70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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落合川 (中央本線) 1972

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何かしらの鉄道年表を開くと1960年代には「◯◯-◯◯間複線化」なる記載の続くのを見て取れる。それは、戦後復興からの急速な経済成長にともなう逼迫した輸送需要に対して、国鉄が1961年度を初年度とした「第二次五か年計画」、1965年度からの「第三次長期計画」により、全国の幹線線増を進めた時代の成果であった。苦しい予算事情からは必要最小限の投資ではあったけれど、今に年表を眺めれば、陸上の基幹輸送機関としての国鉄の躍動の感じられる記述ではある。輸送力増強を背景には新しい列車や興味ある運転がダイヤ改正の度に示され、鉄道趣味者としても最も楽しい時代だったに相違ない。

中央本線も1960年度末時点で、1913年度末までに使用を開始していた東京-高尾間の国電区間を除けば、全線に信号場の増設で急場を凌ぐ単線が続き、「第二次五か年計画」にてその343.8キロ中182.6キロの線増が計画された。西線と呼ばれた塩尻以西区間では、都市近郊区間となる名古屋口より着工され、1962年9月21日の千種-大曽根間を最初の区間として1963年度末までに計画の名古屋-高蔵寺間が複線運転となっていた。以後は「第三次長期計画」に引継がれ、電気運転化と同時の中津川までの延伸と以遠での隘路区間に着手されたのだった。
落合川から坂下への6K150Mは、木曽川沿いから外洞川の谷の狭隘な地形を通過していた既設線に対して、新瀬戸山トンネル(l=1110M)と第一高峰山トンネル(l=1138M)を掘削し、第二高峰山トンネルで既設線の梅ケ沢トンネルと併行する別線線増とされ、1968年9月25日にこれを上り線(下り列車運転線)とする複線使用を開始した。
この際に木曽川に既設線の第一木曽川橋梁下流側に架橋された新第一木曽川橋梁(l=143M)は、そのクーパー/シュナイダー設計になる1907年アメリカンブリッヂ製下路式ペチット型ピントラス橋と同径間(93.3メートル)の下路式単純トラス橋が採用され、既設線側が架け替えられる1972年まで新旧の同サイズのトラスの並びが見られた。同径間の採用は、橋梁長がほぼ同じに加えて、流路確保から下流側の橋脚径間を狭くする訳には往かぬが広く取っても意味は無いゆえと思われる。

これにて、上り線の新瀬戸山トンネル出口抗口上部横から新第一木曽川橋梁を見下ろす、西線区間で定番となった立ち位置が出現していた。40年も前ゆえ記憶は定かでないが、線増工事関連のヤード跡地だったと思われ、多くの鉄道屋を集めたものだった。
新第一木曽川橋梁を渡るのは873列車。ドレインは写真機の放列を見つけた機関士のサーヴィスである。
このカットは、さらに背後の斜面を上った位置からと思う。
ここへは以来に立ってはいないのだが、電化後も誌上などに見かけた撮影は1980年頃を境に消えてしまう。おそらくは立入りの不能となったものだろう。最新の衛星写真に見れば、どうにも民家の敷地となっている様子である。

[Data] NikomatFTN+P-AutoNikkor135mm/F2.8 1/250sec@f4 NONfilter SakuraColor100 Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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新津 (信越本線/羽越本線/磐越西線) 1971

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鉄道の城下町である。街の規模に対する鉄道の存在感は米原が上と感ずるが、鉄道施設の集積の程度は新津がそれを遥かに凌ぐであろう。1897年11月20日の北越鉄道による一ノ木戸(現東三条)-沼垂間開業に際して中間駅として置かれた停車場の輸送拠点化、鉄道の要衝への発展は幾つかの条件の輻輳した結果である。
勿論、ここを起点に馬下までと新発田までの2本の信越線支線が建設され、前者が1914年11月1日に岩越線として郡山に繋がり、特に日本海縦貫線の大阪から青森までの連絡を意味した後者の1924年7月31日の羽越線としての全通による輸送の結節点化が前提である。これに加えて、信越線の終端となった沼垂、そして新潟が当初に信濃川手前の仮施設と考えられており、それゆえの構内の狭隘もあって本来の終端駅施設の多くが支線起点とした新津に置かれたのが始まりであった。さらには、周知の通りに新潟平野が国内に数少ない油田地帯だったことが関係していよう。1874年から採掘の始まった新津油田である。近代の機械掘りによる産油量の増加には原油搬出に開設されたばかりの新津停車場に向けてパイプラインが整備され、構内には油槽施設が設けられる等の構内拡張は輸送拠点化への萌芽となったと思われる。

