70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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今川信号場-越後寒川 (羽越本線) 1971 

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札幌からの帰省旅行途上の立寄りを別にすれば、羽越線を撮ったのは1971年の秋から冬の終わりまでの半年程に過ぎなかった。72年8月の電気運転に同年春にはほぼ全線に電化柱の建植されてしまったからである。
晩秋から初冬にかけての日本海岸と言えば時雨の日々であり、訪れる度にそれに出会うことになっていた。大陸の寒気が北西風に日本海へと押し出されて雨雲へと発達するのだから、冬の走りに違いない。海上遥か彼方から見る間に乱層雲の押し寄せ、冷たい飛沫と共に足早に去って往く。それが波状に幾度も繰返されるのである。それは遍く地表を濡らし、雲間の薄日に鉛色の海から連続する鈍色に光る景観を出現させた。そして、機関車の一条の白煙を引いて走り往けば、まさに情感の光景として良く、この季節ならではのそれには強く惹かれたのだった。

時雨とは、古来には文字通りに秋冬の一時的降水を指して、何も日本海岸に限った言葉では無い。山間の盆地は勿論のこと太平洋岸でも同じような天候の現れれば、それを時雨と呼んだ。現代の気象用語でも、降雪も含んで単に晴れや曇りの合間の断続的な降水の状態を指して地域を特定していない。もっとも、伝習的に雷雨や夕立を時雨と呼ぶ地域も在るらしい。
晩秋の枯れ野が雨に煙る、この列島に特徴的な気候は日本の原風景のひとつに違いなく、侘び寂び、もののあはれの感情原点のひとつにも数えられよう。日本人は古からこの情景を好んだのである。そう云えば、俳人松尾芭蕉の命日は時雨忌と呼ばれる。

今川信号場から北へ、宝来山トンネルの前後から脇川橋梁への区間は電化柱の建植が遅かった上に脇川集落方向の俯瞰も海岸の岩礁を伝っての位置も確保出来たので、今川に降りれば大抵はこの区間に歩いたものだった。脇川トンネルから白煙を引いて9.1パーミルを降りて来た上り列車が、この区間で今川へ向けて力行に移るのも有り難かった。
写真は、第一宝来トンネルを抜けた582列車。
左の岩山が隧道名由来の蓬莱山だが、この山、国土地理院の地形図には標高88メートルと在る。この写真もそうだけれど、現地に立ってもせいぜい30メートルくらいにしか見えない。釣鐘状の形状に視角効果のマジックでもあるのだろうか。

[Data] NikomatFTN+P-AutoNikkor5cm/F2 1/125sec@f5.6 Y48 filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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婦中鵜坂 (高山本線) 2009

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2005年4月1日、富山市は周辺の6町村と合併した。手続き上は富山市を含む新設合併であり、新たな自治体が富山市を名乗ったのであるが、これにて富山県域の3割を占める広大な面積を占めるに至った富山市は、そこに散在する旧市町村中心域を都市拠点とする再定義を迫られ、幸いなことに域間を結んでいた既存鉄道網の市内交通機関としての利用を目論んだのである。しかしながら、それらはモータリゼイションの進んだルーラル地域に在っては、必然に一部区間を除き衰退の一途を辿っており、全区間が市域に含まれることとなった西日本旅客鉄道の運営する高山本線も当然にそのひとつに数えられた。
ここで、富山市が国交省の補助の下に利用拡大と活性化の方途を探る一環として2006年10月から行った「JR高山線活性化社会実験」とその顛末についてはご承知のことと思う。詳細には触れないが、Webを検索すれば多くの記事が見つかる。
協力を依頼された西日本旅客鉄道は、類似のルーラル鉄道の多くを戦後に抱え続けた国鉄以来の鉄道事業者としての経験や分析から結果を十分に察知していたはずである。30分毎と云うルーラル鉄道には十分な運行頻度を確保したところで、経費を償い得るような増客に増収の得られないことをである。2011年3月改正を以ての実験終了と共に越中八尾-猪谷間については実験開始前と同数までの減便に踏み切っている。
それは例え15分ローテイションの運行としたところで同様であろう。このような地域の社会基盤構造は戦後の道路交通の整備とともに数十年を掛けて面的拡大を遂げてしまっており、拠点間を線状に繋いだ鉄道の必要とされる局面は最早限られるのである。なにより、地域住民の生活様態はそれに依存している。

