70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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菊川 (東海道本線) 1997

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静岡県は酒呑みには垂涎の酒造地域と知られる。1980年代半ばに劇的に酒質が向上して以来のことで、当時に静岡県の工業試験場醸造課での研究開発にて産み出された多様な「静岡酵母」によるところが大きい。林檎様、梨様、マスカット様などの香りを多成し、爽快な吞み口を実現した吟醸酒や純米酒が嗜好の変化していた酒呑みに注目されたのである。アルコール度数15度換算での年間出荷量が1000石に満たぬ小蔵の大半ながら、かつてに地元、旧志太郡大井川町を中心に存在していた酒造集団志太杜氏もいなくなり、南部に山内、越後、能登と各地から杜氏を呼び寄せるか、或は蔵元自らが醸造を手がけざるを得ない中での酒造りの姿勢や、この酵母を得ての戦略も見逃せない。

東海道本線の菊川詣では、駅から至近に在る蔵元、森本酒造の醸す「小夜衣」が目的半分と白状しておく。それは生産量から、地元を中心に県下を出ることの無い酒なのである。80年代の終わり頃だったか、浜松出身の知り合いから土産に貰った五百万石を50パーセントに磨いた吟醸酒の、ほのかに立ち上がる吟醸香に緻密なキレの味には驚き、モノクロのコピィ出力を手切り・手貼りしたボトルのラベルも少量生産を伺わせて、大変な酒に巡り合ったとの思いを持ったものだった。しかも、呑み仲間の間では、焼津の「磯自慢」や大東町の「開運」など静岡酒は話題になってはいたけれど、これは全くにノーマークであった。
酒は買いに出向くものとの信条を頑なにしていた頃で、新幹線に掛川の開業していたものの、そのためだけの往復にも気が引けていたゆえ、撮影を肴に滅多に撮ることのなかった電化幹線との抱き合わせを思いついたのである。

金谷から菊川の牧ノ原台地越えは、かつてには閉塞区分の友田信号場(所)が置かれ、補機を要した大幹線の難所であり、下倉沢集落の菊川沿い東京起点218キロ付近の曲線区間が古から撮影地に知られていた。先輩諸氏の時代に比すれば集落の大きくなり住宅の建て込んで、それのフレイムアウトするポジション選定には些か苦労する。
西日の斜光線を旋回するのは1062列車。
この後を追って来るEF65PFの牽く776列車までをここで過ごしてから、森本酒造に立寄り酒を仕入れるのを定番にしていた。帰りは急ぐでなければ静岡に出て、そこを始発の<ながら>編成送込みの366Mである。その横浜まで2時間余りで、取り敢えずの四合瓶一本は空いたものだった。

[Data] NikonF3P+AiNikkorED300mm/F2.8S 1/250sec@f5.6+1/2 C-PL+Fuji CC10M filter PKR [1EV push] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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風合瀬 (五能線) 1978

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近年には実見していないので何とも云えぬが、この頃に津軽西海岸での海水浴スタイルは北海道でのそれに極めて近かった。海水浴に来ているのか、ジンギスカンに来ているのか境目の無い「アレ」である。勿論、ここではそれに替えてのバーベキュウなのだけれど、ビーチパラソルの日陰に砂浜で寝そべる内地での一般的スタイルの中にも、テントを張り調理道具を持込む家族連れや集団は珍しく無く、小さな鉄板で慎ましく肉を焼く若いカップルも見かけた。
道民には、春の花見に始まって子供の運動会に町内会のお祭りに、秋の観楓会にと事ある毎に野外でのジンギスカンは習慣化しているゆえ海水浴にそれの持込まれるに不思議は無い。
ここでの野外調理との一体化は何故なのだろう。奥羽地域にも山形・宮城県下での芋煮会に代表されるような家族や学校に職場、地域などの集団による野外料理の習俗が見られる。岩手県での芋の子食い、秋田県での鍋っこ、福島会津方面での茸山である。ところが津軽地域を含めた青森県下にその系統は見当たらないのである。かつて南部地域には地元青年団などの行事の記録の在るようなのだが、それは芋の子食いからの分派であろう。津軽では、どうやら海水浴だけが野外調理と結びついている様子である。
おそらくは、北辺の短い夏にシャワー設備やトイレまでならまだしも充実した飲食施設の整備された海水浴場の無いことによるのだろう。しかも自治体による指定の多くは、海水浴場では無く海水浴適地に留まり、弁当の持参を要するなら現地で調理と云う習慣の定着したものに思える。同じく日本海岸に面していても、秋田市周辺の整備された海水浴場となると、鍋っこ遠足の学校行事化している地域に関わらず、それは内地型のスタイルと記憶する。