1918年時点で、新津構内には鐵道院東部鉄道管理局の運輸事務所に保線事務所の非現業部門を始め、機関庫、保線区、車掌区、通信区、電力区の現業機関が構内に開かれるに至り、やや時代の下って鉄道省による新潟鉄道局の設置には1局1工場の原則に従い新津工場が構内南側に広大な用地を得て1941年に開設されたのだった。
そして、戦後には客貨車区に機械区、電務区、建築区、営林区なども加わり、1960年当時には15の現業機関が集中、つまりは職制上駅長と同格の管理職が15人も居たのである。これはなかなかに例が無いだろう。人口が4万を越えたこの頃に、就業人口の4人に一人は国鉄職員だったと云われる。
その60年代末に何度か列車で通過していたけれど、巨大な扇形庫を右手車窓に見てから客貨車区の留置群線を通り過ぎて旅客ホームに着くまでの遠い巨大な駅との印象が残る。

ここに始めて降りるのは都内から羽越線撮影に通うようになった1971年のことである。上野からの夜行<佐渡>で達すれば、信越線からのEF58、EF15の電機に磐越西線運用のDD51若番機、羽越線のC57、D51、遠目には初対面のDD53の姿も認めて、各動力車の揃い踏みには、まさに鉄道要衝を確認したものだった。旅客車とて客車、気動車、電車の特急、急行列車に各駅停車が着発して、見られなかったのは交直流の急行形程度だったのではなかろうか。
3番ホームで出発を待つ837列車秋田行きのオハ61のデッキ越しに、鉄道の交差路の駅名標を眺める。右手ではD51が盛んに蒸気を上げていた。5番ホームに停まるのは郡山から224列車で到着した編成。在線のまま2時間後の230列車に折返す。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor5cm/F2 1/125sec@f8 Y48 filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

※お断り
写真は2012年11月にこの内地版を始めるにあたって、道内版での告知に期間限定で使用したカットの再掲です。但しリマスターを施しています。

焼石-少ヶ野信号場 (高山本線) 1998

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釣鐘トンネル出口方抗口上部で交差する国道41号線は、16世紀末より金森長近が開削した益田街道に端を発する旧国道を1966年9月に七里橋に不動橋を架橋して対岸へと付け替えた新道である。今に見られる此処での染井吉野は、その際に一帯の景勝地化を目論んで植樹されたと云うが、地元でそう聞いただけで真偽の程は分からない。

峡谷の斜面には山桜も自生して、第五益田川橋梁を往く列車と桜の画角は高山線南部での定番に違いなく、加えて、そのシーズンなら国道を往く観光客の車を停めてカメラを向ける姿も絶えず、この時ばかりは独り占めの撮影とは往かなかった。
彼らは満開の撓わな枝に歓声を上げていたけれど、鉄道の写真屋としては橋梁との角度の最良と見た位置からだと、その枝振りにて融雪期でせっかくに水量の在る橋脚下の飛騨川の流れが隠され気味になることを些か不満に思い、これには咲き始めを狙うことでの対処を考えたのだった。
下呂の街中より多少標高の上がり、谷間に日照も妨げられる此処の櫻の開花は少しばかり遅い。そのタイミングは、満開の時期が焼石から門和佐川の谷に入った和佐地区に所在の「苗代桜」とほぼ同時期だったのを経験的に知っていたので、Web上にも在るそれの情報を参考に推定していたものの、開花から満開までの進行には個体差も在って、なかなかに程良く花を付けた枝には出逢えなかった。さらには、画角にする橋梁とそれに載る列車の長さのバランスは4両組成に限り、キハ85系<ひだ>の基本編成が5両だったこの当時に、それの実現していたのは大阪からの急行<たかやま>だけなのだった。しかも、1往復のそれの上りには陽の陰ってしまうので、結局のところ年間に1日か2日しか無い桜の理想的頃合いでの、12時少し過ぎの下り<たかやま>の通過だけと云う、ここでの撮影チャンスには満足の往くカットの撮れずに終わっている。
1997年の秋には国道の改良工事の始まって背景の旧道斜面が荒らされ、そこに錆色をした巨大なニールセンローゼ橋である三原大橋が出現してしまったからである。数年を経てのこれの工事完了後には、この毎年時期のルーティンワークに舞戻ったものの、それが画角に邪魔で仕方が無かった。

