70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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大曽根 (中央本線) 1982

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1982年10月18日、月曜日だったはずである。
ホーム売店でビールと買い込んだ新聞に見出しを一瞥して、その夜が彼の地にとって特別とは承知していたけれど、然程に興味を持たなかった当時には特に意識するで無く、いつものように新幹線を降り立ち、同行のライターとタクシーで千種区池下に在った愛知厚生年金会館に向かった。某音楽誌から発注の、今宵そこでコンサートを持つ人気女性アーティストの取材のためだった。
コンサートの中盤、プロモーターの配慮だったのかステージトークの最中に舞台袖からバンドメンバーを経て手渡されたメモを彼女が読み上げると、客席から響めきと歓声が上がった。そのメモは、遠く横浜で試合を行っている地元球団、中日ドラゴンズの5-0でのリードを伝えるものだった。

この年のベナントレイスは、8月末時点での首位読売ジャイアンツとの4ゲイム差を9月に2位中日が猛追、同28日からの対読売3連戦初日の延長戦逆転勝利による逆マジック12の点灯を経て、勝率5割6分9厘にて全試合を終了した同球団に対しての決着は、中日のシーズン最終試合であるこの日の対大洋ホエィルズ戦に掛かっていたのである。
コンサートも終わり、タクシーを拾い手配されていた中区栄のホテルを告げると上機嫌のドライヴァは言ったものである。「今は栄には往けない」。
とにかく近くまでと走ってもらえば、手前の新栄町、東海テレビ前を過ぎた辺りでその訳が知れた。その先の久屋大通り公園のテレビ塔周辺にはおびただしい群衆が集まり道路を占拠していたのである。中日の優勝を祝って街へと繰り出した人々に違いなかった。タクシーを捨てて、誰彼構わず肩を叩かれ抱きつかれながら、爆竹の発砲と煙の中を群衆へと歩を進めれば、あちらこちらで選手宜しくのビール掛けが演じられ、公園の噴水に飛び込みを繰返す集団もあれば、延々と万歳と乾杯を繰返す集団もあり、サラリーマンから付近の飲食店の板前に割烹着のおばさんまで、あらゆる老若男女が集っていたのだった。広小路の名古屋三越には早くも「優勝おめでとう」の垂れ幕の下げられたにせよ、正面のライオン像を日本シリーズで対戦する西武ライオンズの回し者として糾弾する集団もあり、それに跨がって頭をポコポコと叩くには笑わせてもらったものだった。
この光景は、札幌に東京と暮らして優勝球団の歓喜と言えば読売のそれしか知らなかった身には衝撃ですらあり、地域に密着するプロ野球の醍醐味を初めて知った切っ掛けでもあった。翌日の中日スポーツは勿論のこと、まもなく中日新聞から発行された優勝記念誌にイヤーブックまでも買い込み、名古屋には縁もゆかりも無いのだけれど以後30数年来に中日ファンである。

写真は中央西線大曽根駅での113系電車。瑞浪まで乗ったこれは中津川行きと思うが列番は失念した。
東側の日本専売公社名古屋工場専用線の貨車操配線も西側にあった瀬戸線との貨車授受線跡も路盤の残る頃である(画角右端に見える)。
その年、高山線撮影のついでに名鉄瀬戸線に試し乗りした際のスナップだけれど、十数年を経てここに幾度も乗り降りすることになろうとは思わなかった。

[Data] RICOH 35EFL 40mm/F2.8 Auto Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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龍ケ森 (花輪線) 1971

