70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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山寺 (仙山線) 1978

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1968年10月のダイヤ改正は、東北本線全線での線増と電気運転化の完了にともなう大幅な輸送力増強に電車特急による上野-青森間の8時間15分運転をもたらすエポックメイキングな出来事であった。
一方、奥羽本線でも福島-米沢間の既存電気運転区間の直流電気方式を交流とした上で、それを山形まで延伸し、1967年度第二次債務車両計画による455系急行形電車の15両の増備を以て上野-山形間急行<ざおう>の置替が行われた。そして、それは同じく作並-羽前千歳-山形間の電気方式を改めた仙山線においても仙台-山形間準急<仙山>の3往復中2往復に投入されたのだった。
当時に仙台運転所に配置の急行形は、TB車にTS車-2両を組み込み、磐越西線乗入れの附属編成を含む13両組成で上野に発着した幹線急行運用の主力であり、地域内列車には、せいぜい白河-仙台間の準急<あぶくま>に運用される程度だった上、前年の常磐線草野-岩沼間の電気運転施行でも、そこに勝田電車区の急行形電車の進出は見送られていたから、これは異例に思えたのだった。何より、新鋭の急行形電車が通票閉塞の施行区間を走行すること自体、他に例は無かったのである。

これは、下り夜行/上り昼行の季節列車として設定の<ざおう>1往復の山形での日中10時間程の間合いによる運用であり、6両組成の山形方の1ユニット3両を解放して充当していた。気動車3両組成からの置替に1等車を含む6両では輸送力過剰と見たのであろう。この2M1Tは最小組成でありながら、当時には北陸本線の<くずりゅう>にしか例の無い運転でもあった。余談だが、同じく1968年10月改正で増発の水戸(上野)-仙台間の<そうま>も勝田区の3両組成とされた。
季節列車の間合いゆえ、それの運転休止期間には仙台運転所から編成の送込まれて充当されたのだが、それは間合いの運転の場合と編成方向が逆転した。奥羽線列車から繋がる運用は仙山線の線形から仙台には方転編成での入線である。
1972年3月15日改正で山形での編成解結を取り止めた6両での運転とされて仙山線に特別車(旧1等車)がオロハ31以来に復活することになり、1978年10月2日改正での奥羽線急行の配列変更に際して運用を分離、仙台運転所出入区の単独運用とされ、合わせて気動車で残っていた1往復も置替られたのだった。

秋の足の早い夕暮れ、暮色濃い山寺に停車するのは、この改正で電車に置替られた816M<仙山6号>である。
鉄道の写真屋として見る面白さは、やはり新鋭の急行形電車が丙線規格の山岳線を通票の授受を繰返しながら走るところだったろうか。低規格線然とした本線有効長の短い停車場や、旧直流区間に残る木製電化柱との組合せは如何にもアンバランスであった。類似例は身延線に飯田線、そして大糸線となろうか。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8  1/60sec@f4  Non filter  Tri-X(ISO320)  Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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手ノ子 (米坂線) 1971

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飯豊町の手ノ子は標高の260メートルばかりを上がるのだけれど、広い白川の川底平野に里の景観だった。駅からの道は、辛うじて集落内は舗装されていた小国街道(国道113号線)を越え、川辺ヘ向けて緩やかに傾斜して往き、両側には樹木を背景に雪囲いをした民家が続いて雪国の風情を見せていたと記憶する。北の育ちにはそれの無い東京を物足りなくも思っていたから、長い蒸機列車の合間には懐かしくも眺めたのだった。この頃、内地に転居して知り合った人々の多くがこのような里の風景を寒々と感ずるらしいことを知り、実は衝撃を覚えていた。北国育ちは、それにストーヴの焚かれた室内での温々とした冬の暮らしを思うのである。

長井盆地に特徴的な屋敷林を伴った散居村の景観は川底平野にも続いて、川岸から振り返れば、まとまった集落をなしていた手ノ子も民家と集落の屋敷林が混交した美しい姿と記憶している。最近の衛星写真に見れば集落は一回りも二回りも小さくなった印象である。そこの家屋構造の変化や農業を取巻く環境の変化は屋敷林を不要とするに至り、住民の高齢化も加わって手を入れられなくなった例も多いと聞く。久しく通過すらしていない手ノ子はどう姿を変えたものだろうか。