写真は最後のチャンスとなった98年春の撮影。花のタイミングは少しばかり尚早である。この2・3日後が意図には最適と見えたのだが、本業の都合で諦めざるを得なかった。
厚化粧に思えた、この<たかやま>運用車塗色も春の陽光下には不思議にも好ましく見える。
付記すれば、ここでは列車への光線と手前桜への光線が両立するのも、太陽南中前後の2時間程に限られた。下り<たかやま>は丁度その南中時刻にやって来てくれたのである。

[Data] NikonF5+AiAFNikkor 85mm/F1.8D 1/500sec@f4 C-PLfilter EktachromeProfessional E100SW [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

小波渡 (羽越本線) 1972

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小波渡は1944年10月1日付にて信号場として開設されている。その設置時期から知れるとおり、アジア太平洋戦争の戦況悪化により発動された「非常陸運体制」における北海道炭の京浜地区への年間300万トン輸送遂行に際して緊急に設けられた輸送力増強施設のひとつである。その背景については WebSiteの記事にまとめているので、御参照いただきたい。

石炭を満載したトキ900を連ねた1200t輸送列車は、青函を航送されると定数制限に分割を要し、東北/常磐線のほか奥羽/羽越/信越/上越線経由の日本海回りでも運転され、これら線区の線路容量確保に多くの信号場が設置されたのである。その数は、東北/常磐線で21箇所、日本海経路線上で25箇所にも及んだ。(具体的箇所は追記に掲げた)
迂回経路にて輸送距離も輸送時間も長くなる日本海回りも採用されたのは、東北線系統の容量もあるけれど、そればかりでは無い。その経路が青森から栃木に至る県境越え区間毎に補機を要したのに対して、日本海線では矢立峠に上越国境区間程度であり、しかも後者の核心区間は電気運転が実現していた。よって、石炭の消費量が少なく、動力費上に優位だったのである。主要経路はこちらだったとして良い。同じ理由で、東北線を南下した列車も大半は仙台以南を補機のいらない常磐線経由としていた。

五十川-三瀬間の7.5キロへの信号場設置には、線形から小波渡集落の後背斜面中腹を切取りで通過していた地点以外には考えられず、前後の分割区間での線路容量に偏りの生じてしまうが、集落住民には朗報であったろう。おそらくは設置当初より便宜的客扱いの行われたものと思う。日本国有鉄道の発足して間もない1950年2月1日付にて駅に昇格とされたのだった。
写真は、小波渡を出発して往く838列車、新津行き。
たまたまホーム上で見送った貨物列車の緩い曲線のカントに傾きながらの姿に見とれてしまい、次の旅客列車を待って撮影したカットである。
この曲線のホームは1972年の電化後もその姿を留めていたが(写真に電化柱も写り込んでいる)、1977年10月18日の五十川方の複線別線への切替、翌1978年9月26日の三瀬方での上り線別線線増により、下り線となった既設線部分を除いて直線に改修されてしまい失われた。下りホームに建てられた本屋は信号場以来と思われる簡素な造りだったと記憶する。
小波渡漁港に突き出ていた防波堤の先から振り返れば、集落の一番高いところに赤いトタン屋根のそれが目立っていた。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor135mm/F2.8 1/125sec@f5.6 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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後三年 (奥羽本線) 1979