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1970年代前半の蒸機ブーム末期に、盛岡鉄道管理局はそれを増収策と捉えてか、撮影者を集めてのイヴェント開催に熱心だった。8620の三重連運転で名を馳せた花輪線でのことである。
手元の記録にあるだけでも、それは1970年8月9日と10月11日、そして内燃機への置替も間近に迫った1971年9月25・26日に開催され、龍ケ森の見学者ノートに住所氏名を記入していたせいか、事前に同駅から案内の葉書までが届いたものだった。
今時と異なり、盛岡等近隣からは自動車でやって来る撮影者も居たけれど、首都圏や仙台方面からはほぼ全てが鉄道利用であり、それを織込むならば確かに相当の増収をもたらしたはずである。
盛岡から始発での龍ケ森入りを狙って前日の<八甲田>に乗ったのだけれど、仙台以南区間への最終列車でもあり、青森に6時過ぎと云う時間帯の良さからも週末には普段から行楽客や山行客の利用の多いこの列車は、まるで盆暮れのような賑わいを見せたものだった。確かに銀箱に三脚の一群が余計だったことになる。途中仙台からもそれを加えて、通路まで身動きの取れぬまま到着した深夜の盛岡駅待合室は、先着組を含めて龍ケ森を目指す撮影者達で溢れ返っていたのを思い出す。未明からのこれだけの集客までは読んでいなかったものか、始発の大館行き気動車はいつもの3両編成で、これも龍ケ森組で満員であった。

「SL三重連撮影会」と銘打ったこれの目玉は、勿論その頃に後機後々機の三台運転は在っても69年を最後に定期運用では無くなっていた前機前々機の三重連の復活にあるのだが、71年の開催では、一方の補機解結駅岩手松尾に転車台のないことから逆向き後機しかあり得なかった上りにもそれの運転されるのが特別なのだった。関連運用の補機解結を好摩に変更、機関車は云うに及ばず乗務員から構内作業員ダイヤまで変更してのことである。
また、70年には盛岡との間に(回送で荒屋新町着発)<竜ヶ森高原号>のトレインマークを付けた重連牽引の送客列車の運転も特筆されよう。
当然ながら大場谷地峠の沿線には至る所に撮影者の貼り付き、それの排除にはコンテに思い描いた画角など困難だったのは云うまでも無い。70年はまだしも、おろらくそれの倍は集客したであろう71年には、加えての飛び交う罵声に嫌気の差して二日目には峠を敬遠したものだった。→ 赤坂田-小屋の畑 (花輪線) 1971

写真は、おそらく最初で最後だった上りの正向き三重連、966列車。
ただシャッタを押しただけに終わってしまい、これ以後にはイヴェントの類いには近づかなくなった。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2 1/250sec@f4 Y48 filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

折原-寄居 (八高線) 1996

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幅の狭い乗降場にブロックを積み上げた小さな待合所のあるだけの棒線駅、折原に降りて、線路沿いに荒川の河岸段丘崖上へと至る田舎道を辿って往くと、両側には民家を散在させながら一面の桑畑が広がる。それは云うまでも無く、この一帯が養蚕地帯であることを意味する。
古来よりの養蚕は、特に近代以降には土地の少ない中山間地の農村にとって現金収入に直結した重要産業であり、北海道を含めた全国の至る所で行われ、かつての地形図には桑畑に独自の記号が付与されていた程である。父方の祖母の出身地である茨城県那珂郡山方村(町を経て現在は常陸大宮市の一部)を訪ねた折、大叔父宅の蚕部屋で桑を食むその大群には子供心に腰の引けた覚えもある。
近年に絹製品は中国本土やインド、ブラジルなどからの廉価な輸入品や代替製品が出回り、国内産業は衰退したものだから、葉のすっかり刈り取られて背の低い幹だけが林立する、一種異様とも見える桑畑の光景は久し振りに目にしたのだった。
調べてみれば、埼玉県はなかなかの養蚕県である。2003年度の資料には70.9トンの繭生産高と在り、群馬県の343.7トンにはとても及ばないけれど、それは全国生産の9.1パーセントを占める。生産の中心は秩父地方であり、寄居町には30戸の生産農家が所在して9.3トンの繭を出荷と記されていた。寄居町北側の児玉郡美里町も16戸が7.6トンを出荷していて、確かに八高線の北部では桑畑を随分と見かけた。
なお、1996年を最後に県内の製糸工場が操業を停止したため、以降には繭は山形県酒田市の松岡製糸場に送られていると云う。