このブームと呼ばれた蒸機運転末期の手ノ子駅の様子は、以前の記事 手ノ子 (米坂線) 1971 に書いた。
この日も、米沢発の一番列車からは多くの撮影者が下車してごった返す待合室には、些か嫌気の差して峠を避けて反対方向の羽前椿方に歩いたのだった。県道の中郷橋あたりまで戻ると掘割状の切取り区間の在ることを思い出したからである。案の定、他に撮影者の見当たらずに風景を広く取り入れられた。
朝の斜光線に、思いがけず9634を本務に重連でやって来たのは123列車、坂町行き。客車組成に増結は無かったから次位機は上りに関わる送込仕業であったろう。緩い勾配にはブラスト高らかに駆け抜けて往った。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2 1/250sec@f5.6 Y48 filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

飯井 (山陰本線) 1974

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築堤に土盛の乗降場を付しただけの飯井に降りれば、小さな集落越しに入江の青が見えた。これが北の羽越線や信越線なら海辺の寒村と呼んでしまいそうだが、石州瓦の明るい色彩がそれを躊躇わせた。北国育ちの僻見かも知れぬが、どうにも南の風景は豊かに見えてしまう。
1980年代半ばに福岡に仮住まいした時、九州一円を旅して歴史的にも北方との社会財の蓄積の相違を感じたものだった。なにより、酒の肴を探しに長浜の市場を訪ねれば、その種類と水揚げの豊富さに驚き、思わず北の海と比べていた。駅や街中のスタンドの「そば」でなく「うどん」も意味有りげに思えたものである。

小さな入江に面し、背後に山塊の迫る飯井地区も斜面には蜜柑畑の開かれていたものの、耕地は僅かばかりにかかわらず、どの農家も広い敷地にどっしりとした住居を構え、件の石州瓦を載せていた。半農半漁、決して専業とも云い難いのだろうが、ついつい単位収量とか出荷の市場価格など考えてしまうのも十分に僻目に違いない。
ここは、萩市と大津郡三隅町の境界でもあった。入江に注ぐ水無浴の谷を分界と定めたゆえのことである。水無浴の水流に立地した集落は、それで行政区域が二分されていたのである。地元の人々も、古くは旧三見村域であった東側を三見飯井、西側を三隅飯井と区別していたようだが、もとより一体の生活圏である。
この分界は阿武郡と大津郡との郡界でもあったから、定められたのはかなりの古に属しよう。それぞれの中心域からは山塊と海に隔絶されたこの地の人々は、そのような「外界の勝手」など意に介さずに暮らして来たものと思う。

駅から、ほんの2・3分で集落を通り過ぎ入江に立てば、ここの風情がすっかりと気に入ってしまい一日を過ごすことに決めていた。
水無浴河口に築かれた石積みの導流堤が珍しく、レンズを向けておいたのだが、やがて現れた2人組の女の子は撮影者にカメラの存在など気にするでなく砂遊びに興じるのだった。
丁度やって来た列車は804D<さんべ1号>。この熊本-鳥取間を12時間かけて走っていた急行は、下関で編成の一部を分割、山陽線・美祢線と運転したそれを、長門市で再び併結していた。離婚・再婚列車とは、古い鉄道屋なら覚えておいでと思う。

[Data] NikonF2A+AutoNikkor105mm/F2.5 1/500sec@f5.6 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

飛驒小坂-渚 (高山本線) 1997

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だいぶ前に北海道編の記事 豊浦 (室蘭本線) 1993 でも触れたが、撮影地点の様相は時間経過で変化する。植生の成長にともなう視界の遮断が大半だけれど、人為的な事由も数多あり、こと高山線に限ればそればかりに思える。
ここでは、知る限りの1980年代以降に併行する国道41号線や360号線の改良工事が断続的に進められ、それにて幾つかの位置が失われて往った。大半が鉄道橋梁に並列しての国道橋の架橋ゆえであり、これは飛騨川や宮川の流路をトレイスし屈曲していた国道が直線的に改良された結果、鉄道の線形に近づいたと云うことなのだろう。すぐに思いつくだけでも、第二飛騨川、第五益田川、第18益田川、第一・第二宮川の各橋梁で、かつての画角では撮れなくなっている。そして、この飛騨小坂-渚間に所在の第14に第15の益田川橋梁である。