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まだ仕事写真屋としては駆け出しだった頃のこと、或るフォーク雑誌の編集者と前夜の<津軽2号>で上野を発ち、雪の十文字に降り立ったのは1979年の正月を過ぎてからと記憶する。朝の便で秋田空港に飛べば済む話しなのだけれど、二人とも羽田への早起きの苦手とあっては、その分で夜行のA寝台を選んだのだった。
この横手盆地への用件とは、ここからメジャーデビュウを果たす農民フォークグループ「角石(かどいし)」と、その楽曲に詞を提供した農民彫刻家、皆川嘉左衛門氏の取材であった。
皆川氏も阿部養助氏らメンバー4人も自ら「百姓」を名乗る、そこで何代も続く米造り農家の後継者だった。出発前に試聴盤で聴かせてもらったデビュウ曲「若き百姓よ」は、そのストリングスをフュウチュアしたアレンジには些かの違和感を覚えたものの、当時の歌謡曲化したフォークシーンでは永らく耳にしなかった強烈なプロテストソングに違いなかった。

農政の1970年代は減反政策の時代であった。稲作は60年代に機械化や技術革新にて生産量の飛躍的な増加を見た反面、消費量は低迷し国家の買入米は在庫が積み上がっていたのである。この事態に対して政府は1970年度より政府買入米の限度を設定し、農家の懐柔策として「ヤミ米」と呼ばれていた政府管理外の米流通を追認する一方、コメ以外の作物への農地転換を補助金を以て誘導した。この転換促進は名目上には農家の自主性を尊重するとしながらも、農村への一般補助金の支出を一方的に配分された転作面積の達成を条件とするなど、実質的な強制措置であった。戦後一貫して食料増産に邁進させられながら、高度成長下の恩恵を受ける程に所得の伸びないばかりか、出稼ぎ労働力として搾取され続けた「百姓」には堪え難い屈辱政策だったのである。彼らの多くは転作、実質の減反配分に対して補助金を受け取ること無く、耕作放棄にて応じた。一度休耕した圃場の復旧は物理的に容易ではなく、食料生産面積の失われることでの抗議の意志表示として良い。耕作条件の良く無い山村の棚田から荒れ地化の始まり、鉄道の車窓に休耕田の多くを見るようになったのが、この時代であった。

皆川氏の自宅アトリエでのメンバーへの取材と撮影の後、二階屋のさらに屋根上に突き出すように設けられた見晴らしの良い小部屋に案内され、白昼からの宴会と相成った。例によってビールの乾杯に始まったそれは酒へと移行し、炬燵と差し込む陽光にほろ酔いの頃、持込まれたのが自家製と云う焼酎の数々だった。と云うことは、おそらく密造酒だったのかも知れぬが、もう時効だろうから書いてしまう。米焼酎に芋、麦、蕎麦と定番の続いてはホップ焼酎だった。焼酎なのだけれど、呑めばビールの味には面白く、ついつい杯の進んでしまった覚えのある。

この年、十文字にはこの取材を始めに都合三度足を運んだ。雪の溶けた5月には、「角石」が毎年に主催している野外コンサート「さなぶり(早苗饗)歌っこ祭り」を覗かせていただきに、そして収穫の秋にポップ焼酎が出来たと誘われて道内旅行の途上に立ち寄ったのだった。
写真は、米沢から秋田への445列車。その際に横手盆地北部まで足を伸ばしてのカットである。稲穂の海を渡る列車も良いけれど、刈入れの終わり杭掛けのハサの立ち並ぶ晩秋の景観には惹かれる。
「角石」と皆川嘉左衛門氏についてはWebに多くの記事が在り、その「若き百姓よ」「休耕田に佇つ百姓」もそこで聴くことが出来る。商業的には惨々だった彼らだったけれど、30余年を経てもそれを記憶している方々の多いのに驚く。確かに「聴かれ」ていたのである。リーダー阿部養助氏は還暦を過ぎて羽後町の町議を務められ、そして現役のミュージシャンでもある。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8 1/250sec.@f8  Y48 filter  Tri-X(ISO320)  Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

鯵ヶ沢 (五能線) 1972

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いずれ、道内版のほうでも記事にしようと思っているのだが、国内最大の淡水魚イトウのことである。
実は、北海道の栗山町と云うところで、これの体長が2メートルに及ぼうかと云う魚体の拓を見たことがあり、まさに巨大魚として良いその大きさに圧倒されたのだった。調べてみればイトウの生育は遅く1メートルの成長に10年ないしそれ以上、2メートルともなれば20年超を要すると知れた。