秩父鉄道大野原からの積車を寄居で継送した上り列車は、荒川橋梁を渡ると河畔の下郷地区内を築堤で高度を上げながら河岸段丘崖への登坂に取り付き、それを横切って段丘上の折原へと向かう。ここには18.8パーミルが介在して換算45車(450t)を越える列車には重連仕業の組まれる所以となっていた。それは積車セメント車なら現車で8両を越える組成となる。
河岸段丘崖上には埼玉県の農業研修施設が建てられ、その敷地縁からは線路を見下ろせた。けれど、そこには踏切(和田踏切61K864M)とその前後に柵が設けられていて画角から排除するのに工夫を要する位置でもあった。
写真は夕暮れにこの坂を上っていた5268列車、八王子行き。
そこで先に5264列車で到着していた編成と併結、5471列車となって信越本線線川中島の秩父セメントデポに向かっていた。

[Data] NikonF4s+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D 1/250sec@f4+1/2 NON filter Ektachrome Dyna100EX(EB+2) [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

大湊運転区 (大湊線) 1973

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それも織込み済みであったに違いない。自己の地盤構築に有利と見て建主改従を主張していた時の政権党、立憲政友会は第26回帝国議会にて『軽便鉄道法』(1910年4月21日法律第57号)を成立させると、私設鉄道を想定と説明していた同法を拡大解釈し、続く第27回帝国議会に同法に準拠した国有鉄道路線の建設予算700万円を計上し、1911年度より毎年に100万円ずつを拠出する予算案を提出、可決させたのである。これが、以後に続々と低規格の地域交通線が建設される契機であった。
これら線区の戦前期における地域開発への貢献、住民生活への寄与を疑うではないが、その立地からは当然に全てが非採算線区であり、戦後1949年に発足した日本国有鉄道は、早速にその経営に苦慮するところとなった。
これに対しては、発足翌年より特定の閑散線区に特定線区保守方式を導入し、業務の簡素化に要員、経費の節減を進めながら、本社審議室にて支線区経営に関わる研究・検討の行われた結果、線区別経営を妥当として、1953年11月に「線区別経営改善計画について」とした副総裁通牒(依命通達)が地方機関の長宛に出されたのであった。この通牒には「国鉄経営改善のためには、性格を異にする線区ごとにその方策を具体的に検討することが必要と思われるので、下記要領により貴管内線区中より数線区を選び、その徹底的経営改善計画の試案を作成し提出されたし」とあり、提出された中から1954年9月に千葉鉄道管理局管内木原線と久留里線にそれぞれ大原運輸区、木更津運輸区を、翌1955年1月には金沢局管内富山港線に富山運輸区を置き、1956年10月には仙台局の仙石線にそれをさらに進めた仙石線管理所を開設して、それの試行を始めたのであった。
これらが現場の努力もあって経営改善に顕著な効果の認められたことから、国鉄本社はこの管理方式の全国的波及を図るべく、1958年7月に副総裁通牒「非採算線区の経営合理化推進について」を通達し、将来に支線区経営の原則線区別経営を明確とした上で、同年度内に各鉄道管理局管内で少なくとも1線区を同経営方式とするよう求め、同年秋から翌年にかけ全国に続々と線区別経営単位が開設された。それらには上記に加えて管理長なる職制も含まれ、その数は1960年5月までに15運輸区、22管理所、44管理長となり、管理下の線区延長5034キロは全営業キロの24.7パーセントに及び、全職員の7.6パーセントがこれらに所属した。