1980年代末に基礎工事に着手、1994年に完成した小坂久々野バイパスの門坂(かどさか)改良では、第14益田川橋梁飛騨川対岸の林道からの俯瞰画角に鉄道西側に並行して架橋の門坂大橋が写り込むことになり、撮れないでは無いが、もはやその価値も無くなった。東側の旧国道に回り込んでも背景にそれが邪魔をした。
2009年からは阿多粕(あたがす)改良工事の始められ第15益田川橋梁にも柏原(がいばら)大橋が並行することになってしまった。これの渓谷での橋脚基礎工事は2007年には着手されていて、松尾集落近くからの遠望でも搬入の重機が画角に動いたのだが、完成した今では橋の本体が写り込む。これとて撮れなくは無いけれど興醒めではある。
勿論、河床から高さの在る無数原(むすばら)大橋から第13益田川を見下ろせるようになる等、新たな画角も出現したものの、この区間は撮影地として終焉と云うのが正直なところだ。

写真は、飛騨川へ落込む断崖下を第15益田川橋梁へ向かう1034D<ひだ14号>。松尾側からの後追いである。
この日、橋梁の向こう側の河床には何やらのヤグラの建てられていた。柏原大橋着工の10年も前のそれは事前の地質調査だったのだろうか。画角の邪魔物の排除には夕刻を待ってアンダに振るしかない。
ここでの撮影に列車と徒歩の鉄道屋としては、飛騨小坂の駅から無数原あたりまでなら歩いていたけれど、この松尾までの凡そ5キロを1時間の行程にはその気になれず、濃飛バスが運行の下呂高山線を利用していた。平日に10本程の運行は、まあまあ使えたのである。この路線の困ったところは、停留所の標識が高山方面側にしか設置されないことだった。初めての停留所から下呂方面に乗るに、高山行きの真向かいとは限らない停車位置が分からずに難儀した。

[Data] NikonF4s+AiNikkor 85mm/F1.8S 1/500sec@f5.6 NONfilter PKR Edit by PhotoshopCC with LR5 on Mac.

女川 (石巻線) 1972

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1980年7月31日まで石巻線には女川を起点に女川港まで1.4キロの貨物支線が存在していた。通称の女川臨港線である。
1954年に『港湾法』に基づく地方港湾に指定され、設置・管理者の宮城県が、1957年までに石浜地区へ水深7.5メートルの商業岸壁に物揚場を完成し、合わせて既存の漁港地区でも物揚場の整備や魚市場の設置を進めた女川港での、その事業と一体の海陸接続線として建設を請願し、建設費全額の同県負担と女川駅貨物扱いの女川港駅移転を条件に国鉄が工事を受託した線路であった。
商業港としては近隣に後に重要港湾に指定される石巻港が所在し、そこでの工業港計画も進めていた宮城県が、女川にも商業岸壁を築造したのは、当時の港湾法下にあっては漁港としてよりも商業港としての整備が国庫補助の容易だった制度による。同県の本音も金華山漁場の活況に水揚げの堅調な漁業基地整備に比重のあったと思われる。
1958年8月11日に開業した女川港駅と臨港線は、港から女川駅までの小運送の省略により鮮魚の鮮度保持に大きく寄与した。

女川港駅に駅長は配されず女川駅の管理駅とされた。女川が頭端駅構造のため構内での分岐線形ではあったが、営業上には延長として扱われ小牛田起点46.3キロの営業キロ程が与えられていた。
運転上からも女川駅の構内扱いであり、女川の場内信号機は旅客乗降場への2線と臨港線への3基が同位置に建植され、女川港着発列車は本線列車として運転された。
連査閉塞施行のこの頃、午前と午後の2往復の着発に運転掛に構内掛の常駐したものかは覚えていない。連査閉塞には閉塞器の操作だけで本線に進出出来たけれど、通票閉塞の当時にはどのような扱いを行っていたものか興味は尽きない。機関車の転向のため構内運転で女川に戻った際に通票を授受していたと推定するのだが、確証は無い。

女川1番線に停まるのは829Dから折返となる832Dの小牛田行き。キハ17+キハ10+キハ16の組成はバス窓車の編成美であろうか。でも、便所が編成に一箇所しかないことになる。
手前に続くのが臨港線の線路である。旅客施設との位置関係がお判りいただけると思う。撮影位置左手に駅本屋が在り、線路は駅前広場の北側をかすめて石浜方向へ延びていた。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor5cm/F2 1/125sec@f8 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