かつてには、渡島半島南部と日高地方、道北日本海岸の一部を除く北海道全域の各水系と、青森県の高瀬川、大畑川、岩手県の閉伊川にも棲息が確認され、その分布域は湿原と海跡湖の存在域と重なっていた。イトウ属で唯一降海性を持つイトウの生活史は未だ解明されぬ点の多いものの、流れの緩やかな湿原河川の上流から下流の海跡湖や河口の汽水域ないし塩水の沿岸までを回遊し、水温の上がる春期に産卵のため支流の上流域へを遡上すると考えられている。あくまで緩い流れを好み、サケのごとくに急流を上流へと上ることは無い。青森県なら小川原湖あたりを2メートル級も含めて泳ぎ回っていたのであろう。
戦後に進められた湿原の農地や宅地への転換、それにともなう平坦地を蛇行する河川の排水路化、即ちは直線水路への改修は、河畔林の失われた農地からの土砂流入と相俟って産卵床に選択される淵から瀬への川相の変化地点、渕尻とか瀬頭と呼ばれる位置の小石礫の水底を奪う結果となり、1960年代から個体数を減じ、特に1980年代に至って激減したのであった。開発の手の及び易い平坦地河川を生活域としたことが仇となった訳である。青森・岩手の河川では1960年代を最後に捕獲の記録は無い。

サケと異なり寿命の長く生涯に幾度も産卵を繰返す(多回産卵)これの、人工採卵と孵化には北海道立水産試験場が早い時期に成功し、釧路川水系への種苗放流を試みているのが、周辺開発の進んだ河川環境から生存率の悪く、雄で4から6年、雌では6から8年と云う遅い成熟期間にも阻まれて、放流個体による自然増殖の成果を上げるに至っていない。降海型ではあるが生活河川の沿岸を離れることなく、近年の研究では産卵支流単位での母川回帰性も確認されたたことから、水系毎に独自の遺伝特性を持つ個体集団を形成していると考えられており、他水系からの移植放流の回避には稚魚放流数にも限界がある。

しかしながら、稚魚からの人工飼養は比較的容易であるものか、食用としての養殖が数カ所で行われており、青森県の「鯵ヶ沢町イトウ養殖場」もそのひとつである。赤石川を遡った白神山地の谷に設けられたこの養殖場は、鰺ヶ沢町が1980年に地域活性化事業として、ロシヤ沿海州河川からの個体移植により養殖を開始した施設である。
これを知ったのは1990年代のことなのだが、既に絶滅の危惧されていたそれを食えると聞けば魚好きとしては座視出来ず、秋田県の大館に所用の際に足を伸ばしたのだった。町内の料理店に予約をいれておいたイトウ料理のコースは、それはそれは美味かったのではあるが、好みからは過剰とも思えた脂乗りは如何にも養殖魚然としていて、おそらく塘路の古老から聞いていた釧路川のそれとは随分違うだろうと感じた。

鯵ヶ沢鳴戸の海岸を往くのは1792列車。五能線では珍しかった(客車の連ならない)、鯵ヶ沢までの貨物列車である。
市街地を僅かばかり離れた何も無い海岸だったのだが、今は「七里長浜」とか呼ばれて、多分画角手前の位置になると思うが国道沿いにはコンヴィニエンスストアまでが建つ。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor5cm/F2 1/500sec@f4 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