運輸区・管理所・管理長は、ともに鉄道管理局(新潟・中国・四国は支社)に属した線区経営単位であり、局長(支社長)に直属して当該線区運営に関する権限を移譲されるのは共通したものの、線区の実情により選択され、以下の差異があった。
運輸区は比較的営業キロの短い行き止り線が対象とされて、施設関係を除いた線内の営業・運転の現業機関を統合、従って駅長や区長の廃され、それを上回る権限を付与された運輸区長が直接にこれらを統括したのに対し、管理所は施設を含めた線内の現業機関の職制を統合するものの、駅長を配置した他一部現業機関の存置も認めて、その上位機関に位置づけられた。管理所長には局長より大幅な日常運営の権限が与えられ、線区別経営の基本形態である。
統合される関係現業機関やその方策は線区の実情などにより異なり、運輸区に保線職員の所属することもあれば、管理所においては線区外にも跨がる業務を持つ運転区所や車両区所を含むことが多々あった。
管理長は、当該線区を支社駐在運輸長の所管から分離の上、線内既存現業機関の統廃合を行うこと無く、局長ないし支社長の指揮により総合的に統括管理する非現業職とされた。当初に運輸区を管理のみの非現業機関としていたことを引き継いでの職制である。

当時に年々1億2千万円の欠損を計上していた大湊線大畑線に、盛岡鉄道管理局が大湊大畑線管理所を設置したのは1958年10月20日のことであった。大湊線も1921年9月25日に正に軽便線として開業した線区である。
これに際して、盛岡局は気動車の投入による客貨分離にてこれを支援し、管理所においては駅の要員無配置化、線路保守の特定線路分区への移行、第一種踏切の自動化、駅勤務時や勤務体制の見直し等の合理化により1960年度末までに41名要員を削減、団体募集などの積極的旅客営業に貨物においては列車の弾力的運転により経費削減と繁忙期の増収を図って、1959年度の欠損を8600万円まで圧縮する成果を上げた。
しかしながら、同管理所に限らず、この地域交通線経営策は一定の合理化を達成してしまえば、存続に意味のなくなって1970年代前半までには姿を消して往く。当該区所の職員には相当の努力を強いるものだったが、本社の狙いは当初より労組の強い影響力下での合理化推進にあったと見て良かろう。大湊大畑線管理所の廃止は1972年10月20日で、14年間丁度の存続であった。

大湊の機関車検修施設は管理所廃止に際して機関区には復帰せず、気動車/客貨車を含めた運転区とされていた。その設備は管理所時代を通じて機関区当時と変わらない。
写真は給炭線に佇むC11224。扇形庫と気動車庫(旧客車庫)との中間、乗降場から至近の位置に在った。
背景は釜臥山。

[Data] NikonF photomicFTN+P-Auto Nikkor135mm/F2.8 1/250sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by PhoyoshopLR5 on Mac.

湯平 (久大本線) 1987

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福岡市に仮住まいの頃、事務所を置かせてもらっていた映像制作会社の連中を誘い出しては、久大線沿線の温泉場で呑んでいたことは前に書いた。
この湯平駅から花合野(かこの)川沿いに5キロばかり遡った谷間に所在した湯平温泉もそのひとつで、湯布院よりも先は中でも最も遠い部類に属した。もっとも九重中腹の筋湯温泉の方が到達時間は要したと記憶するが、どちらも夕刻に福岡を出発と云う訳には往かず、皆の休日を揃えて出掛けていた。
開湯が湯布院より遥かに古いとされる温泉場は、この頃には湯治場の風情を残す鄙びた温泉街が続き、モダンな宿泊施設も増えていた湯布院とは対照的とも云えた。
例によって低料金だけで選んだ旅館には、ここでも気さくな女将に出会え、温泉街外れのそこは共同浴場にも近いものだから幾度か世話になった。その頃には慣れたもので、筑後川沿いに幾つか所在した蔵元にわざわざ高速道路を降りて立ち寄って旨い酒を仕入れ、公共の浴場には各自、酒の移し替え用ボトルを持参することにして、これには鉄道屋の旅に使っていたSIGG社製のボトルが重宝した。500mlは楽に入る上、アルミのそれは冷水に晒せば良く冷えたし、湯舟に沈めれば直ぐに燗がついた。露天では無いのだけれど、開け放した窓からは花合野川の水音が良く聞こえて至福の時間を過ごしたものだった。ここには他にも4箇所に共同浴場が存在して、ほろ酔いで石畳を歩く湯巡りは極楽に等しい。