ルーラル鉄道の再生には、この住民意識自体の変革が不可欠である。
有り体なもの言いと私見はお詫びしておくが、問題の根源は交通の不便ではなく、ルーラル地域の人々が自分の足で出歩かなくなってしまった所にあるだろう。通勤や通学或は所用の外出に、近隣の駅まで徒歩なりバスで向かい、郊外電車から地下鉄を乗継いで都心の目的駅に下車すれば、多少の距離のあっても徒歩で用務先に向かう都市生活者に比すれば、あまりに歩かな過ぎの感がある。外食や生活用品の調達先など多くの施設が郊外に散在してしまっている現状を考慮しても、自動車交通依存の行き過ぎに見えるのである。過疎の僻陬地ではなく、交通市場の成立しうる一定の人口規模を持ちながら、鉄道やバスが運行頻度を幾ら上げたところで、それに見合った集客の期待出来ない所以であり、西日本旅客鉄道はそれを良く理解していたと云うことになる。
富山市社会実験においても「とやまレールライフプロジェクト」なる組織の立ち上げられて、広報や鉄道利用の啓発を担ったけれど、それには10年単位での辛抱強い継続を要するだろう。

井田川橋梁の取付築堤区間を駆け下りるのは1090列車。云わずと知れた速星の日産化学富山工場専用線への線内貨物列車である。
これを目当てに定番の撮影位置に立ったのだが、誰も居ない県道62号線高山跨線橋上には、まもなくに撮影者の集まり始め、その数の20人を越える頃にキハ58/28の普通列車の通過すれば潮の引くように去って往くのに面食らったと覚えている。そう云えば、この社会実験での増発運用に用途廃止予定が一転起用され、同系列にとって最後の定期運用となっていたのである。直後の貨物に見向きもしないのもどうかと思うが、鉄道撮影への新規参入者には高山線社会実験の恩恵だったと云えよう。
徒歩の古い鉄道屋にもそれは在った。この地点へ以前は速星に降りて線路沿いに30分近くを歩いたものだが、実験の一環として至近に臨時駅の婦中鵜坂が開かれて、ほんの数分程で到達可能となったことである。
富山市の主導した事業所団地(富山イノベーションパーク)の至近に設けられた、この駅の利用者は実験開始前の想定を下回ったのだけれど、西日本会社の示した下限の利用者数の一日あたり140人は何とかクリアして、それの終了後も存続、2014年3月に至って駅昇格を果たした。

[Data] NikonF5+AiAFNikkorED180mm/F2.8D 1/250sec@f6.3 C-PL filter Ektachrome Professional E100G [ISO160 / 0.5EV push] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

身延 (身延線) 1998

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身延は1960年代には身延線管理長も置かれた線区運営の拠点であり、1982年2月26日付でのCTC制御施行に際しては指令所が設置され、それの静岡センタへの統合後の現在も十島-鰍沢口間各駅を管理する駅長配置駅である。しかしながら、身延山久遠寺の門前町から発展した身延町の旧市街地は富士川対岸身延川の谷に位置し、北東へ直線で3キロあまり、県道9号市川三郷身延線を辿れば徒歩で60分近くを要する。
富士川を渡河しなかった富士身延鉄道による建設はその東岸を北上し、1920年5月18日の甲斐大島からの延伸により開業のこの駅も、そこに達すること無く対岸正面の大河内村丸滝地内に開かれたゆえである。
「身延町誌」(1970年身延町誌編纂審議会)は、それを富士身延鉄道の当初の身延市街に直結する富士川西岸線計画が同地域住民の鉄道忌避により東岸に変更された結果と書くけれど、資金零細なこの鉄道に富士川への架橋はどのみち困難であったに違いない。
鉄道橋は無理であっても吊り橋ならば然程でもない。1923年8月に渡船に替えて丸滝から対岸に架橋したのは当の富士身延鉄道であった。現在の県道9号線「身延橋」の前身である。経営の苦しい会社は、自社の運んだ参詣客相手に延長233m、14mの主塔を持ち「東洋一」と自称したこの吊り橋からも徒歩での往復に10銭の通行料を徴収したと町誌に在る。

