70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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越後金丸 (米坂線) 1971

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越後金丸には鉄道雑誌に見ていた先輩諸兄による写真に惹かれて下車した。
ここの荒川は1961年に竣工した堤高30.2メートルの岩船ダムにより渓谷は失われていたけれど、代わりに上路式ワーレントラスの第一荒川橋梁(l=124M)が湖面に姿を落とす景観がそれには見て取れ、1968年に坂町から乗った車窓で対岸断崖上の国道からの撮影とも承知していたからである。1967年8月28日にこの地を襲った「羽越水害」から復旧のまもない頃で、鉄橋に国道の健在を確認して安堵したものだった。
けれど、これと同一設計のトラス橋の架けられていた、その先の第二荒川に玉川口前後の第三・第四荒川は川幅の狭まった屈曲部への架橋が災いしてか流失したものらしく、下路式トラスへの架替を確認したのも、このロケハンだった。加えては、全てを流された越後金丸がその地には不釣り合いな大きさの鉄筋コンクリート構造に建替えられていたのが印象に残っている。

上路から下路トラスへの選択は、水害を教訓に増水時の水面からの空頭確保を意図したものだろう。第三橋梁が1967年11月1日、第二が同じく12月7日と記録される復旧は驚くべき早さである。おそらく被災直後には設計と製作の始められたものと思う。発注先は石川島播磨重工であった。第四橋梁の復旧には東海道本線の旧上り線大井川橋梁に架設されていた1911年American Bridge社製作のピン結合下路単純Schwedlderトラスの一連が転用され、廃用の19世紀末のCooper-Schneider設計の歴史的トラスが偶然にも再用されたのだった。
これにて米坂線に1931年鉄道省標準設計のワーレントラスは第一荒川を残すのみとなって現在に至る。当然に水没はしたであろうこれの流失の免れたのは、ダム貯水域に在って水勢の弱められたゆえだろうか。

この日、第二橋梁の上路トラスの失われたことは承知で歩き始めたものの、それに並行して国道新道の建設工事が始められており、歩を進めれば目当ての第一荒川橋梁に並んでは手前側に巨大な下路トラスの構築が遠目にも見て取れ、これには大いに落胆せざるを得なかった。
この国道113号線の改良は水害とは無関係に計画の存在していたのだろうが、それを契機に進展したと思われた。鉄道が敢えて避けた左岸の断崖を通過していた旧道の拡輻を困難と見て、これを荒川に架橋しての右岸付替には、ほぼ鉄道と同線形となって第一荒川橋梁の景観が失われたのである。
目論みの外れれば代替を探す他に無い。持参の五万分の一地形図には八ツ口集落前後の上ノ沢と下ノ沢に短い架橋が記され、現地で新道工事箇所とは距離の在る下ノ沢橋梁と決めて、その上流側に見えた雪の急斜面を登ったのだった。深い積雪は表層の締まる融雪期ゆえに這い上がれたものと思われ、降雪期なら困難だったろう。

列車は混合125列車。
下り勾配に期待していなかった白煙を引いて現れたのは良いのだが、お陰でこれも予想外の重連がそれと見えない。

[Data] NikomatFTN+AutoNikkor105mm/F2.5 1/500sec@f5.6 Y48 filter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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深浦 (五能線) 1977

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そこに固有の名称が付けられているものかは知らないのだが、深浦からの線路が行合崎へと繋がる台地に阻まれて海岸線の築堤に迂回した地点に見下ろす岩礁海岸は、五能線撮影の核心のひとつには違いなく、蒸機の時代から鉄道屋を集めたものだった。とは云え、道路側からも線路際からも、岩礁まで降りて波飛沫を浴びても、切取り斜面からの絵葉書的風景を除けば画角にまとめ難い手強いロケーションではあった。
幾度も通ったこの大築堤区間の海側には、車両の半分程を隠すくらいの高さで古枕木を垂直に隙間無く並べた「柵」が続いていた。秋田鉄道管理局管内に多くの例の在ったこの施設は、岩礁の海から飛来する「波の華」除けなのである。