夏休み期間を避けて道内で一週ほどを過ごした帰路だから9月も初旬である。日差しはまだまだ強くても風合瀬の浜にはひんやりとした風の渡るのだけれど、疎らながらも海水浴客の姿を認めた。水着には着替えても当然に海へ入るで無く、一頻りバーベキュウに興じると往く夏を惜しむかのように浜辺に佇むのだ。

列車は混合1735列車。でも、この日に貨車の組成は無い。
夏の終わりとは云え数日の野外行動にこの日の日差しの引き金になったのだろうか、青森からの<八甲田>の車内で両耳の皮膚の硬くなっているのに気がつき、触っているうちに耳の形のままに皮が剥けた。後にも先にも、そんな経験はこれしか無い。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8  1/125sec@f8  Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

折原 (八高線) 1997

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DD51形式内燃機に付された「本線用大型機」との区分は、あくまで「入換機」に対してのことと承知していても、古い鉄道屋には蒸機のそれに従った「幹線機」を指すものと聞こえてしまう。実際に量産開始当初には盛岡や東新潟、長野に鳥栖など地方幹線上の要衝に配備されて、そこの最優等列車から優先的に置替られたのだった。勿論吹田第一区のように大都市内線区の無煙化用途もあるが、そこでも長大編成貨物列車の先頭に立っていた。
1970年代半ばまでに、それら地方幹線に電気運転が及ぶと、幹線機らしい運転は北海道内に見られるだけとなるが、釜石や秋田、東新潟、郡山、佐倉、稲沢第一、亀山、福知山、米子、岡山、厚狭、直方などの配置車が亜幹線の客貨牽引に稼働し、中には山陰線での特急仕業も含まれた。

けれど、1970年2月から配備の行われた高崎第一機関区の仕業線区である八高線は全くのルーラル線区であった。
関東平野の西縁で中央本線と高崎線を短絡するに過ぎないこの線区の特殊性は、秩父山系での石灰石産出にともなう沿線でのセメント製造所の存在による。1925年より操業の秩父セメント秩父工場からの出荷は1934年10月6日の八高線全通後には寄居から八王子方面に運ばれ、戦後の1946年以降には氷川の奥多摩工業からの石灰石輸送も加わったこととは思うが、セメント輸送の本格化するのは1956年に大野原へ大規模な秩父セメント秩父第二工場が、1955年に高麗川へ日本セメント埼玉工場が建設されて以降のことである。
戦後には高崎に八王子のC58が客貨を牽き、重量のある貨物には9600が使われていたのだが、これに際しての機関車一台運転による定数450の実現には、より強力な大型蒸機を要して、関東近郊のルーラル線区には珍しいD51の運転線区となっていたのである。したがって1970年10月改正にともなう無煙化は、高崎第一機関区へのDE10では無くDD51-14両の投入にて行われたのだった。

丙線規格の八高線への動軸重15tのD51の入線は橋梁負担力や軌道強化をともなったとしても、当然に速度制限を要するが、低速度の重量貨物列車の仕業には問題のないと判断されたものだろう。それを引き継いだDD51も実にゆっくりとこの線路を走っていた。おそらくは同機の定期運用線区では最も低規格線であったと思われ、その姿は、函館線を18両組成-900tのコンテナ編成を率いて疾走するのと同じ機関車とは思えなかったものである。
竹沢から折原へ抜ける丘陵地、強烈な照り返しと草いきれの線路を往くのは5263列車。八王子で信越線川中島からの5470列車を分割したセメントホッパ車の返空列車である。

[Data] NikonF4s+AiNikkorED300mm/F2.8S 1/500sec@f5.6 NON filter Ektachrome Professional E100S [ISO160 / 0.5EV push] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