平岩 (大糸線) 1987

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信濃大町糸魚川間鉄道は、『軽便鉄道法』(1910年4月20日法律第57号)下に確保された鉄道建設費予算を以て1920年7月の第43回帝国議会の協賛を得て建設の決定し、同法の失効以後につき『鉄道敷設法』(1922年4月11日法律第37号)が制定されると、その附則第二項により第一条別表の予定線と同等に扱われた。
予算上の事由から幾度か着工の延期されながらも、信濃大町から中土までが大糸南線として1935年11月29日までに、糸魚川から小滝の区間が同北線として同年12月24日までに開通した。残る中土-小滝間にも着手されていたのだが、険しい地形に難航しているうちに日中戦争の勃発により1941年6月30日付で工事中断の止む無きに至り、戦局の悪化した1944年には軌道工事まで完成していた平岩-小滝間の軌道を始め橋桁までが金属供出により撤去されてしまった。
戦後いち早く1946年には運輸省鉄道総局により信濃川工事事務所の所管にて復旧に着手されるも、経済混乱にともなう資材の入手難などから遅々として進まぬままに再び中断、ようやく1953年6月に新橋工事事務所の手により再開され、1956年5月に信濃川工事事務所に移管の上での1957年8月15日のこの区間の開通を以て全通を果たしたのだった。
これに際しては、1937年6月1日付で買収した旧信濃鉄道区間や既設区間に存在していた簡易線規格を全線で丙線規格と改める工事も行われたのだが、橋梁には負担荷重KS-12の個所が残存した。入線機関車がC56に限られた所以である。ちなみに黒部第四発電所(ダム)建設資材輸送時のED60の入線は軌道強化を行っても速度制限を各所で受けた。
橋脚や隧道の施設は勿論、路盤工事も完成していながらの工事再開の遅れは、1949年の発足と同時に非採算線区の経営問題に直面した日本国有鉄道が、この線区についても逡巡したゆえと思える。地質の不安定な糸魚川静岡構造線上に位置し、急流として知られる姫川による水害や冬期の雪害なども考慮せねばならない災害線区との予測からも、開通を回避したいのが国鉄の本音だったろう。横浜地区や以西の東海地方と北陸地方との輸送においては短絡線となるに関わらず、軍部の要請も無くなっては、最小限の投資にて輸送力を考慮しない線路に留置かれたのである。それは今に繋がるこの区間の不幸でもあった。これには項を改めたい。

富山第一機関区の大糸線運用には、永年のキハ55/キハ52に替えて1982年度よりキハ58が入り始め、1985年度までには全ての運用が、それの2両組成に置替られていた。多くが秋田運転区と新潟運転所からの転入車で非冷房車だが、秋田からのクルマはパノラミックウィンドウ装備の1968年度増備車だった。
キハ58と云えば、かつてには松本-金沢間急行<白馬>に運用されるだけの線内では最優等車両だったから、1982年11月改正でそれの廃止されると同時に、今度は線内列車の全てが外見は<白馬>と云う鄙にも稀な華やかさがその頃の大糸線であり、そのままに西日本旅客鉄道の承継した富山運転所に引継がれていた。
写真はパノラミックウィンドウ車が行違う平岩駅、駅長が出発合図に向かう。列車は426D(左)と429Dである。
1982年度末に、列車回数の少ない単線区間向けに閉塞信号機を設けない方式で自動信号化され、松本指令所からCTC制御されていたにかかわらず、ここには要員配置駅だった。それを要した事由はわからない。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S 1/125sec@f8 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

渚 (高山本線) 1997

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下呂から久々野へと抜ける山間に位置する渚集落と、その外れに開かれた信号場のような小駅、渚の駅名由来にかかわるWikipediaの記述には噴飯する。
上呂から位山峠を越えて無数河に下っていた飛騨官道(*1)に替えて、16世紀末より飛騨領主だった金森長近が開削を進めた此処での益田街道は「小坂通り」と呼ばれ、その峻険な地形から確かに益田川を左岸から右岸への遷移を要したとも思われるが、現在よりも遥かに水量の多かったはずの急流に小舟の「渡し」の在ろうはずも無く、それは簡素なロープウェイとも云えた「籠渡し」だったろう(*2)。「遠い海に思いを馳せる」とは涙モノの話しである。
ここでの「ナギ」とは、栃木県日光男体山の大薙に新薙、古薙、長野県伊奈谷の白薙、青薙、黒薙などに例が在る崩落地名と考えるのが自然に思える。「サル」地名や「ヌケ」地名と同じく崖崩れや地滑りを多々生じていた土地に付された古の名であり、有り様を示す「サ」(「然」だろう)を付したものと思う。「渚」は後年の当て字に過ぎない。
その当て字が余りにも嵌っているので気がつかないけれど、長野県木曽谷の南木曽(なぎそ)も同様事例と思われる。1961年の3個村の合併による町制施行時に町名を、東にそびえる南木曽岳に採って南木曽町としたものだが、その山名自体、古には奈岐蘇の字が当てられた「なぎ」地名であり、一帯は「蛇抜け」と呼ばれた土石流の多発地帯である。
実は、長野県のアルピコ交通(旧松本電鉄)上高地線にも渚駅が在り、所在地も松本市渚である。ただし、松本盆地内の幾つもの河川の合流地点に、これは波打ち際としての渚(もしくは汀)そのものであろう。
............................................................................................................................................
(*1) 律令時代の都と各地の国府との連絡道である。近年の研究者による命名で、当時よりその名称の在ったでは無い。
(*2) ここには「片籠」の地名も残る。

