70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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大学病院前 (仙台市交通局・循環線) 1971

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前に、道内版の記事 新冠 (日高本線) 1969 に書いたとおりに1967年以来の音楽好きである。
その未だに向こう岸の見えぬ大海に乗り出したにしては、羅針盤も持たない当時の情報源と云えば、新興音楽出版社(後のシンコーミュージック)が定期刊行していた雑誌「MusicLife」に、後はラジオしかなかった。中村とうよう氏が発行した「NewMusicMagazine」を知るのはもう少し後のことである。
ラジオは深夜放送の時代に入っていて、HBCが「北海道26時」を放送開始しており、それは「オールナイトほっかいどう」へと進化して往くのだが、そのDJトークは然程の情報源とはなり得ずに、ダイヤルを1242KC(キロサイクル、当時MHzとは云わなかった)にチューニング、ノイズだらけに微かに聞こえるニッポン放送の「オールナイトニッポン」へ必死に合わせていた。聞いていたのは勿論火曜日担当、糸井吾郎氏であった。
ずっと時代の下った後年のこと、実際にお会いした際、当時の拙いリクエストハガキを覚えていてくださった氏のことは、いずれ書こうと思うが、ここでは東北放送の安田立和氏である。
月曜深夜のニッポン放送に続く洋楽情報を探してチューニングしていて偶然にも聞こえたのが、仙台に所在の1260KC-東北放送、日曜深夜の「AMO東北ヒットパレイド」だった。後に聞けば同局が送信出力を50KWに増強した直後だったらしく、同時間帯の他の地方局の沈黙には札幌まで電波の到達したのだろう。当時に入局間もなかった安田立和アナと高原葵アナの二人による、基本的には邦楽洋楽別のランキング番組なのだが、洋楽好きの安田アナには新曲に名曲を含めてかなり渋い楽曲も紹介されていたのだった。
1972年か翌年と記憶するが、仙台に下車した折に同番組を降板後の安田アナを公開番組「スタジオ緑屋セヴン」を生放送していた仙台駅前のサテライトスタジオに訪ね、「札幌の○○です」と挨拶すれば、彼もリクエスト曲(R&Bばかりだった)と共に記憶していてくれたのには感激した覚えが在る。ずっと下っての80年代、仙台でのコンサート取材などの機会には会場でも何度かお会いし、打ち上げの宴席に同席させて頂いたこともある。
特定のジャンルと云うより、Billboard Top100に精通して、特にロック以前のポップスからニューロックと呼ばれた時代の音楽知識には傾聴させられるのところの多々在った。ご本人に意識は無いのは当たり前だが、音楽世界に漕ぎ出した最初の師には違いなく、役員まで務められて東北放送を退社の後、2009年にフリーとして「Radio倶楽部」で現場に復帰、現在も続くこのワンマンDJに生放送と云う基本的スタイルの番組は、一度 Radiko.jpで懐かしく聴かせてもらった。

大学病院前の分岐線を旋回して往くモハ100型は、おそらく9系統の原町循環だろう。
北二番丁、土橋通、北鍛冶町の三方向にデルタ線を形成していたここは、各方向共に頻繁な運行のあり、1968年にトロリーコンタクタ方式にて自動化されたのだが、病院側の歩道上にそれまでの信号扱い所、鳩の巣とか呼ばれた塔屋が残されており、これはそこの階段を上っての撮影である。今に思えば、それの写真を撮っていないのが惜しい。
背景の荒物屋に義手製作所は、当時無かったここへの歩道設置にて取り壊されてしまっている。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2 1/500sec@f4 Y48 filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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撫牛子-川部 (奥羽本線) 1982