ご承知の向きも多かろうが、北西の季節風に荒れる日本海で一定の条件下にて生ずる自然現象の様態、ないし、その生成物が「波の華」と呼ばれる。現象に対する学術名称もあろうかと思うけれど、不知である。
それは、海中に珪藻類など植物性プランクトンが豊富な岩礁地帯において、風速の7メートルを越える強風に4メートル以上の波の打ち寄せる、0℃近い低温の環境にて、プランクトン由来の粘質物質の溶け出した海水が繰返し岩礁に叩き付けられて発泡する現象を指す。石鹸成分と同じく分子中に親水基と疎水基を含む粘性物質が起泡剤として働くと云う。確かに一面に洗剤をぶちまけたような様相を呈し、その泡は指でつついた程度では破れない頑丈な皮膜である。指を舐めてみれば当然に塩辛い。
この泡が強風に千切れて舞う様を以て「波の華」と呼称されたものである。
強い風に煽られた「波の華」は内陸の1キロ程まで達して農作物に塩害を与え、また送電線など金属に付着すれば当然に腐食を引き起した。羽越本線の電気運転に際して、その電車線路設備や電気車両に特別の塩害対策を要したのもこれ故であった。五能線のこの区間での「柵」は、それの線路(軌条)への落下・付着を防いでいた。本来の使命を終えた古枕木は、塩による腐蝕も無く最適の材料だったのである。

小さな岬の背後は絶壁と云う先端まで登って待った列車は、混合1730列車の東能代行き。
波の華防止の木柵は趣の在るのだけれど、編成の下回りを覆ってしまうのが痛し痒しなところだ。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 1/250sec@f4 NON filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

飯井 (山陰本線) 1974

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小樽・手稲と暮らした頃、蜜柑とは年の瀬に内地の叔母から届けられる南国の果実と認識していた。当時に叔母夫婦は神奈川県の湯河原で農園を経営していたのである。
放り投げを荷扱いの基本としていた鉄道の小荷物輸送に荒縄を二重十文字に掛けた頑丈な木箱に詰められたそれは、釘抜きで打ち付けられた木板を剥がせば甘酸っぱい香りが解き放たれ、冬休みに正月の近いことを感じさせたものだった。
道内には無かったその果樹には湯河原を母と訪ねて初めて接し、林檎のように枝にぶら下がるものと信じていたそれの、樹木一杯の山成りには驚きもしたのだった。

この後も、蜜柑は伊豆方面や房総半島を北限に西国太平洋岸の温暖な地域で栽培されるものと理解していたから、三見に歩くつもりで降りた飯井で季節外れに黄色く染まる斜面には奇妙な感覚を覚えたもした。山陰本線が隧道で越える険しい地形に海岸線に向かって僅かばかり開けた谷の両側斜面は密柑山だったのである。日本海岸と聞けば風雪に波浪を想う身には、西国とは云え不釣り合いな景観に思えたものだった。漁港を見下ろす斜面に登ってみれば、それは蜜柑でも個体の大きい伊予柑と知れた。ならば春の結実も辻褄が合う。
最近のデータではあるが、飯井・三見地区も属する「JAあぶらんど萩」によれば、萩市と阿武町では7.6haで伊予柑が栽培され、年間出荷量は75tと云う。海岸沿いに隣接する長門市にも1haが確認されるから、この7.6haの大半は飯井・三見地区と考えて良さそうである。
ここでの栽培がいつごろに始まったものかは知り得なかったけれど、1870年代に幕藩体制崩壊後の士族救済策として始められたと聞く萩市の三角州を囲む斜面での夏蜜柑栽培の波及と思われ、ここも当初にはその果樹の植えられたものだろう。

1964年1月21日に開駅の飯井は、美禰線としての萩への延伸から40年を経て、ようやくに地元の請願の叶った駅である。10K590Mと距離の長い三見-長門三隅間の中間ながら、当初より要員無配置の棒線だったのは高度成長期と云えど列車回数の少なかったゆえだろう。飯井川橋梁(l=30M)に連なる高い盛土区間に置かれた乗降場からは飯井の入江がよく見えた。
写真は、飯井トンネルからの15.2パーミル勾配を下り駅を通過して往く2012D<まつかぜ>。後追いである。
飯井川にに沿って赤い石州瓦の集落が続いて、伊予柑の黄色と緑に映える景色の国鉄特急色にはモノクロームをお詫びするしかない。これに海の青が加わって、ここは地中海的南国なのだろう。

[Data] NikonF2A+AutoNikkor50mm/F2 1/500sec@f4 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.