下小川 (水郡線) 1979

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夏中、鮎の釣り人の姿が絶えない久慈川だけれど、落ち鮎の頃になると鮭の遡上が始まる。久慈川の流れる那珂郡山方村辰ノ口に生まれ育った祖母の話には、村人が網ですくって捕獲した話が語られ、それは面白いように獲れたと云う。そしてそれは、軒下に吊り下げて八溝山地から吹き下ろす寒風に晒す「干し鮭」となって貯蔵された。
もちろん1900年生まれの祖母が幼少の時分のことであり、現在に茨城県は資源保護から永年に渡り一部漁業者を除き県内河川での鮭採捕を禁止している。それは各河川とも孵化・稚魚放流を事業として行っておらず、自然繁殖に任されている事情からだろう。茨城県は自然遡上の見られる太平洋側の南限にあたる。

余談だが、稚魚の種苗法流により回帰に成功した遡上の南限は、千葉県九十九里浜に注ぐ栗山川である。ここでは1976年から千葉県水産試験場がそれを繰り返した結果、回帰が定着し、近年には300から800尾を採捕しての種苗生産が地元自治体を中心に行われている。
また、ここでの放流稚魚や東京湾多摩川での民間によるそれの「迷い鮭」であろうと推測される魚体の遡上目撃が、最近に神奈川県下の河川にて相次ぐが、回帰定着には至っていない。

久慈川の鮭は、流域に幾つか存在する取水堰堤への魚道整備などにて保護され、近年にはそこに注ぐ多くの細い流れの小さな堰も、遡上時期が渇水期でもあることから開放されて、産卵環境の良いかなりの上流まで泳ぎ入っている様子である。
これを背景に茨城県・県水産試験場では、将来の資源活用のテストケイスとして一般公募による「久慈川サケ資源有効利用調査」を2012年より実施している。遡上時期の数日間のみ、下流域の指定河岸でルアー釣りを、中流域でフライフィッシングを定員を限って許可する試みは、要するにはサケ釣り大会である。あくまで調査名目だから釣り人は採捕従事調査員とされ、釣果の魚体に関わる報告書提出など要するのだが、3尾までは持ち帰りも許され、何よりフライでの釣上げは全国的に許可事例の無く、一日あたり6000円と云う高額な施設利用料(つまりは遊漁料)にもかかわらず大変な人気と聞く。

ワム車を連ねて久慈川右岸を往くのは1350列車。
この当時に水郡線内の貨物扱駅は、砕石出荷の西金を除けば常陸大子が残されるのみとなっており、水戸との間に1往復の貨物列車が設定されていた。荷主は知らぬのだが、いつに見てもワムにワラの有蓋貨車ばかりの結構な財源のそれは、何かしらの定形輸送だったと思われる。
手前の沈下橋は、下小川 (水郡線) 1980 に書いた平山橋である。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F1.8S 1/125sec@f5.6 Y48 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

打保 (高山本線) 1996

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宮川村の打保は、杉原に至るまでの宮川の谷に散在する幾つかの集落の中心ではあったのだけれど、そこに通い始めた20年程前、集落を通り抜ける越中西街道沿い所在したのは、農協ストアに食料品店と酒屋の一軒ずつに簡易郵便局、ほんとうに小さなガソリンスタンド、そして開店休業のような旅館が全てであった。通りには、商店の造りを残した民家も疎らに並んでいたから、かつてには賑やかだったことだろう。それら閉じられた商店にも鮎釣りの遊漁券取扱いの看板だけは掲げられていたのが印象的ではあった。

駅前広場にその裏手を見せていたのが食料品に雑貨の桜井商店である。年季の往った女将がひとりで切盛りしていたここには、一日の撮影を終えて駅に帰り着けば必ず立ち寄り、菓子パンやらを買い込んで取り敢えずの空腹を満たしていた。構内で夕方の特急離合を撮り終えてから夜の高山行きを待つまでの長い時間には、それだけは売っていた缶ビールに肴替わりの魚肉ソーセイジなど買い込んで無人の待合室で過ごすのも楽しい時間ではあった。
少なくともひと月には一度、多ければ2度3度と顔を出すもので顔見知りとなり、一頻りの世間話に打保の昔語りも随分と聞かせて貰った。駅で長時間過ごすと知れば、自家製のツマミやら茹でたてのトウキビなど届けてくれたのも一度や二度ではなく、本当に良くしていただいた。
2003年秋の高山線を長期不通に追い込んだ宮川の氾濫を翌朝の報道で知り、安否を気にしていたのだが、数日経ってようやくに繋がった電話には安心したものだった。