西金 (水郡線) 1982

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道内撮影からの帰路に思いつきで立ち寄った水郡線は、その後の数年間、実家への帰省の度に撮っていた。特に惹かれるところの在ったでは無いのだが、強いて云えばそこは水戸から至近の非電化線だったからである。
その核心区間は、やはり久慈川が八溝山地に蛇行を繰返す山方宿から矢祭山の奥久慈渓谷であろう。矢祭山北方の高い橋脚の第九久慈川橋梁や袋田の第五久慈川なども気にはなったけれど、中でも足場の多く取れそうな西金に降りるのを定番にしていた。

西金は吾妻線小野上と並んで関東地域一円の線路道床に用いられる砕石の出荷駅であることは、ご承知のことと思う。
ここで採取事業を行う関東商工株式会社によれば、久慈川対岸の山中での採取は1941年からと云うから、戦時下での開発は主には建設資材の調達目的であったろう。当然に西金には鉄道での移出設備が整備されたに違いなく、戦後の1946年に事業自体を同社が引き継いだとある。
1962年11月17日付での水戸鉄道管理局による水郡線貨物営業の見直しに際して、西金の貨物扱いは廃止されたのだが、その1962年日本国有鉄道公示第557号には「接続専用線発着車扱貨物に限り取り扱う」との但書きがなされ、この当時に積込設備は専用線だったことが知れる。道床用ばかりではなかった砕石輸送は国鉄の貨物営業に組み込まれていたのである。けれど、ここに幾度か降り立った1980年代前半時期に、水郡線貨物列車廃止前にもその搬出は工臨列車に依っていたと記憶する。使われていた貨車もバラスト散布装置を備えたホキ800形式にて、既に国鉄の事業用途しか輸送の無かったことになり、関東商工の国鉄納入品以外はトラック運送に切替えられていたのだろうか。専用線だった施設を国鉄が編入したものかなど、経緯は興味深いのだけれども手元資料の限りには調べ得なかった。

この1980年代当時に採取地から西金構内隣接の野積場への久慈川を越える運搬には索道が用いられており、それは予備知識無しでの初訪問後に入手の五万分の一地形図にも記入されていた。索道分野は不勉強なのだが、対岸山上と比高30メートル程に150メートル程の延長にて4本の鋼索が渡され、索道は2本と見て取れた。それぞれにバケット型の搬器1台が吊り下がり、野積場で下部を開放し砕石を落下させては山上へ戻って積込みを行う動作を繰り返す単純な循環式である。搬器2台の往復式としないのは支柱の区間両端のみの構造には荷重がそれで精一杯だったのだろう。日がな一日、ガラガラとした音を山峡に響かせていたものだった。
野積場での積替やホキ800形式貨車への積込はベルトコンベヤにより、山上側でのステイションまでの搬送にバケット積込も同様であったと思われる。

駅前から国道118号線の新道に出て西金大橋へ向かう手前で、湯沢川の細い流れを見下ろせる。山清水を集めて久慈川へと注ぐ無数の流れのひとつであるが、河川名称のあればそれは大きい方に属しようか。その先には短い湯沢川橋梁に築堤も見えて陽光に照り返す澄んだ水流に画角を採れば、ここでも竹林が覆い被さるのだった。
札幌にはなかったこれの苦手なことは、これまでにも何度か書いた。もっさりとした植生がどうにも納得できないのである。南方系の照葉樹の枝葉の広がった様も同様で、蒸機撮影の当時、当然に九州への旅を計画したのだけれど、出発直前に日豊線霧島神宮付近での先達のカットを目にして急遽いつもの道内行きに変更した覚えもある。
列車は普通343D。この旧盆期など多客期運転の9413D<奥久慈51号>は水郡線を定期普通列車のスジに乗っていた。つまり、その期間だけ343Dはキハ58/28の冷房編成と化すのである。

[Data] NikonF3P+AiNikkor28mm/F2.8S 1/500sec@f5.6 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

鹿又 (石巻線) 1973

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この1973年の撮影メモには、道内や奥羽地域へ上野を仙台行き夜行の<まつしま6号>で発った記録が目につく。いつもの盛岡夜行<いわて3号>でないのは、それを小牛田で捨てる陸羽東線ではなく石巻線に向かったことを意味する。仙台へ<いわて>に数分を先行する<まつしま>からなら仙石線の始発に間に合い、さらに石巻線上りへと乗継げば朝の下り貨物を余裕で捉えられたからである。加えて、この年には翌年春に予定された無煙化に向けて、どちらかと云えば陸東線側に鉄道屋が集中し始めており、それを少しでも避けたものと思う。なので石巻線の撮影カットは、この年のものが多い。