現在も身延駅周辺には駅前の県道10号富士川身延線沿いに土産物店の建ち並ぶものの市街地の形成されるに至っていない。旅程の短い身延線行きに油断したものか持ち合わせの乏しくなってしまいATM設備の銀行なりコンビニを探したものの、どちらも見つからずに駅の観光案内所に尋ねれば「お山に往けば在る」と答えられて些か混乱したのだが、ここでは対岸の久遠寺ばかりでなく門前の旧市街地を含めてそう呼ぶらしかった。仕方なく駅前からの山梨交通バスで川を渡り教えられた停留所にて下車したのだけれど、そこは旧市街でもなく手前側の農地を近年に転用したらしきところで、市街地とするには疎らに過ぎる中に目指す銀行やら郵便局に官署などが建ち、寺に依存する以上でも以下でもない町の有様を見たような気がしたものだった。

富士川沿いを辿る身延線ではあるけれど、それを背景と出来る画角は意外と見つからない。県道10号線を大島方に辿って越える小さな峠はその数少ない位置であった。
和田トンネルに向かうのは4008M<ふじかわ8号>。
背景に1972年に永久橋に架け替えられた身延橋と日本軽金属富士川第一発電所への取水堰堤が写り込む。

[Data] NikonF5+AiNikkor105mm/F1.8S 1/125sec@f5.6+1/3 NONfilter EktachromeProfessional E100SW [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

三見-飯井 (山陰本線) 1974

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もう20年程前になるけれど、音楽学校の講師もしていた友人のギタリストから興味深い話を聞いた。ロックギターを教える彼の講座へ「ギターを触ったことも無い」生徒が現れたと云うのである。これには些か驚かされた。
だいたいにしてロックギタリストを目指すような少年は、それに憧れてエレクトリックギターを手にし見よう見まねで奏法を覚えて、やがてバンドを組んで活動を始めれば、幸運にもそのままプロデビューを果たすか、或は、それを職業と捉えれば、より高度なテクニックや音楽理論を学ぶべく彼のような定評の在るミュージシャンのもとへとやって来たものである。そして泡良くば講師連中の弟子に潜り込みプロへの糧としたのだった。
彼によれば、その2・3年前から生徒の質の変容に気がつき、いつかそんな生徒を予期していたと云う。
ありとあらゆる職種の職業学校が存在し、多くの大学校も実体はそれと変わらなくなり、巷には多種の講座や教室の乱立しながらも盛況な現状への萌芽は、その頃からあったと思わせるエピソードではある。自ら学び取るでなく、教えてもらうことが当たり前と化した感がある。

この受動傾向は趣味の鉄道屋の世界にもいつかしらに入り込み、調査・研究が醍醐味であったはずのそれが結果ばかりの求められる昨今である。鉄道雑誌は、例えば車歴表の全文など公開しない方が良かろうとさえ思う。
写真には付き物の撮影地ガイドの類いも同様で、それの功罪に関する議論は70年代からこの方に存在したのだけれど、近年に顕著な、地点を明示して画角までを教授する余計なお世話は、「罪」の側面を助長するばかりに思える。このBlogへのアクセス解析に、高名とされる撮影地点を挙げて「行き方」などとの検索語句の記入をみれば、古い鉄道屋はますますにその感を強くするのだった。

西山陰の益田以遠区間は、当時の撮影地ガイドに「鄙びた漁村」が点在し「落ち着いた写真の撮れる」とだけ在り、後は実際に降りて歩けとの趣旨の記述はガイドとして必要にして十分だった。加えて「あまりファンの出向かない土地」と書かれていたのも、ご同好と鉢合わせして思ったような画角の採れないことを散々に経験していた身には有益な情報と云えた。
その区間に位置した三見の駅前から旧赤間関街道の思いがけない趣の街並のことは前にここへ書いている。→ 三見 (山陰本線) 1974 それを辿っての、五万分の一地形図で事前に当たりを付けていた尾ヶ崎を回り込んだ海岸線は、岩礁への白波が街道沿いの松林に映えて風光明媚として良く、それは確かに端正な「落ち着いた」景観と覚えている。
ただし、この区間で機関車の力行はあまり期待出来ず、尾ヶ崎トンネルへと向かう被写体は2012D<まつかぜ>とした。