天ケ瀬の前後区間がほとんどだった久大本線の撮影にも湯平まで足を伸ばしていた。特に気に掛けた位置の在ったでは無いが、大分川の谷底平野が標高300メートル余りに尽きる斜面に位置した湯平停車場は、東側に景観の開けた気持ちの良い駅ではあった。緩い曲線を描く構内は少しばかり千鳥にずれた上下乗降場が趣だったけれど、惜しむらくは近年に建替えられたであろう郵便局と農協支所との合築駅舎と一般歩道橋流用の跨線橋が、それを台無しにしていた。

写真は、小雨模様の湯平を発車した626列車、鳥栖行き。背景には大分川の広い谷が続く。
近年に湯平温泉は湯布院に飽き足らない観光客に石畳が風情の隠れ宿として注目され、それに対応した施設の充実も図られているらしい。にもかかわらず、湯平からのバス便は廃止されてしまったと聞く。最早、列車で温泉旅行の客など皆無なのだろう。確かに自分達もそこへは自動車で行っていた。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S 1/125sec@f5.6 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

面白山信号場-山寺 (仙山線) 1977

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感光乳剤に用いられるハロゲン化銀は、本来に波長400nm以下の紫外線から500nmの青色光までにしか感光しない。これの感度域拡大の研究は19世紀後半のドイツにて進められ、1873年には乾板乳剤への有機染料色素の添加による緑・黄色光の増感性が発見され、これが1906年のピアシナール色素を用いたパンクロマチック乳剤の実現へと繋がるのである。
400nmから700nm付近までの可視光域全域に感度を広げ、人間の視感に程近い整色性を得たのは良いとしても、それの紫外線領域にも及ぶのはそのままに放っておかれた。フィルタでカットすれば済むゆえではあろうが、実はこれが厄介でもあった。
大気の澄んだ秋冬期と云えども、逆光側には短波長光の散乱によるヘイズを生ずる。写真は逆光で撮るものと心得ていた身は、これには難儀した。俯瞰での遠望など霞の彼方を覗き込むことになる。UVと呼ばれたフィルタでとても解消するでなく、富士フィルムの規格番号でSC37に始まるシャープカットフィルタを可視光域に入り込むSC42まで試しても効果は僅かで、コントラストフィルタのSC56あたりでも多少に改善される程度には、現像を硬調に持って往き、印画紙の選択などプリントで誤摩化すのが関の山だったからお手上げとも云えた。
紫外線域に感度を持つのはカラーリヴァーサルとて同様で、特に高彩度化の進んだ90年代のそれではシアンに転んで発色するには困りものであった。これにはPLフィルタとSCフィルタを重ね、ペラのCC1.25Rを持ち歩いて必要に応じカットしてホルダに追加するようなこともしていたけれど効果は限定的であった。
実は、この悩みもディジタルに持ち替えて嘘のように霧散した。絵柄さえあれば如何様にでも加工可能なそれではヘイズをクリアにするなどレタッチの初歩なのだった。

フィルム撮影の当時(今でも持ち歩くもう一台のカメラはフィルムカメラである)、避けれないものなら取り込んでしまうカットも試していた。ハイライトを飛ばさないギリギリまで絞りを開けてハイキートーンにまとめるのが定番だったのだが、それをスキャナでディジタル化すれば、紙焼きでは出せなかったトーンも実現する。
33パーミルを下るのは825列車、山形行き。橋梁は第二紅葉川である。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5S 1/500@f5.6 Y56 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

佳景山 (石巻線) 1972

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大崎平野には屋敷林を巡らせた集落が点在する。ここでの屋敷林は、時には地吹雪すら巻き起こす栗駒下ろしに備えた居久根(いぐね)と呼ばれる。一戸の農家の持つ居久根林は然程の規模では無いのだけれど、集村を成すこの平野ではそれが一体の居久根となって集落を取り囲む。居久根の点在する平野の景観は、水田に水の満たされる頃など、さながら小島のように水面に浮かぶ。そこに降り立つことは久しく無いけれど、道内へと向かう際の新幹線には今でも楽しみな車窓だ。