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オハ50形客車と基本設計を同一とした形式の車両群、即ち便宜上の50系客車(国鉄はこれら形式を系列と呼称していなかった)は、周知のとおり、1970年代後半に至って老朽化の進みつつ在った在来型客車の置替に計画・新製されたものである。その時点での製造技術による近代設計ではあるが、客車と云う性格上全ての線区・区間への入線と運行を優先し、車体設備や接客設備に自動扉の採用を除けば大きな革新の在ったで無く、単なる車両更新の範疇を出るものではなかった。
気動車や電車での新製の考慮されなかったのは、この当時に多くの客車運用列車が線区を超えた規模で郵便・荷物輸送を担っていたに加えて、老朽気動車の更新も要していた時期でもあり、1980年代半ばまでに1000両に迫るとされた需給予想からの予算上の事由が大きい。当時に機関車が余剰気味だったとは云え、いずれは更新を要するのだが、その10余年の後に郵便荷物輸送が消滅するばかりか、国鉄自体が瓦解してそれが旅客・貨物に分割されるなど想定外だったのだろう。
結果的に国鉄を承継した旅客鉄道会社に機関車保有のインセンティブは生じず、その老朽化には代替に電車や気動車の新製され、また、1980年代に地方交通線の転換が進んで気動車に余剰を生じたのも一因となって、1977年度の製造初年に対し1988年度には用途廃止の始まり、1990年代半ばにはほぼ運用を終えたのである。
客車にて新製の事由ともなった郵便・荷物車の併結についても、空気駆動式客扉の採用による機関車からの元溜管(MR管)引通しが嫌われ、荷物輸送の縮小時期と重なったことから幹線系線区では荷物列車へ集約されて、その機会はほとんどなかった。北海道線などでは併結運用に最後まで在来型が残留した他、それを要した場合にはMR管を装備するマニ50やスユニ50への形式変更も伴ったほどである。
とは云え、在来型の代替車投入を迫られる中で、将来想定のなされたにせよ、先行き不透明なそれに気動車・電車新製となれば、経年の浅い機関車の大量余剰には会計検査院に二重投資を指摘されただろうから、やはり選択は製作費の低廉な客車であったろう。在来型客車から気動車・電車への繋ぎ役を運命付けられた車両群だったと云えようか。

オハ50系列客車の奥羽本線秋田-青森間への投入は、1978年度第一次債務車両計画車35両の弘前客貨車区への配備により、1979年5月10日より同区間に上下33本設定の内15本列車の置替に始まり、全てが郵便・荷物車併結の無い運用であった。1979年度第三次債務車28両の81年3月の秋田運転区配置により置替は進むのだが、これも旅客車のみの運用が優先されて、併結運用には在来型が使われた。この際、例外が1833と626列車の一往復に生じたものの、全てにマニ50が充当され、在来型車へのMR管追設工事は避けられていた。
そして、1982年12月の1981年度第二次債務車の秋田20両/弘前18両の追加配備にて全面置替を完了したのだった。この時点で秋田-青森間に郵便・荷物車併結の運用は皆無となっていた。

奥羽本線は弘前の構内を抜けたところの半径400メートル曲線で右転すると、浪岡までの13キロ余りを直線で通過する。そこは津軽平野の只中であり、沿線には平坦な水田の広がるばかりの風景が続く。
記録を紐解くと、この変哲も無い区間に70年代末から80年代半ばに架けて都合5回も降りていた。何も無いところに画材と画角を見い出そうとしていたのだろうが、恥ずかし乍らそれは不発に終わったとしか思えない。
初夏の風、遍く渡り往く田園。列車は633列車の青森行きである。
ここでの全面置替が東北本線の盛岡-青森間に先行したのは、やはり荷物専用列車に集約し得る郵便・荷物車運用の少なさゆえだったろう。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.8S 1/250sec@f8 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

小浜 (小浜線) 1984

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それ以前からのことだろうから、ご経験の向きも多いのではと思う。1980年代半ばに敦賀に撮影機材を持って降り立つと駅前交番に詰める官憲に職務質問を受けた。彼ら福井県警は待合室や時にはホームにも出張り、乗降客を常に監視していたのである。良く訓練されていて言葉遣いは慇懃に丁寧ながら「名前は、住所は」に始まる威圧型の職質であり、「何処へ往くのか」、夕方から夜間ならば「何処へ往って来た」と続いて、挙げ句には図々しくも「荷物を見せろ」とまで言い出す始末だった。どこへ往こうと何を持とうと官憲に申告することでは無いので拒否すれば、待ち合わせの後に乗車する小浜線のホームまでしつこくつきまとわれた。一度は延々と私服の尾行を受けたこともあるが、犯罪検知に情報収集など職質本来の趣旨では無く、恫喝目的の単なる嫌がらせ行為であった。
いったい誰が福井県警にそのような指令を発したものか、想像は十分についた。プルサーマル運転を予定した関西電力高浜原発の3号機、4号機が1985年度に稼働を予定し、大飯原発の2基に日本原電敦賀の1基も建設ないし調整の途上の時期である。地元住民の反対運動はとっくに押さえ込まれ、表立った市民運動も、また大手マスコミの報道も一応の終息は見せていたけれど、フリーランスのジャーナリストやカメラマンが頻繁に訪れており、いったい何の取材を恐れたものか、財界や資本、その意を受けた時の反動政権などの保守勢力はこれに神経を尖らせていたのである。フリーランスの雑誌記者などには嫌がらせで十分とは随分と見くびられたものとは思うが、日本の原発開発がそれすら排除を意図するような後ろめたさの隠微体質と共にあることの例証でもあった。付言すれば、この時期まで日本の雑誌ジャーナリズムもまた、真っ当に機能していたと知れる。