久々野町の渚集落は、渓谷を刻んで曲流する益田川へと落込む斜面を横切る益田街道に沿って疎らに民家が続いていた。どれも百姓家として見れば小規模なのは、やはり土地の狭いからだろう。飛騨地域に特徴的な露出した柱や梁に漆喰ないし土壁の外壁、欧米に云うハーフティンバ様式の切妻家屋がここに見られないのは些か不可解ではあった。
高山本線は平地の無い集落内に停車場を設けることが出来ずに、それは1キロばかりを進んだ片籠集落の対岸位置とされた。当時に周辺に人家の無く信号場然としていた所以である。
1968年10月に国道41号線、益田街道の新道が開通するまでの阿多粕からの道は高山線の下部を益田川に沿って進み、第17益田川橋梁の直下で渚側に渡っていたから、古の「籠渡し」もその辺りに所在したものと思う。
新道は集落背後の棚田の斜面を高度を上げてバイパスし、そこからは集落や駅を見下ろせた。

春紅葉を背に20パーミルを上るのは、4711D急行<たかやま>。
1990年度末に、普通車の腰掛をR51型に換装するなど接客設備を改善したキハ58系列6000番台の7両が向日町運転所に配備の上で専用されていた。既に観光客だけだった旅客サーヴィスには適切な措置ではあったが、この外部塗色と車体に不釣合いな大型トレインマークは頂けなかった。

[Data] NikonF5+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D 1/500sec@f4 C-PL filter Ektachrome Professional E100SW [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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豊後中川-天ケ瀬 (久大本線) 1986

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小学校の給食を懐古する風潮の在り、それのレシピを再現したカフェやらレストランの盛況と聞いて仰天したものだった。その体験には地域差や年代差の大きいとは理解しても、個人的には二度と出会いたく無い代物であり、懐古などとんでもないのである。
質の悪いとしか云い様の無いパサついたパンに、栄養価を満たせば良いだけで味付けは二の次だった副食、極めつけにはそれの種別を問わずに付された脱脂粉乳の組合せは思い出しくたくもない食事の筆頭と云える。午前中の三時限目ともなれば調理室から漂う複数の料理の入り交じったえも言われぬ匂いには悪夢の始まりを思ったものだった。
件の再現食堂の料理写真など覗けば、それがいつ頃のどの地域のレシピなのかは分からないけれど、自身の体験よりはマシと見えはするものの、アルマイトの食器に先割れスプーンは、やはり「餌」の域を出るものでは無く、「供食行為」とすれば実に礼を失したものだったと再確認する。
以来に、給食室からバケツに満々と運ばれて来たシチューの類いはどうしても苦手であり、食パンはどんな評判のベイカリーにせよトーストしないと食べられない。この年齢での体験とは後々まで尾を引くものとつくづくに思う。

南方の景観の多くを占める照葉樹や竹林の植生にどうにも馴染めないのも、子供時代にそれをほとんど見ていないからだろう。普段の景色として、また旅なら車窓にしている分には良いのだが、写真機のファインダ越しには違和感が募るのだ。先達諸兄の九州方面などの撮影を誌面に見ていて感じた居心地の悪さがそれと気がついたのは1974年に幾度かの山陰線往きでのことだった。海岸線は松林としても一歩内陸に入れば、そこは照葉樹の景観だったのである。
福岡に仮住いの頃、久大本線ばかりへと何度も通ったのは、そこに客車列車の残存していたことが最大の理由だけれども、ファンダに見る風光に覚えの在ったからにも違いない。

写真は第五玖珠川橋梁上の626列車、鳥栖行き。
山間の盆地である日田は近世から林業と木工産業に栄え、そこへと流れ下る玖珠川の流域も日田杉の産地だった。橋梁背後にもその美林が迫る。これは北で見慣れた光景だ。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f4 Fuji SC52 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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