[Data] NikonF2A+AutoNikkor50mm/F2 1/125sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

鳴子 (陸羽東線) 1971

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現在に鳴子温泉と総称される温泉地帯の中心域には300もの源泉が集中しているそうである。その発見は1000年を遡れると云うけれど、そのような古は別として、1900年代初頭には既に一定規模の温泉旅館街が成立していたものと思う。
小牛田新庄間鉄道は、『鉄道敷設法』 (1892年6月21日法律第4号)第二条に「宮城縣下石ノ巻ヨリ小牛田ヲ經テ山形縣下舟形町ニ至ル鐵道」と規定され、国家骨格を構成する主要路線に位置づけられていた。本線の名こそ与えられなかったものの、最初の開業区間となった小牛田-岩出山間に付された線名が東北本線の支線では無く、陸羽線部を設けての陸羽東線だったことがそれを示している。
この路線の鳴子への延長は1915年4月18日のことで、鳴子停車場は源泉湧出中心地区、即ち温泉街の立地していた緩斜面下部に置かれた。それは切取土工にて用地を確保したものと地形図には見て取れたのだが、改めて鐵道院新庄建設事務所による「陸羽東線建設概要」を読むと事情は異なっていた。そこには「土地狭隘にして他に適当の個所なかりしを以て荒雄川右岸の一部を埋立て」と記され、斜面への腹付け盛土による構築と知れた。既存の温泉街を避けては用地確保が困難だったのである。
これには、基礎に高さ24ft.(≒7.13m)、延長700ft.(≒213m)程に及ぶコンクリート製擁壁を築いた上で、およそ70ft.(≒21.3m)の高さまで盛土を行い、法面防護には栗石(ぐりいし)張りを施行したと在った。わざわざ一項を設けての記述は、この線区の建設に際しての停車場土工の中でも最も工費、工程を要したゆえであろうし、1910年代と云う時代には確かに多くの土工人夫を駆り出した大工事だったことだろう。
その後、この法面には樹木が生育し1970年代当時には乗降場から荒雄川方向の視界を隠す程だったのだが、近年には補修工事でも行われたものか全て取り払われ、氾濫原から転じた宅地に張出した施工当初の姿を見ることが出来る。

本線は鳴子停車場を出ると直ぐに1/55(≒18.2‰)の線内最急勾配区間が始まり、山脚に取り付いたまま不動沢と水無川の渓流を渡り鳴子トンネルへと向かう。この区間での車窓に電波塔の建つ上部が整地された高みを見つけて、現地へと赴いてみれば果たしてその全区間を見通せたのだった。
現在での「鳴子公園」だが、当時にはその名称は無かったように思う。電波塔は1963年1月に送信を開始した東北放送の鳴子ラジオ中継送信所の施設であった。

鳴子トンネル抗口直前を上るのは1793列車。まだ客車列車の1往復も残存した頃だけれど、この昼過ぎに峠を上る重連列車が撮影のハイライトだった。

[Data] NikonF PhotomicFTN+AutoNikkor200mm/F4 1/250sec@f4 Y48 filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