白状すれば、車窓からのおおまかなロケハンを済まし十村や勢浜のあたりに適地を見つけておきながら、小浜線をまともに撮ったことは無い。片道1本だけが撮影可能と云う機関車列車の効率の悪さに二の足を踏んでいたのである。この敦賀への下車や小浜線への乗換えは、実を云うと酒を買い込むためであった。
琵琶湖北岸から若狭湾沿岸はなかなかの酒造地帯であり、沿岸の漁師酒は勿論のこと湖北地域も鋭角なキレのある酒質には、遠く珠洲や鯵ヶ沢にも通じて好みと承知していたけれど、大半が小蔵とあっては地元に向かわねば出会えないのこともあり、福岡に仮住まいの当時、そこへの帰路に高山線を撮れば富山から大阪へ出る途上で寄り道し、蔵の在る美浜や三方、小浜に降りていたのである。特に美浜町の「早瀬浦」(三宅彦右衛門酒造)や「若狭菊」(若狭菊酒造)など、まもなくに全国の呑み助どもの間でも垂涎の酒となったものだった。

写真は小浜駅の本屋に接した1番ホームでのスナップ。この日に小浜市内に三箇所の蔵を回っての帰路と記憶する。
2番ホームに962Dの福知山行きを待たせて到着する列車は4959Dの敦賀行き。京都から西舞鶴への903D<丹後5号>の普通列車運転区間である。平日の夕刻近くなのだが、今に見れば乗車客の多さに驚く。
21世紀に至って加速した酒蔵の休醸・廃業は、当然のようにこの沿線にも及んで、この日訪れた「若狭井」(若狭井酒造)に「一乃谷」(浜小町酒造)、そして先の「若狭菊」が既に無い。Web上の報告によれば、それぞれとも跡地は更地となって放置されているらしく、特に浜小町酒造の蔵は珍しくも駅正面を占めていたから、その駅前には空疎な空間の残されていることだろう。
それにしても写真機材は担いでいたにせよ、両手に酒瓶をぶら下げた風体を職質とは福井県警も難儀なことであった。現場の士気は上がらなかったに違いない。

[Data] NikonF3P+Distagon 28mm/F2.8 with Adaptor 1/250sec@f4 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

甲斐常葉 (身延線) 1997

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2004年以降には身延町常葉と云われても、どうにも落ち着かないのだが、かつての富里村を構成した巨摩郡11村のひとつ常盤村であり、それの町制施行にて下部町と改められてからも役場の所在した中心集落だったのが常葉地区である。然したる集落規模ではないものの、古の駿州往還の脇道である東河内路沿いに発達したゆえか古い街並も残り趣を感じさせる。そこでの古びた酒屋(酒販店)でのことは以前に書いた。
ここに身延から延伸の富士身延鉄道が達して甲斐常葉停車場の開かれたのは1927年12月17日であり、それは3ヶ月あまり後の翌年3月30日に省線の甲府に接続した。

山梨県はそれを待ち兼ねたかのように、県有林からの木材の搬出にこれを利用すべく、沿線に幾つかの林用軌道を建設した。山梨県域に国有林はほとんど存在せず、山林の大半は県有林だったため、ここでの林用軌道は農林省山林局に非ずして県の所管する県営軌道だったのである。鉄道屋でもその方面は門外漢にて全貌を知り得るではないが、最盛期にその総延長は300キロを超えていたと云うから、山間部の多くの地域に敷設されたものであろう。
この甲斐常葉にも栃代川(とじろがわ)沿いに杉山羽前場(はまえば)までの10.159キロに軌間762ミリの富里軌道が1928年3月に接続していた。動力はおそらく畜力(牛)と思われる。その運用終了を調べ得てはいないが、1960年代半ばには軌道の撤去され、林道(自動車通行路)への転換が進められていたと云う。ただし、数少ない情報をWebに拾えば、今も山間部には多くの遺構が残されている様子である。
甲斐常葉の現在にも残る上下別に副本線を持つ配線は貨物列車の着発に入換に対応したものであろうし、不釣り合いに広い駅前広場は、そこが林用軌道起点の土場を転用したゆえだろう。そこでの貨物積卸線の有効長も長かったことが伺える。