福来信号場-焼石 (高山本線) 2007

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下原ダムは飛騨川(益田川)の景勝地、中山七里に位置して、その景観保存から常時放流を行っている。常用洪水吐を持たない越流型のダムであり、平水時には7門のゲイト中、第2から第4ゲイトのどれかを開放している(付番は左岸側から)。押し黙って水を湛えるダムと異なり、水流が賑やかではある。
この方面には門外漢なのだが、23.9メートルと然程に高く無い堤体高に常時に満水に見える水位は、平水時でも5センチ内外で、時には10センチ近くの範囲で常に変位を繰り返しているのである。この貯水湖の水際まで降りて三脚を立てた折り、水面に浸ったそれの脚先を見ていて気がついた。知らぬ間の上昇には、そこへ伝った通路の水没も想定し、慌てて背後にエスケイプ路を確認、バックパックだけでも石垣上部まで避難させたりしたものだった。果たして、ロールゲイトはそれほどに細かく操作されているものか、或は流入水量とはそのように常に変動しているものなのか、総貯水容量の2,936,000立方メートル、35ヘクタールの堪水面積の水位を動かすには余程の水量変動を要するとも思えるのだが、とにかくにも意外な事実であった。識者のおいでなら御教授いただけるとありがたい。ちなみに当日の天候は安定した晴天。上流域での降雨などなかったと思う。2時間程の撮影を終えての引揚げには、案の定往路に使った水際の通路は水面下に没していた。

此処での核心である第二境平橋梁(l=134M)上の列車は、9両運行の30D<ひだ10号>。
この列車での、ここまでの増結は珍しい。
水際から転じてゲイト巻上機の設置されたダム天頂通路からのカットである。
国道41号線に接した堤体付近にはフェンスが張られ、立入りを制限しているに見えるのだが、「当個所に御用の方は下記にご連絡下さい」とダム管理所の電話番号の記された標識のあるのみにて「立入禁止」の表示は無い。実を云えば、天端は通行が認められており、フェンスには鎖錠されていない隠し扉が設けられている。地元の人さえ知っていれば良いこれには、このダムの計画された1930年代当時、左岸側にも人家の存在し、ここに通っていた渡河路の水没と引換えに堤体を通路として認めた経緯がある。現在にも対岸の山へと通う人もおり、一般の無闇な立入りを避けつつも地元との契約をも果たす苦肉の策と云えよう。
鉄道屋は、そのおこぼれで立ち入らせて頂いているに過ぎないことを忘れてはならない。礼儀としてダム管理所に電話にて目的外立入りの了解を請うべきである。

[Data] NikonF5+COLOR-HELIAR 75mm/F2.5SL 1/250sec@f4 C-PL filter Ektachrome Professional E100GX [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

青森 (奥羽本線) 1985

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日本海縦貫線を上下した特急<日本海>は首都圏から北へ向かう身には無縁の存在だった。けれど、それには1968年10月改正での設定から強く惹きつけられたものだった。当時に電気運転は糸魚川までしか及ばす、以北の行路は信越線の宮内から新津を除き、自動信号はもとより連査閉塞すら施行されて間もない単線に信号場の細道だったのである。<日本海>は当時に寝台特急最短編成の9両で途中4回の機関車交換を繰り返しながら走り、糸魚川以北は東新潟と秋田に配置された新鋭機、DD51が牽いていた。

これにようやくの初乗車を果たすのは、米原を通らなくなり、早岐客貨車区の14系が関西-九州間列車と共通運用されていた頃の1977年と記録にある。東北地域の蒸機の一掃され道内との行き来の途上に下車することもなくなって、北海道周遊券には都区内から山科(京都)経由宮内行きと云う大回りの片道乗車券を付加せねばならなかったけれど、思い切って散財したのである。その替わりに新幹線との京都乗継ぎに<日本海>の特急料金は半額に割り引かれた。
世の大勢に既に食堂車の組成も無く全区間が架線の下ではあったが、その16時間あまりには多いに満足したものだった。これに味を占めて、1980年代に架けて度々この経路を渡道に利用していた。新幹線移動の東京口での時間の関係から4003・4002列車の利用が大半で、青森・函館とも昼の12時台出航の連絡船接続は札幌より先が道内夜行となって効率も良かったのである。但し、それは釧路にせよ稚内・網走にせよ、二夜行37時間あまりを要する旅では在った。
青森始発が永いこと16時25分だった4002列車ならば、大館から東能代まで乗り込む花善の販売員を首尾よく捕まえて「鶏めし」を夕食とし、朝食用には秋田での機関車交換中に仕入れたものだったが、これも夜半には食べてしまっていたと記憶する。その運行距離に区間利用の旅客も多く、秋田や酒田は勿論、0時近い新津でも乗車客のあり、驚かされたのは、そこでの下車客も多々見かけたことであった。確かに青森で午後に及ぶ用務を済ませてからでは寝台券を要するこの列車しか無い。まだ深夜である富山に金沢での下車も散見されて、多様に利用されていたのを伺わせた。