この線区は小牛田から東へ大崎平野を淡々と辿るばかりで、多少の変化を与えていたのは短い鳥谷坂の隧道くらいである。要は田園風景を画角とせざるを得ないのだが、佳景山で線路の麓を巡る丘陵(欠山の低い尾根)が足場になるとは云え、それが唯一でもあった。多少なりとも高い視点の得られる跨線道路橋も、この当時には小牛田-石巻間に三箇所を数えるのみで、平坦な地形には稀少位置ゆえ取り敢えず全てには立っていた。
写真はその内のひとつ、国道45号線の鹿の又跨線橋から見通した画角である。R=200からR=300の急曲線の先、画角奥に鹿又駅がある。線路が跨線橋交差位置にむけて築堤を上るように見えるけれど、ここの勾配は1.5パーミルしかない。実際には左の水田だけが窪地のように低くなっているのである。
列車は午後の871列車、石巻港行き。午前中を欠山の斜面で過ごしてここまで歩いたと当日のメモに読める。

何度か乗り降りした鹿又については、小牛田-石巻間に三駅のみの要員配置の閉塞扱駅だったのだけれど、あまり記憶にない。ただ、駅後側の県立河南高校(現石巻北高校)への通学駅でやたらと学生服姿の目についたのは印象に残っている。

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor50mm/F2 1/250sec@f8 Y48 filter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

名古屋 (東海道本線) 1981

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特急寝台や新幹線で何度か通過してはいた名古屋駅を初めて市内へと降り立ったのは1981年のことである。その際の「カツ丼」の一件は先日に書いた。(→戸田小浜 (山陰本線) 1974)
その後には仕事でも幾度か向かうことになり、思い出すこともあったので続けたい。
そこでの「カツライス」が、とんかつ定食の様式なのは良いにせよ、それに味噌ダレのかけられているには些か驚いたものだった。カツライスと呼ばぬ店でも、カツ定食はほぼ例外無く味噌ダレである。ここでの味噌とは勿論地場産の八丁味噌を指す。当初には物珍しさもあったのだけれど、まもなくにその甘いタレには飽きてしまった。そうなる頃には慣れたもので、テーブルに付けば「カツ定食味噌抜きソース付き」と注文していた。これで、普通のカツ定食が食べれた。
それにしても、名古屋の人は味噌好きである。呑み屋でのシメに「焼きおにぎり」に「みそ汁」を頼もうものなら、それはほぼ例外なく味噌焼きに赤出しだったし、この地域に特有と思われた喫茶店でのモーニングサーヴィスに味噌トーストと云う店さえあった。ジャム替わりにバターと混じった味噌は美味しかったけれど、これは反則の部類だろう。
独特の豆味噌である八丁味噌を嫌っていた訳では無い。固い太麺の「味噌煮込みうどん」にはすっかり嵌ってしまい、当地に赴く度に、あの角棒のような箸は使いこなせずに居たものの伏見に在った「山本屋総本家」の本店に上がり込んでいた。
この味噌煮込みと云い、もつひとつお気に入りだった「風来坊」(比較的空いていた矢場町店が定番だった)の「手羽先揚げ」と云い、濃いめの味付けの料理があるかと思えば、一方には「きしめん」である。九州特急の5分の停車時分に、在来線ホーム東京方端に在った立食いスタンドに走った向きも多かろうと思う。東京を夕方に出ての4時間半は、丁度就寝前の夜食時間だったのである。
あの北の方の出身者には物足りなさ過ぎるツユも名古屋とすれば、どうにも輪郭の掴み難かった地域とは書いておく。名古屋駅を始め美濃太田や下呂の駅蕎麦は同じく透き通ったツユだったけれど、市中の蕎麦屋のそれは鰹出汁とも記憶する。

写真は名古屋駅頭での13M<しらさぎ13号>金沢行き。発車前のスナップである。
上野からの東北特急で乗り馴れ、見慣れもしていた485系特急だけれど、車内のリネンなど装備品に食堂車の食器などに差異のあって、かつて「(鉄道)管理局が異なれば異国も同じ」と聞いたのを妙に納得したりしていた。天下の東海道本線だけれど、そこの関ヶ原越えも東北線内の十三本木越えと異なりゴトゴトと走った。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor105mm/F1.8S  1/30sec@f1.8  NONfilter  Tri-X(ISO320)  Edit by PhotoshopCC on Mac.