草薮と化している旧土場の奥を越えて杉の木トンネル近くに立つと緩くS字状に曲線を描く構内を見通せる。そのような形状の構内は珍しくは無いのかも知れないが、余り低規格のルーラル鉄道を撮っていないファインダには新鮮だ。試してみるのは一つしか無い。カメラ位置を成る丈低くして後追いのテイルランプを待つのである。ここは背景の斜面に人家や工場が散在して、それの暗黒に落ちないのが少しばかり惜しい。
速度を落として通過して往く光跡は4009M<ふじかわ9号>である。

[Data] NikonF4s+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D Bulb@f16 Fuji CC35M+06B filters Ektachrome DynaEX [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopCC & LR5 on Mac.

岩館-大間越 (五能線) 1972

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1966年夏のほんの数日間ではあったけれど、五能線の細い鉄路が北海道連絡の重責を担ったことがある。
この夏、7月27日夜からの浅虫-野内間東京起点724K830M付近の切取斜面での地滑りにより東北本線が長期不通に陥り、北海道連絡の優等列車を横黒線(現北上線)や花輪線迂回の奥羽本線に、貨物輸送の多くも同線経由に振り替えていたところ、8月12日夜から翌日に掛けて津軽地方を襲った集中豪雨により大鰐構内下り方の第二平川橋梁が橋脚もろとも流失し、青森へは辛うじて五能線が連絡するのみとなったゆえである。
これにて、13日から奥羽線が仮復旧するまでの7日間に五能線には上下延べ93本の貨物列車に、17日までは日本海縦貫線の特急<白鳥>の迂回運転が実施された。この17日夜には再びの集中豪雨にてこの線も一時不通となりながらのことである(<白鳥>が18日運転より大鰐折り返しに改められたのはこのためだった)。
北辺の地域交通線に過ぎないこの線の輸送能力は、現行よりも遥かに閉塞駅の多かった当時でも一日に臨時貨物列車7本の運行が限界であり、それも200メートルに満たない停車場有効長から組成はワム車換算で18両程度に制限された。これに対しては、管轄の秋田鉄道管理局に五能線管理所は非常体制を以て迂回輸送遂行にあたり、大間越、艫作、大戸瀬の各駅に廃されていた列車行違い設備を急遽復活して閉塞扱いとし、8620形機関車の不足には花輪線運用よりの捻出にて応じた。臨貨の一部は停車場有効長を超えて組成の輸送力列車として、当然に線内無停車のこれには秋田機関区から助勤のDF50形内燃機が重連で任に当たったと記録にある。
迂回する<白鳥>の姿はWebにも見た覚えがあるものの、DF50が入線していたとは知らずにいた。低規格線入線を前提に軸重を14tに抑えていた同機の運転は可能には違いなかったろうが、事前に入線試験等を済ませていたとは思えない。もし撮影されていれば貴重な記録だが、おそらくは深夜の運行だったそれの残されてはいないだろう。
この想定外の緊急輸送の遂行に対して、時の国鉄総裁石田禮助は同年10月14日鉄道記念日に五能線管理所を始め東能代機関区及び弘前保線区に総裁表彰を与えて報いている。

日本海岸をトレースし至る所に岩礁海岸を見る五能線においても、海岸線に迫る急崖を須郷崎越えの最高所で60メートルの施工基面高を以て通過する岩館から大間越に至る区間は、開ける視界に乗るにせよ撮るにせよ核心区間のひとつに違いない。1972年の夏の終わり、その10K820Mのほぼ中間地点に架橋の木蓮寺橋梁へは、改良工事に着手されたばかりで、まだまだ砂利道の続いた国道101号線を岩館から延々と歩いたものだった。
既に冷たさも帯びた海を渡る風に磯の香は、40年余りを過ぎた今も記憶に鮮明だ。観光列車3往復の運転で人気の五能線ではあるけれど、車窓に見る景観は今も変わらぬとしても完全空調のそれに潮風は感じない。勿体無いことと思う。
列車は混合1730列車。貨車組成は短いけれど、貨物・荷物・郵便・旅客輸送が一体のここでの正調編成である。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor5cm/F2 1/250sec@f5.6 Y52filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