打保生まれの女将の話には、この山間の集落が多くの人で賑わった過去三回の工事のことが度々語られた。
ここでは、1923年に着工した、当時に日本最大出力とされた日本電力蟹寺発電所の取水施設、今も駅裏手で宮川を塞き止める打保堰堤築造に山塊を貫いた導水隧道掘削工事、それに続いての1930年に猪谷まで達していた飛越線の、ここにも停車場の予定された延長工事、そして戦後には1952年に着手の関西電力打保発電所設置工事と確かに三回の大規模工事が行われ、集落がそれぞれの工事拠点とされたのであった。
堰堤工事は親からの聞き覚えなのだろうが、鉄道の工事には、まだ重機も多くは用いられない時代に飯場へと千人規模で集められた人夫達が時には荒れて、幼少の身だった女将は怖々とそれを見ていたらしい。それが戦後ともなれば、今の商店建物の一階部分(駅に向かっての段差に建てられているので道路に面した店は二階となる)で人夫相手のスマートボール屋を開いたと云い、曰く「面白いように儲かった」と笑っていた。

曲線を描く停車場と云うのは画角に変化を生み出せるので面白い。特に打保は上り方下り方とも背景が暗黒に落とせて夜間撮影向きだった。
接近する前照灯に浮かび上がる列車は1036D<ひだ16号>。光の主がここで離合する1031D<ひだ11号>である。
ダイヤ上には1031Dの先着で1036Dが通過なので、1031Dの遅れなければ生じないシーンではあった。
この後の下り普通列車もバルブで押さえ、それと杉原交換で上って来る列車で高山の宿へ戻るのを定番にしていた頃である。まだ待合室にストーブも置かれていて、雪で冷やしたビールは美味かった。

[Data] NikonF4s+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D Bulb@f11 Fuji CC35M+06B filters Ektachrome DynaEX100 [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

間島 (羽越本線) 1968

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1960年代の半ば、小樽築港機関区には18両のC57が集結して小樽-旭川間を中心に仕業が組まれていた。多くがボイラー上部に重油タンクを載せた重油併燃の厳めしい姿で、それが狩勝を越えて長駆釧路まで、千歳線/室蘭本線を経由して函館までの運転に備えたものだとは、機関区の職員に教えられて子供ながらにも承知していた。
線路端に立てば必ずやって来る機関車だから珍しくもなかったけれど、配備されたばかりの軽量客車による寝台車にそれに粧いを合わせた食堂車を含む<まりも>の長い編成を従えての姿は別格で、これは札幌以東でしか見られなかったので、日曜の朝早くに苗穂あたりまで出掛けたものだった。
それは堂々足る急客機だったのだけれども、同じ頃「鉄道ファン」誌のグラビアと記事に北陸線親不知の荒波を往く姿も見つけて、それには魅せられたのだった。単線の通票閉塞に信号場で優等列車から貨物列車までを捌く潮騒の亜幹線にも強く惹き付けられ、以来にC57と云えば、当時裏縦貫と呼ばれた北陸・信越・羽越線の細い鉄路を往く亜幹線急客機との印象を強くしていた。
しかしながら、札幌の地から親不知は余りに遠く、夏休みの帰省の往路に立ち寄った花輪線に続いて、その帰路に親父にせいぜいとせがんだのが羽越線であった。

この68年当時、C57は新津機関区に12両、酒田機関区にも5両の配置が在り、残念なことに優等列車は<日本海>も<羽黒>も秋田区のDF50に替わっていたけれど、やって来る旅客列車の大半を牽いていた。
羽越本線は当然に単線非電化の線路が続き、1961年度に連査閉塞の施行されたものの、自動信号化は1966年7月30日の酒田-羽後本荘間の完成を以て全線に及んだばかりだった。ようやくに幹線の面目を施したものの、全線の複線電化の完成した東北本線とは比べ物にならない亜幹線の姿には違いなかった。風雪にはほど遠い季節ではあったけれど、その海辺の細い線路には多いに満足したものだった。