高山 (高山本線) 1999

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高規格幹線道路中部縦貫自動車道の一部区間として、安房トンネルと湯ノ平トンネルを含む安房峠道路の供用は1997年12月6日からと記録される。たかだか5.6キロの短区間に過ぎないが、梓川上流旧中の湯温泉付近から急峻な山稜を安房峠頂上までの比高470メートルを九十九折で上り、安房平を迂回して平湯に向けて500メートルを下っていた国道158号線を代替して、1時間程を要したこの間を僅か5分あまりと劇的に短縮し、冬季通行止めのそれに対して通年通行を可能としたのであった。そして、松本を中継地としたこれが東京方面から高山への最短経路ともなったのである。
供用と同時に松電バス(当時)と濃飛バスが共同運行を開始した松本バスターミナル-高山バスセンター間特急バスを中央本線<あずさ>から乗継げば、松本での待合わせ時間にもよるけれど、新宿から5時間半ほどで到達可能となり、同時に京王バスと濃飛バスにより設定された新宿直通の都市間高速バスも5時間30分が運行時間であった。新幹線<のぞみ>から<ひだ>へと乗継ぐ、東京から最短での4時間には敵わぬが、新幹線に乗らないコストパフォーマンスからは十分に使える経路となっていた。東京や新横浜まで距離の在る多摩地域、八王子発着ならば時間差も無きに等しい。
<あずさ>を運行する東日本旅客鉃道にとっても、その利用促進には魅力的であったはずなのだが、同社は静観を決め込み、バスとの連携のプロモウションされることは無かった。東日本旅客鉄道には東海旅客鉄道に、濃飛バスや松電には京王バスへの遠慮のあったのかも知れない。

情勢の動いたのは2014年の夏であった。翌2015年3月に予定される北陸新幹線の金沢開業を見据えた新たな回遊観光コースとして、東日本旅客鉃道が松本-高山間に上高地や乗鞍、平湯を周遊する会員制バス運行を決定し、観光周遊バスとは云え、それら個所での乗降も可能としたのである。加えては、高山を中継地に西日本旅客鉄道が金沢発着で運行する<五箇山・白川郷めぐりバス>と連携しての松本-金沢間周遊ルートも公表された。同年7月より夏臨期間で運行を開始した、この<びゅうばす天空の飛騨回廊号>は秋臨期間にも設定の続いている。
東海旅客鉄道は勿論に安房峠道路運行のバス会社も無視しての飛騨地域進出施策は、最近での痛快事と書いておく。2015年春からは<あずさ>と北陸新幹線列車をこのルートで結んだ旅行商品の多くが発売されることだろう。
自社エリアに東西から踏み込まれた東海会社の出方が注目されるところだが、2014年12月1日から4ヶ月に渡る北陸観光キャンペーンには、東日本旅客鉄道、西日本旅客鉄道ともに東海道新幹線・高山線を利用する商品発売の無いにも関わらず、共に参加するようである。

冬の朝、まだ明け遣らぬ高山を出発して往く22D<ひだ2号>。
前夜来の降雪が屋根に降り積もる。上野へ雪国から上京して来た列車にはお馴染みの姿だったが、それ自体が皆無となっては久々の光景に見えた。

[Data] NikonF5+AiNikkorED300mm/F2.8S 1/60sec@f4 NONfilter Ektachrome Professional E100SW [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

日野橋 (名古屋鉄道・美濃町線) 1986

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もう10年を経過するけれど、未だに2004年度末での美濃町線の廃止は腑に落ちないままである。
それに至るまでの経緯や経過などはWeb上に公表された資料も多くが見られるのだが、それらを考察して往く大前提として、美濃町線を運営した名古屋鉄道(以下名鉄)と、そこに並行路線を持っていた岐阜乗合自動車(以下岐阜バス)の関係がいまひとつ解らない。岐阜バスは名古屋鉄道を中核とした同じグループ会社のはずなのに、美濃町線を巡っての2社間には永年に渡り連携や協調の全く見られず、寧ろ敵対していたとすら伺える節があるのだ。
美濃や関から岐阜駅や中心市街地に直結したインターアーバンであり、加えて沿線地域にあれだけの住宅街に団地が所在して人口の張付いていながら、美濃町線ほど活用されなかった路線も珍しいのではなかろうか。本来ならば、交通政策上に日野橋以遠区間に何箇所かのバス交通との結節点を設けて、そこを起点に団地などと結ぶバス路線を再編成すべきだったはずなのだが、岐阜バスは市内直結運行に固執し、朝夕は云うに及ばず昼間帯にも国道156号線にはバスが数珠つなぎとなり、流入する一般車両と共に大渋滞を引き起こしていた。
当然に介入して調整すべき岐阜市当局の対応も不可解であり、同国道の拡輻のままならないのを一部で路盤を共用していた美濃町線に転化する一方、それの活用に新設軌道区間での速度向上を国交省に掛け合うなどのチグハグさを見せてもいたのである。
けれど総じては軌道系交通機関に理解不足は明らかで、永年のそれに業を煮やした名鉄が、2000年3月の鉄道事業法の改正により地元同意を経ずして鉄道事業の廃止の可能となったことを盾に「脅し」を入れ、双方の予断によるボタンの掛け違いから互いに引くに引けぬ状態に陥り、結果的に共に思惑の外れて廃止に至ったのが真相ではないかと思っている。岐阜バスに指導力を発揮出来なかった当事者同士の不信感は根深かったと云うことであろうか。
この顛末に、名鉄は将来経営に寄与したかも知れぬ線路を、岐阜バスは運行効率向上による保有車両の削減機会を、岐阜市は投資を抑制した効果的渋滞解消策を、沿線住民は定時性など利便性の在る交通機関を永久に失ったのである。けれど、何よりも廃止の動きに直面しての沿線住民の動きは極めて鈍く、この線路が住民意識の外にあったことが伺われる。名鉄の「脅し」は既に時遅く、岐阜市の反駁も住民には「遠い異国の出来事」だったのである。