真鶴 (東海道本線) 1999

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2014年7月25日のこと、国土交通省運輸安全委員会は2012年4月26日に江差線釜谷付近にて発生した貨物列車脱線事故の原因について、コンテナ内積荷の重量偏差に起因すると結論した。当該コンテナ車に五個のコンテナの内、後部寄りに搭載の2個に印刷用トナー原料が左右で大きな重量差をもって積まれた結果、脱線位置とされた半径300メートルの曲線通過時の横圧にて車輪の浮き上がって脱線に至ったのだった。(鉄道事故調査報告書RA2014-7)
実はこの種の積載不良による事故は、国鉄当時から悩ましい問題だったのである。この報道に接して思い起こしたのは今を去ること30数年前、1977年5月27日に東海道本線真鶴構内で発生した脱線事故、通称の真鶴事故である。
この日、13時44分頃、時速43kmにて真鶴場内に進入した3150列車の20両目に組成のトキ25000が半径500メートルの曲線を通過中に脱線、前後の組成車の脱線を誘発して結果的に16両に及び、内当該車を含め9両が横転すると云う事故であった。これも原因はトキに積まれたルッペ(直径10ミリ程度の鉄粒)輸送の鉄製容器が固定不良にて曲線通過時の遠心力で移動し積載の重量バランスを崩しての脱線であった。
貨物の積載方は鉄道の責であり、国鉄は貨物営業管理規程や同基準規程に準拠した積載標準を示し、実際の作業者たる通運業者に対して監督・指導して来たのだが、積付け不良に過積載は後を絶たなかったのである。対しては、例え列車に組成されて輸送(運行)中であっても不適切な積載の発見されれば、直ちに臨時停車させてでも手直しや、それの叶わなければ車両解放の措置が取られた。けれど、封緘のされた貨車を開扉しての検査の出来るで無く、真鶴事故の原因車たる無蓋車であっても見逃しは生じざるを得ないのだった。
これは時代の進んでコンテナでも同様なのではあるけれど、コンテナなだけに要求される荷役機械に検知センサが行き渡れば、少なくとも過積載に重量偏差だけは事前に検知可能となるだろう。とは云え、それの叶うまでには相当の時間を要しようか。

真鶴から旧線の長坂山隧道へと向かう列車の俯瞰は古の鉄道雑誌に見ていた。最新のドライブウェイとして開通間もない真鶴道路と併行して直下の山裾を巻いて往く複線電化の大幹線は、当時にそれを知らない北国暮らしの子供の眼には眩しく印象に残っていたのである。
線路は真鶴トンネル経由の新線に切替えられて久しいけれど、その抗口は長坂山隧道と隣接するからトンネルまでの路盤は変わらない。それを眼下にする立ち位置は真鶴道路から付近の蜜柑畑斜面を上ったあたりとの目星に五万図に当れば、棚子下へ続く道路が斜面を横切っていた。岩海岸から谷を詰めながら斜面へと取り付くその道は真鶴道路より以前から通じていたものだろう。

写真は真鶴トンネルへと向かう958列車。
斜面に白くガードレールも見えてはいたのだけれど、いざそれを辿ってみれば好ましい画角の見つからず抗口の直上あたりまで上ってしまった。30数年前の先達の位置にも立てはしたものの、山裾の樹木が成長して見通しは困難だった。

[Data] NikonF5+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D 1/250sec@f4+2/3 C-PL filter Ektachrome Professional E100SW [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

陣場-津軽湯の沢 (奥羽本線) 1969

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時事ネタになってしまうが、日景温泉の2014年8月末日での廃業表明には些か衝撃を受けている。twitterでも発信された女将自らの声明によれば、宿泊客の減少よりも腐食性泉質に起因する設備更新と維持の困難が事由とされていた。かなり早い時期から経営撤退を意図し、改修をも可能とする売却先を探っていた様子なのだが、それの見つからずに諦めの決断と読める。2012年の湯の沢温泉最後の秋元温泉廃業の記憶も新しいだけに尚更の想いが強く、これで峠の山中にひっそりと点在した湯治宿は矢立温泉赤湯を残すのみとなる。
若くして亡くなった大館出身の友人が、その病の正体すら明らかにならぬ頃、症状のせめてもの改善の泉地療養に農家のじ様ば様に囲まれて長期滞在した宿であり、その思い出とも云える記憶と共に山間の湯治場の佇まいが気に入ってしまい、その後にも幾度か訪ねた温泉場でもあった。近年には人手の関係で早朝の送迎が無くなったものだから、矢立泊まりと云えば国道沿いの矢立ハイツばかりだった身としては複雑な思いもある。
開業以来120年を親しんだ大館市民の間では市による買収と経営継続を求める署名運動が展開されると云うが、例え行政の動いたにせよ、あの鄙びた風情の維持は期待出来ないようにも思える。

