD51の重連運用が組まれた。特急仕業でのそれは1968年10月改正で盛岡-青森間から消滅して1年振りの復活でもあった。これには同じく1968年度第五次債務車両計画でそれの1両が秋田区に増備されていた。

第六平川橋梁に差し掛かるのは、峠を下って来た2001列車<日本海>。
速度を落として津軽湯の沢場内へと進入して往く。重連牽引となって間もない頃の撮影である。

[Data] NikomatFTN+P-AutoNikkor135mm/F2.8 1/250sec@f4 Y48filter NeopanSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

竹沢 (八高線) 1996

takezawa_02-Edit.jpg

竹沢に降りて駅前の国道254号線に突き当たると、その向こうに兜川の流れがある。
秩父郡との郡境稜線直下を共に水源とする木呂子川と西浦川の合流から小川町中心市街地東方の中の島で槻川左岸に達するまで、流域全てが小川町内で完結する小河川である。
小川盆地から西に比企丘陵へと伸びる谷底を蛇行するこの河川は、荒川水系の一級河川に指定されながら前記合流地点から延長の僅か7キロに過ぎないのだが、北の金勝山、南の官ノ倉山から流れ出る小さな流れを集めて支流の多いことで知られ、小川町から竹沢への八高線には短径間の橋梁が連続している。
平安の古に始まり江戸期に産業として成立したと云われている、この地域での細川紙と呼ばれる和紙生産はこれら豊かな水流によるところと納得する。古くからの養蚕地帯でもあれば、同じクワ科植物のコウゾもまた山野に自生していたのだろう。後に竹沢村となる靱負村、木部村、勝呂村、木呂子村はその生産中心のひとつと伝わる。

竹沢は八王子と倉賀野から建設の始まった八高線の最後の開通区間となった小川町-寄居間の中間駅として、1934年10月6日の全通と共に開業している。当時に農家の散在するだけの農村地帯には、鉄道省工務局による「小停車場本屋標準図」(1930年10月6日工達第875号)に示された[一号型]に準拠の小さな駅舎が選ばれた。最近まで残されていた間口15メートルのそれは、建築を簡素化したものか戦後の質素な公営住宅然としていたものだった。入口横に設置の飲料自動販売機さえなければ、おそらくは開駅時に植樹され大木に成長した桜と共に作品として撮り残したい佇まいではあった。

写真は陽の傾き始めた竹沢を通過する5263列車と退避した230Dの高麗川行き。
櫻の名所は紅葉の名所でもある例えに従い、ここの秋景も楽しめた。2007年度末に駅舎は失われてしまうが、この櫻の残されたのは幸いと云えよう。

[Data] NikonF4s+AiNikkorED300mm/F2.8S 1/250sec@f8+⅓ NONfilter Ektachrome Professional E100S [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

西町 (富山地方鉄道・富山市内軌道線本線) 1985

toyama_tram_03-Edit.jpg

酒呑みなので、当然のように肉よりは遥かに魚好きである。水族館などに往けば、美味そうな魚の乱舞に水槽にかぶりつく邪道な観覧者と化し、充実した酒呑み生活は、近所に昔ながらの良い鮮魚店を得られるかに掛っていると思いさえしている。
旅の途上で漁港に出会えば、その佇まいは気になるし、近くに鮮魚の店先のあろうものなら持ち帰りの出来やしないのに冷やかぬわけには往かない。

天然の生簀とも称される富山湾は、沿岸に「満寿泉」や「名誉北洋」「曙」「千代鶴」と云った漁師酒の蔵も並んで、酒呑みには垂涎として良い。
高山線通いの日々では、せっかくなので機会のつくれれば富山に宿を取った。それは例によって駅前なのだけれど、そこは夜には少しばかり寂しいところゆえ、市内電車で、或は散歩がてらの歩きで繁華街の西町や総曲輪のあたりに出掛けていた。勿論、目当ては酒に肴である。
魚は新鮮であるに越したことは無いとは云え、ある程度の熟成も必要と承知するので活け造りはあまり好まないのだが、その日は通りから大きな生簀の見える店に泳ぐカワハギを見つけてしまい、刺身も然り乍ら旬の肝に釣られて暖簾をくぐったのである。富山湾に限らず全国区の魚ではあるけれど、海底谷の発達して急激に深海に至るそこでカワハギは些か珍しいし、小振りながら一匹丸ごとの活け造りに呑めば贅沢に違いない。
肝をそのまま皿にもらって醤油をぶっかけただけの濃厚な味わいには多いに満足した上に、驚いたのは刺身の方だった。箸に摘んで醤油を付けたそれはピクピクと動いたのである。頭と骨にされた魚体の尾びれの動くのは常だけれども、これの活きの良過ぎには感心しきりと書いておく。

「◯◯本線」なる線路名称は馴染み深いが、単に「本線」だけの付名も全国に12例が存在する。富山地方鉄道は、それを鉄道線と軌道線の双方に持つ事業者である。立山軽便鉄道に始まり複数社の合併にて成立の電鉄富山-宇奈月温泉間がどの時点から本線とされたかは調べていないが、この富山市内軌道線では富山電気鉄道による1913年9月1日の開業以来に南富山駅前-富山駅前を本線と呼んだ。現在では少数例となっているが、当時に途中分岐の線路があれば、本線、支線と区分され、それを正式線名とするのは当時に通例であった。支線が増えればそれぞれに線名を付す必要の生じて、その際の改名事例も多い中で、ここはそのままに生き残った希有な例と云えよう。
なお、開業時の起点は共進会場前(現堀川小泉)であり、南富山駅前(当時に堀川新駅前)への延伸は1915年3月13日である。また桜橋から富山駅前への経路も異なっていた。

写真は、本線西町停留所に停まる富山駅前行きのデ7000形7015。師走にしては些か長閑な日曜昼下がりの西町交差点である。電停位置は現在と異なり、交差点南側に在った。
1960年、日本車輌製のこのクルマは撮影時でも車齢25年、幸運なことに同年月以上を重ねた現在にも冷房化までされて稼働している。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250@f5.6 Fuji SC48 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。