居久根林は、当然ながら敷地の北面や西面に植栽され、多くは三層の構造になっている。即ち外側からスギやケヤキなどの高木、シロダモ、ハンノキなどの中木、そして屋敷側にアオキやヤスデなどの低木であり、常緑樹ばかりでなく、季節風の防風には不利とも思われる落葉樹も含むのが特徴である。
居久根の集落に足を踏み入れるとすぐに知れるのだが、居久根林を背景にした母屋南側の前庭には大抵に畑が耕作されている。居久根林は冬の防風林としてばかりでなく、この畑と組み合わされて、それの奨励された藩政時代より稲作農家の敷地内での自給空間に欠かせぬ構成要素でもあった。前庭の畑からは野菜や雑穀の類いを得、居久根の樹木からは果実を得て、それらは加工して保存食ともなったし、年々に伸びる枝は燃料材となり、樹齢を重ねて伐採されれば住宅の建築材としても用いられたのである。また、落ち葉は発酵させて翌年の堆肥として使われた。落葉樹の植えられたのはこのためである。この意味において、平野の只中の農家にとって居久根林とは、そこには無い里山の代替だったのである。

写真は欠山北端の高台からの大崎平野。たかだか比高30メートルばかりに過ぎないけれど、遠く積雪の栗駒連山までも望む気持ちの良い位置であった。列車は7869列車の石巻港行き。
江合川下流域のこの辺りでの居久根林は季節風の到達する東端でもあってか、規模は小さい。それでも耕地の広がりの中には趣のアクセントになってくれた。列車後方の居久根はかつてには小金袋とも呼ばれた笈入集落。きっと収穫豊かな集落だったのだろう。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor135mm/F2.8 1/250sec@f5.6 Y52filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

笹津 (高山本線) 2003

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高山本線の撮影に復帰した頃、高山-富山間の普通列車は猪谷を直通して相互に乗入れていた。とは云え、東海旅客鉄道のキハ58/28の2両組成運用は朝夕の1往復のみで、その他は全て西日本旅客鉄道のキハ120で運転されており、猪谷以南もまるで西日本会社管内に見えたものだった。
1980年代に国鉄線からの転換にて開業の相次いだ第三セクター鉄道が導入したレイルバスに端を発する、この手の小型気動車は、道内日高本線のキハ130も同様なのだが、例えばプレートガーダの橋梁に載ってもその桁に比してのアンバランスなど存在感が小型ゆえに薄く、どうにも好きにはなれずにいたのである。乗っても、鉄道会社の事情だけを優先した便所設備も無い安っぽい造りには、乗客を馬鹿にしているとしか思えない代物だった。
1999年の12月4日改正ダイヤからは相互乗り入れが取り止められ、猪谷までには美濃太田車両区のキハ48/40が復帰して、ようやくに溜飲を下げたくらいだったから、その閉じ込められた猪谷以北区間をわさわざ撮ろうと云う気にはならず、そこに足を踏み入れるのは東海会社区間をほぼ撮り終えた後のことである。