1981年の夏の終わりと記憶するが、大館に病に伏せる前の彼女を訪ね、その運転で矢立旧線の痕跡を探訪したことがある。1969年の秋に札幌から向かった矢立峠の旧線は、その凄まじい蒸機の咆哮と共に深く脳裏に刻まれたものの、一年後には新線へと切替えられ再訪には時期を逸していたから、ほぼ10年を経てそれの叶ったことにはなった。現在でも多くの遺構の残る区間ではあるが、当時なら一部の橋梁を除けば路盤の多くが廃線時そのままに残存しており、特に旧羽州街道が併行していた第六から第四の矢立隧道が続いた峠の核心区間には往時の光景そのままに、かつての立ち位置から望むそれには感慨を深くしたものだった。

写真は、第五矢立隧道を抜けて第四隧道に向かう853列車。大館からの後機に加え、陣場で後々機を付けた機関車三台運転の950t列車である。
記憶の定かで無いのだが、第四隧道の入口抗口上の旧道からの撮影と思う。それは、津軽藩主の大名行列が峠を越えた古道には非ず、1877年に開かれた所謂「明治新道」ながら杉木立を縫う趣の峠道だった。

[Data] NikomatFTN+AutoNikkor5cm/F2 1/250sec@f4 Y48filter NeopanSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

落合川 (中央本線) 1972

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鳥居トンネル内で施工基面高972メートル(旧線)の最高所に達すれば、後は中津川に向けて下るのみの中央西線だったが、その手前落合川との間に30メートルばかりの標高差を登り降りする峠越え、通称の落合峠が存在した。延長は短いとは云え、落合川方に20パーミル、中津川方に25パーミル勾配が介在して、下り列車は勿論、木曽福島で鳥居峠越えの補機を解放した上りにも落合川から再度それを要していた。
この間の線増は勾配改良も兼ねて別線にて計画されたのだが、増設線は既設線も活用する単線線路とされて、落合川付近では木曽川流路との関連で既設線東側、トンネル掘削は直線線形の確保から同西側の経路が選ばれ、また電気運転設備には既設線上隧道の断面改築を要して、1969年度の着工から幾つかの段階を経る長期間の工事となった。
増設線で最初に使用を開始したのは落合川構内から新第二落合山トンネルに新落合川橋梁を構築して、第一落合山トンネル手前の東京起点326K500M付近にて既設線に接続する区間であり、切替は1971年2月のことであった(日付不明)。これにて名古屋方面行き列車は新線から旧線と運転して中津川へ向かい、休止された既設線区間では第二落合山トンネルの改築工事が行われた。続いて同年10月5日には、新第一落合山トンネルに中津川トンネルを開削しての東京起点326K500M付近から中津川までの増設線が開通し、先の増設線と結ばれてこの区間は全線が新線での運転となった。そして、既設線第一落合山トンネルの改築に着手されたのだった。
期日を明らかに出来なかったが(1972年夏前と推定)、先の第二落合山トンネルの改築竣工により、この区間の既設線を復活し、再び326K500M付近にて今度はこれを新設線に接続とした。現在の上り線(下り列車運転線)である。そして、第一落合山トンネルの改築にやや時間を要したものの、これを落合川方の増設線と繋いで下り線(上り列車運転線)とした複線の使用開始は1973年3月26日と記録されている。
上り線中津川方の勾配は10パーミルまで緩和されたものの、下り線落合川方には20パーミルの存置される線形ではあるが、鳥居峠の塩尻方にも同等勾配区間が多く残されたから、線区として最小投資を選んだ結果であろう。

写真は既設線落合川橋梁上の868列車。篠ノ井から稲沢操車場行き。この列車は塩尻から中津川まで通しで重連牽引だった。よって前が本務機、後が次位補機となる。
上下列車が「落合川(復活既設線)326K500M付近(新設線)中津川」の経路で単線運転していた時期の撮影であり、落合川からの勾配は一時的に10パーミルに緩和されていたから、木曽福島以西区間での補機は実質的に回送であった。余談ながら、下り列車に対する勾配も10パーミルに緩んで、中津川-落合川間の専用補機は廃止された後である。
白煙で隠され気味だけれど、後方の第二落合山トンネルのポータルに断面改築が見て取れる。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor135mm/F2.8 1/250sec@f5.6 Y52filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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