写真は西に傾いた斜光を受けて発車を待つ4002列車<日本海2号>。
1971年10月の奥羽北線電気運転にともない、この機関車に置替られてまもなくに掲出の無くなってしまったトレインマークは、以来10余年を経た1985年3月改正で復活した。復活後最初の対面となったこの時には、かつてDD51に見たそれを懐かしく眺めたものだった。通りがかった職員に声をかけて線路に下ろしてもらう。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250@f8 Fuji SC52 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

会津檜原 (只見線) 1972

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40年前、只見線と名を変えたばかりの線路から降りてみた桧原は、深い谷の只見川右岸に僅かばかり開けた段丘面ともう一段上に耕作地を持つ趣の在る集落だった。融雪の進む雪原に散在する茅葺き屋根の家々には思わず見とれた覚えが在る。
この会津地域には只見川に限らず谷筋の僅かな平地毎に集落が開かれ、山間と云えど道内のごとくに無人地帯が広大に続くではない。12世紀の平家の落人集落との話も耳にするけれど、それにしてもこの山深い地によくも棲み着いたものと思う。古には流路がその里々を行き来する交通路だったろうから、それを伝い越えさえすれば良かったかも知れないが、鉄道の隣駅の所在する中野(滝谷)集落も、名入(西方)の集落もこの1970年代当時まで陸路を採ろうとすればかなりの迂回に峠越えを余儀なくされたのだった。西方の中心集落なぞ川を挟んで指呼の間に見えるに関わらずである。
会津坂下から山間に分け入って建設の線路は、深い谷への架橋も厭わずにこれらの集落を連絡する線形を採ったから、特に道路の閉ざされた積雪期にはそれを通路として歩いた村人も多かったことだろう。

1941年10月28日の会津柳津から会津宮下への延長開業に際し、滝谷と会津西方の4キロばかりの中間に置かれた会津檜原(現会津桧原)停車場は閉塞を扱うまでも無く、開設より要員配置のなされない仮停車場とされた。同年10月24日付でのこの区間開業に関わる鉄道省告示(第223号)には「毎年冬季必要ノ時期ニ限リ旅客ノミヲ取扱ヒ」「開閉期日及ビ取扱區間ハ關係停車場ニ之ヲ掲示ス」とある。とは云え翌1942年6月1日付では正駅に格上げされたから、実際に営業休止の期間は無かったものと思われる。この1972年当時にも、開業に用意されたであろうホーム上の木造待合所の残る駅であった。
ここに降りたのは、只見川沿いに名入対岸の川井集落まで続いていた細道(古の交通路であろう)から第一只見川橋梁を望もうとの目論みだったけれど、それは樹木に邪魔されて脆くも崩れ去ってしまった。仕方なく原谷トンネル出口側で細い流れの深い谷を一跨ぎしていた鉄骨アーチ橋の持奇橋梁に向かうも、ここでも何やら谷底で土工の跡があり落胆したのを覚えている。今は国道252号線の洞門が延々と続いて、その基礎工事だったのだろう。

会津にやって来ると都内ではあまり見かけなくなっていた子守り半纏、所謂「ねんねこ」は日常と知れた。それは別珍の襟の綿入れと相場が決まっていたけれど、この若い母親は羊毛製のケープ状のものを羽織っていた。今に「ママコート」などと呼ばれるそれは、この頃既に商品化されていたのである。確かにミニスカートに綿入れ「ねんねこ」は似合いそうに無い。下り列車でのお出掛け先は宮下の街と見えた。
背中に負ぶわれた赤子ももう40代である。鉄道屋も古びるはずだ。
キハ45を先頭にした3両編成は429D、小出行き。

[Data] NikonFphotomicFTN+AutoNikkor5cm/F1.8 1/125sec@f8 Y48filter NeopanSSS Edit by PhtoshopLR5 on Mac.