新津から新発田を過ぎても水田の広がる内陸を走り続けた羽越線の列車は、村上の先で三面川橋梁を渡り、その河口の岩ヶ崎を旋回してようやく車窓に日本海を見る。情報の乏しい当時に撮影適地としては今川信号場前後の笹川流れが知られるだけだったから、そのエメラルドの海面には思わず降りてしまったのである。
越後早川方に隧道を一つ越えた先には人気の無い白砂の海岸が続いていた。今は観光資源とされるこの光景も、砂利道の県道を走る自動車は疎らな頃である。
写真は835列車の秋田行き。C57に続く客車はオハ61ばかりだった。

[Data] NikomatFT+P-AutoNikkor5cm/F2 1/500sec@f5.6 Y48filter NeopanSS  Edit by CaptureOne5 on Mac.

赤塚-水戸 (常磐線) 1966

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自分専用として一眼レフカメラを初めて充てがわれたのは、1966年の夏に帰省していた水戸でのことだった。ある晩、祖父母の家で外出先から戻った親父に新品のNikomatFTを手渡されたのである。日本光学社(現ニコン)定番の金色の箱は眩しく、ボディを取り出す時の動悸は忘れ得ない。
NikonFに対する普及機ながら当時の定価を後年に調べれば30500円とあった。親父の外出は懇意の写真店を訪ねるためであり、おそらくは仕入値に近い金額で入手して来たものだったろう。

NikomatFTは、一眼レフらしく装着レンズを透過した光線による測光、即ちTTL測光を実現し、必然にその露出機構を内蔵したNikon社の最初の機種であった。永年、別途に露出計を使って来た親父には、それの煩わしかったものか翌年にはF用のフォトミックファインダを買い込んでいたものだが、その撮影の姿を眺め続けていた子供の眼には、逆に白い半球の単体露出計での計測が如何にも写真らしくて格好良く見え、使わなくなったそれを貰い受けて以来に現在まで、露出の別途計測は写真のスタイルになっている。
このカメラについては、レンズ装着の度に感度に開放F値を合わせねばならない、その初期の連動方式と共に出版物やWeb上でも多くが語られているので、ここには繰返さない。記述されるインプレッションの多くはそのとおりである。Nikon社の製品であるから質実に作り込まれ、基本性能は十分であったから鉄道の撮影の限りに不自由したことは一度も無い。まだ基本技術も拙く、せいぜい135ミリまでの望遠には、視野率の90パーセント前後と比較的小さく50ミリ装着時で0.86倍とされたファインダも気にならなかったのである。ショックの小さなミラーのクイックリターン機構も子供の手持ち撮影には丁度良く、後年使ったFやF2のそれには驚いたと記憶する。
但し、上記のレンズ交換の度の設定を失念する失敗だけは数知れず、業を煮やした親父は(多分親父もPhotomicTNファインダで同じ目に在っていたものと思う)、まもなくにこれを売却してNikomatFTNを入手して来て、以後F2を(これは自分の稼ぎで)買い入れるまで、貰い下げのNikonFと使っていた。

写真は、待ち切れなかったその翌朝早くに、通っていた水戸市民プール下の常磐線に立った際のカットである。
これが一眼レフカメラによる最初の撮影と云うことになる。
列車は6列車<ゆうづる>。牽いているのは田端区のEF80である。この区間も電気運転となって間もなく、<ゆうづる>は前年秋に急行<北斗>を格上げして設定されたばかりであった。もちろん平まではC62蒸機に引かれていた頃になる。テストのつもりだったネガは疾うに失われて、これは紙起こしである。撮影はもちろん、現像に紙焼きの拙い技術はご勘弁願いたい。

NikomatFTNは初号機ではないけれど、写真を職業とするに至った契機の機材でもあり、Nikonサーヴィスでレストアした完全作動状態で今も防湿庫に在る。
貰い下げのFからD3に至るまで仕事写真は勿論、趣味写真にもフラッグシップと呼ばれる機材を使って来たのだけれど、それは職業写真屋の矜持ではあるものの、自分の腕の悪さを機材に転化せぬための戒めに始めたことでもある。
最近にNikomatFTNにリヴァーサルフィルムを通してみれば、F5での撮影とフィルム上に区別がつかない。ならば、今に至るまでの撮影はこれでも十分に撮れたことだろう。写真は機材では無いとつくづくに思う。

[Data] NikomatFT+P-AutoNikkor5cm/F2 (data unknown) NONfilter NeopanSS  Edit by PhotoshopCC on Mac.

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