日野橋停留所近く、軒先を走り去る電車。土に埋もれそうな線路は、古に街道上に敷かれた軌道線には当たり前の光景だったろう。京浜急行も阪神電車もそれから始まり高速電車線へと進んだ。ここは市場規模からその機会を逸したと云うことなのだろうが、それは遅れて21世紀にやって来たかも知れないのだ。

[Data] NikonF3P+AiNikkor35mm/F2S 1/250sec@f5.6 Fuji SC48filter NeopanSS Edit by PhotoshopCC on Mac.

会津西方 (只見線) 1972

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三好達治に良く知られた二行詩がある。

  太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
  次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。

実を云えば、これには「死」のイメイジを抱いていた。
最初には何処で接したものかは覚えていない。国語の教科書か、学校図書館でたまたま手に取ったのだろうと思うけれど、それ以来の印象だ。
「太郎」「次郎」は無名の数多の人々であり、「眠らせ」は棺「屋根」は墓標の暗示と受取っていた。
ただし、寂滅の暗黒な死では無く、清冽な光溢れる黄泉の国のイメイジである。

この二行詩を知って間もない頃だったのか、会津地域を旅していて唐突にそれを思い出していた。撮影地点を探して歩き回れば、至る所に小さな野仏と観音像の菩薩様や道粗神の神々、それに地蔵様がこんもりと雪を被るのが見出せ、小さな集落とあれ寺院も所在して山里の人々の深い信仰を伺わせた。そして、その外れでは先祖代々の墓所がひっそりと雪に埋もれ、降雪の下であれ、陽光に眩しい中であれ、件の二行詩の深閑としたイメイジが具現されていたのである。深い雪にも参る人のいるのだろう、踏分を辿ってそこに立てば杉木立を背景に柔らかな積雪を纏った斜面に続く墓標は、確かに浄土に続くに違いないと思わせるに十分な景観を見せていた。
近親者を順番に「眠らせ」、雪の墓標の下に送ることは、山里で代々の続くことへの感謝でもあろう。雪は祈りをもって降り積むのである。

会津西方近く、第二只見川橋梁を渡って往くのは8460列車。臨時貨物だったけれど、この頃には毎日運転されていたと思う。
会津西方は1941年10月28日に当時の大沼郡西方村に置かれての駅名であったが、西方を名乗る中心集落を下った名入に所在した。戦前期までは対岸の宮下村川井集落との間に小舟の「渡し」が開かれ、川岸まで急坂を降りたところが舟場と呼ばれて船頭小屋が在ったと云う集落である。第二只見川橋梁は只見川に架けられた最初の橋であったから、徒歩での集落間の往き来にも利用され鉄道もそれを黙認したものと思う。
撮影の合間に小さな名入集落を歩けば、ここにも隆昌寺なる寺に観音堂も認め、道端には野仏の姿があった。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor5cm/F2 1/250sec@f8 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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