陣場 (奥羽本線) 1980

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その昔、<つばめ><はと>や<はつかり>の編成端に組成されていたスハニ35は、乗車中の旅客の託送手荷物(チッキ)を積んでいた。現在の航空機輸送と同じく、荷物の多い長距離移動の特急旅客には欠くべからざるサーヴィスだったのである。対して20系固定編成客車以降の特急寝台列車の電源装置搭載の荷物車が運んでいたのは、主には日本国有鉄道旅客及び荷物営業規則(1958年10月1日施行)の第353条に定める「特別扱小荷物」の新聞紙であった。明朝までの速達を要する新聞の朝刊は、従来より「特別扱新聞紙」として列車輸送が行われては居たのだが、輸送距離・範囲の限られたものを1958年10月1日改正における<あさかぜ>でのマニ20の運用開始に際して、特別扱新聞紙運賃(同重量同運送距離と仮定した普通扱小荷物運賃の凡そ9割引であった)の他に、その運賃の2倍相当額を「運送列車指定料金」としての徴収を制度化したのであった。勿論、これは固定編成客車の設計段階から構想され、編成に不可欠の電源装置搭載車への荷物室設置はこのためであった。
運用開始後の旺盛な需要に1959年の<さくら>向け増備車が3tから5t積みへと荷物室容積を増大したカニ21とされたのは周知のとおりである。
この輸送は特急寝台列車の増発とともに拡大を続け、1964年10月1日改正からは、それの設定の無い方面に対して急行列車に専用荷物車を連結しての輸送も始められた。

ただし、当時の国鉄は主要駅における旅客と荷物扱いの輻輳回避や、輸送効率上に拠点駅間での小荷物と小口扱貨物の共通化から客荷分離を進めており、朝刊輸送も将来的には夜行運転の荷物専用列車を設定する方針であった。1971年度に20系客車の後継として新製の14系特急形客車が分散電源方式で電源荷物車を持たず、1972年11月6日に生じた北陸トンネル列車火災事故から、集中電源方式に急遽設計を変更して1973年度に増備の24系のマヤ24が荷物室を装備しなかったのも、それによる。
しかしながら、市場の要求は国鉄の思惑を裏切り、続く1974年度の24系25形としての増備に際しては3t積の荷物室を持ったカニ24、さらに1977年度からは5t積載の同100番台を製作せねばならなかったのである。もっとも、これら増備は各方面の急行列車の格上げ用途だったから、旅客車と一体組成の電源荷物車はそれに連結の(新聞輸送の)荷物車の代替を果たすことにはなっていた。

1970年代に隆盛を極めた朝刊輸送ではあったが、各方面への高速道路整備の進展した1980年代ともなれば、その性格からの締切時間にも有利なトラック輸送への切替が進み、また中央発行紙の地方への印刷工場建設の動きなどから輸送量は減少し、区間も限定されて往った。そして、国鉄の小荷物輸送から大幅に撤退した1986年11月1日改正にて、ごく一部を除いて廃止され、上野や大阪駅での発車間際の積込みの喧噪は過去のものとなった。

さて、日本海縦貫線を走った<日本海>の荷物車にも、それ独自の運用番が振られていたけれど何を積んでいたのだろうか。
実は、1968年10月と云う早い時期の設定ながら、大阪から北陸方面への時間帯の適合しないこの列車に新聞輸送の実績は無いのである。運んでいたのは、同じく1958年10月1日より制度化の「運送列車指定料金」を課した普通扱小荷物、所謂急送品と呼ばれた高級貨物(荷物)であった。けれど、めぼしい経済拠点の見当たらない運転区間にあっては需要も小さく、1975年3月10日改正での14系置替を機会に廃止されてしまった。1978年10月2日改正にて24系の運用となり、1976年2月以来の季節列車も定期列車に格上げられた際には、2往復共に荷物車運用が設定されたものの、それはそれぞれの共通運用列車に関わってのことであり、<日本海>では引続き荷物輸送は行われなかった。
復活は、国鉄がトラック輸送の宅急便に対抗して「鉄道宅配便」を開始した1982年2月であり、市中集配網の整備を受けて「列車指定荷物輸送」の営業列車に追加されたものである。

写真は、白沢への新線を駆け抜けて往く4002列車<日本海2号>。カニ24の荷物室は空気を運んだ頃である。
複線化による陣場駅構内嵩上げにて旧線より勾配の吃くなった区間だけれど、上り線ゆえ影響がない。植生に覆われた築堤中段に旧線路盤が残る。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8 1/250sec@f5.6 Nikon Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