この上新川郡の旧大沢野町字寺家地内に所在する標高345メートルの猿倉山は、16世紀後半とされる築城時期や飛騨の武将塩屋秋貞と云われる築城主に確証の得られていないものの山城だったことが明らかとなっている。頂上に達してみると分かるが、古代の交通路である宮川改め神通川が富山平野へと流れ出る谷口で、それを一望とする位置は居城と云うより、その通行を監視する軍事拠点であったろう。
大沢野町は、1991年に以前から麓に所在したスキー場の上部を森林公園の一部として整備し、山頂へ風力発電の実証施設を設置した。発電した10kwの電力により自らをライトアップする仕組みだが、寧ろ観光要素の強く「風の城」と命名されたそれは展望台を兼ねていた。この発電設備は稼働から5年程で故障してしまい、以後修理されること無く現在に至っている。
けれど、町当局は飛騨方面からの南風の経路に当るここでの発電事業に本気であったらしく、それは2005年に合併した富山市に引き継がれ、年間の南風の出現率45パーセント、それの平均風速9.1メートルの調査結果から、2008年までに発電能力800kwの風車2基の設置が計画されていた。
ところが当初に見込んだ5億円の予算は、その後の経済情勢の変化や建築基準法改正による耐震設計の見直しを要して7億2800万円と試算され、加えて主流となった1000kw出力の大型風車建設には既存の道路の使用不能が明らかとなるに及んで計画は中止に追い込まれたのだった。もっとも、合併により事業を引き継いだ富山市には、それを推進する意思はさらさら無かったと云うのが真相だろう。

猿倉城址からは眼下に神通川第三ダムとその貯水湖を眺められる。件の展望台も含めて広い山頂なのだけれど、近年に架けられた国道の新笹津橋や他の障害物を排除して第二神通川橋梁と貯水湖を奇麗に抜ける位置は一箇所、しかも2メートル四方程のピンポイントにしか無かった。
列車は1040D<ひだ10号>。

[Data] NikonF5+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D 1/500sec@f8  NONfilter Ektachrome Professional E100GX [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

湯河原 (東海道本線) 1998

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鍛冶屋のカーブと云えば、往年の名撮影地である。
EF60 500番台牽引の九州特急にモハ80の湘南準急、EH10に牽かれたワキ1000の小口扱い急行貨物などが、密柑山を背景に端正な築堤の曲線を旋回する姿は鉄道雑誌に定番のように掲載されており、幼少の頃に機関車絵本に見たEF58の<つばめ>も、ここでの撮影を下絵にしていたと思う。
この築堤の曲線には、叔母夫婦がその地でみかん農園を営んでいたこともあって、それを訪ねた折には自ら線路端に立ってもいた。彼方には新幹線が矢のように走り過ぎるのも見えたから1965年のことと思う。→ 飯井 (山陰本線) 1974 当時の新崎(にいさき)川の谷は、線路山側の旧鍛冶屋村の中心集落の他は水田とまばらな農家の見られるばかりで、そこを横切る築堤は周囲の開けたロケーションに所在して、すっきりとした列車写真を楽しめたのである。
以来に40年近くを経れば、高度成長期以降に進んだ市街地化により、いつしか築堤は街並に埋もれ、現在にも築堤上の線路端からかつての画角の再現は可能だけれど、周囲に背景は様変わりして撮れたものでは無くなっている。

替わっての画角は陣場の沢の対岸、嵯峨沢の斜面からの遠望だろうか。海面は望めないけれど、築堤のお陰で辛うじて家並みに隠されずに編成を捉えられた。
そこに最適の光線は太陽が城山の方向に低く沈まんとする夕刻なのだけれど、目当ての上り九州特急は朝の通過なものだから、ここでは丸一日を過ごすことになっていた。新幹線の高架まで降り、瑞應寺の境内から墓所を抜けての農道から一本松トンネルへの画角などにも飽きれば、その真上にあった日帰り温泉施設で過ごし夕方を待ったものである。食事にも困らない温泉付はここでの楽しみでもあった。空腹に厳寒の原野に過ごす地点もあるなら、これは極楽であろうか。それには幾度も通う地点だった。

列車は2列車<富士>。<みずほ>は失われたけれど、<さくら><はやぶさ>とも単独運用で健在な頃の撮影。
よって、これは全編成が熊本運転所の24系25形による[熊2]運用である。
機関車列車と云えど幹線特急はさすがに速く、この画角・距離でも1/250秒のシャッタ速度では横方向の移動に微細に振れた。

[Data] NikonF5+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D 1/500sec@f4+1/3 C-PL filter Ektachrome Professional E100SW [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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