落居 (身延線) 1996

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甲斐岩間からの線路は富士川支流の山田川を遡り落居の先に割石隧道を穿って、同じく富士川へと注ぐ新川の谷に出る。この割石峠越えは古の駿州往還に、1680年代(天和年間)に富士川右岸へそれの遷移してからは東河内路と呼ばれた街道上に位置した峠である。戦乱の16世紀には大門から岩間へは帯那峠越えであった経路を、富士川の水運の開かれて西寄りに付替られて以来とされる。
これにて、筏士などの帰路にはあまりの迂回となり、しかも標高650メートルまで上った人馬の難所は解消したけれど、最高所の400メートル程に下がりこそすれ同じく峠越え選ばざるを得なかったのは、笛吹川と釜無川が合流し富士川と名を変えて甲府盆地を流れ出る水流が鰍沢から狭い峡谷を曲流するゆえであろう。
その開削は頂上付近で岩を割っての難工事と伝えられ、割石峠の名の由来となっている。近代に至り、1911年にその峠道直下に開通した県道の割石隧道も開削に12年の歳月を要したとある。

1927年12月17日に身延から市川大門を開通した富士身延鉄道も、波高島から下部、常葉集落に立ち寄るための迂回を勝坂隧道(かんざかと読む-現下部トンネル)の掘削までして富士川流域に戻りながら、再度の峠越えは古くからの街道沿いに集落の発達したのに加え、やはり岩間からの富士川の険しい地形を避けたものだろう。割石峠も延長840メートルの割石隧道にて難なく通過している。

前記の県道が旧道と化して上部を巻いているのを五万分の一地形図に確認の上で、車窓にロケハンして現地を歩いては見たものの、ここの線路は峠道にはほど遠い、あっさりとした線形や沿線風景には些か拍子抜けしたものだった。それでも落居から峠まで比高100メートルの機材を背負っての急坂に、徒歩交通時代の難所の片鱗を感じたものである。
列車は4001M<ふじかわ1号>。
旧道割石隧道の南側で分岐して神有集落に至る道から、なんとか峠道らしい画角を探し出した。線路が並行する新道から離れるのは、この区間くらいしか無い。

[Data] NikonF4s+AFNikkorED180mm/F2.8D  1/125sec.@f4+1/2   C-PL filter   PRP  Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

中山平 (陸羽東線) 1971

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陸羽東線の最長隧道は、分水界の手前に所在する延長1062メートルの鳴子トンネルである。大谷川が深い峡谷を刻む右岸の山塊に穿たれたこの隧道は直線の線形が採用され、線路はそのまま国道47号線大深沢橋からの遠望で知られる第一大谷川を渡り、直後に第一中山トンネルへと続くのだが、この隧道は半径300メートルの曲線で左転して大谷川の断崖中腹に出るのである。線形として決して不自然ではないけれど、仙台市所在の新聞社、河北新報が1917年10月27日号から31日号で鉄道省新庄建設事務所発表として伝える「陸羽東線建設概要」によれば、それは急遽測量・設計された迂回経路であり、第一中山トンネルの入口抗口は本来に直線線形のまま中山平停車場に至る中山隧道の抗口として計画されたものと云う。

中山隧道は鳴子隧道とともに第五工区に含まれ、峡谷断崖に面する入口抗口からの掘削が困難なため、1913年1月にそれに替えての横抗(記事は「横シャフト」と書くが地形からは斜抗ではないかと思う)掘削に着工したが、その工事中に硫化水素ガスの噴出に遭遇し、深度を増す毎に激しさを増すそれに遂には工事は一時中断に追い込まれたのである。その間の改めての地質調査により計画隧道がガス含有層を貫通していることが知れ、已む無く迂回経路の調査・選定に着手、1914年8月に測量を終えて直ちに再着工されたのが、大谷川の断崖中腹を第一から第三の中山トンネルと切取り、築堤にて通過する現行経路なのである。ここでも少量ながらガスの噴出の見られ、隧道構造材や敷設軌条などの鉄材には腐蝕に対する防腐措置を要したと在る。
趣味的興味は、隧道工事の常識から当然に着工していたと思われる出口側抗口なのだが、記事には計画隧道の延長の記述されず推定の仕様が無い。等高線からは現第三中山トンネル出口に並んでいたものと思われるものの、戦後まもなくの古い空中写真にも、当然ながらそれらしき工事の痕跡は見当たらなかった。

写真は第三中山トンネル入口抗口上から見下ろした1793列車。煙の向こうに第二中山トンネルの出口がある。
せっかくの重連運転なのに、左に落ちた影からしかそれと知れぬのが少し悲しい。被写体に対する位置選定に未熟な頃のカットと云える。
なお、国有鉄道における「隧道」の呼称は、1970年4月1日を以て「トンネル」に統一されている。

[Data] NikonF+P-AutoNikkor50mm/F2  1/250sec@f5.6 Y48filter  NeopanSSS  Edit by PhotoahopCC on Mac.

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