面白山仮乗降場 (仙山線) 1978

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この仙台・山形間鉄道は、国土骨格を形成する鉄道路線を定めた1892年の鉄道敷設法(1892年6月21日法律第4号)で既に法定された重要路線であった。1888年に創設の陸軍第二師団の所在した仙台への鉄道の接続は喫緊の要請だったのである。1926年に至っての仙台-愛子間からの着工は、両都市間に位置する奥羽山脈の別けても峻険な地形への長大隧道建設にかかわる技術に、それの通過に不可欠の電気運転についても目処の着いてのことである。1930年代前半には清水、丹那隧道が相次いで開通し、5361メートルで当時に両隧道に次ぐ延長となった仙山隧道も1936年12月8日に完成し、これを含む作並-山寺間の1937年11月10日の開通により仙山線が全通している。奥羽本線との接続地点決定の遅れの無ければ、清水隧道に先行した可能性もある。両都市間を最短距離で連絡する鉄道ではあったけれど、同区間に1/30勾配にR=250Mの急曲線の連続する有数の山岳線とならざるを得なかった。

仙山隧道は地質調査に規模は大きく無いけれど多くの断層帯を確認して、当初には難工事が予想され、また工期短縮の要請からも鉄道省の直轄工事方式が採られた。仙台方が1935年3月18日、山形方で同年6月28日(*1)に着手の導抗掘削は小断層での湧水に苦しんだものの、当時に最新の技術に新鋭の機械導入にて克服し、日進平均10.5メートルの新記録にて1936年9月8日に貫通、これを追った本導抗工事も1ヶ月最大200メートル、平均163メートル、1日最大9.6メートルと云う当時に驚異的な進捗度にて同年12月8日には完成(*2)を見たのだった。
この最終工事区間には仙台方抗口の3キロあまり手前に存在した緩斜面を利用して、ここに奥新川停車場が設けられたが、山形方は紅葉川の峡谷断崖に抗口が位置して山寺停車場まで1/30勾配の続くことから、スウィッチバック式を避けて抗口から600メートルの抗内に延長312メートル、幅8.6メートルの空間を得て停車場が置かれた。面白山信号場である。
ここを初めて通過したのは1964年と記憶するが、洞内側壁が横に掘込まれて白熱電球に照らし出された詰所が設けられ、立ち働く職員の姿が認められた。永いこと閉塞を扱う信号場本屋相当個所だったと思い込んでいたけれど、奥新川-山寺間には隧道内の特殊性から開通時より連動閉塞の採用されたと知れば、その扱いは抗口外の本屋にて可能だったはずであり、坑内の詰所は何故だったのだろうか。70年代始め頃でも車窓に灯りを確認した覚えが在る。
上越線の清水隧道内茂倉信号場もそうだけれど、鉄道の輸送にはこんな山中のなお地底で働く職員達も居た。
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(*1) 山形方では1935年4月1日着手の横抗掘削が先行した。抗口より510メートル地点である横抗到達位置では5月17日より本導抗工事に着手していた
(*2) 信号場部分を除く

開業時と同時に山形方抗口に置かれた面白山仮乗降場は、その付近(工事用抗外施設の跡地である)に所在した官舎居住者の便を図っての設置であろう。公告されたものでは無かったが、当時より紅葉川渓谷の探勝者などの利用もあったことだろう。
33.3パーミル勾配上に位置して、この線に山形機関区による2往復の気動車(普通)列車運転の在った頃、抗口から洞内の5パーミルに緩むまで僅かとは云え、その発車シーンの凄まじかったことは書いておく。
トンネルの抗口に信号場の本屋。光跡を残すのは816M<仙山6号>の455系電車である。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5S Bulb@f5.6 NONfilter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.


北小谷 (大糸線) 1987

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かつて全国各地に散在した杜氏集団の多くは集団とは呼べぬ程に人数を減らし、中には既に消滅したと思われる地域もある。
残念乍ら最新の資料は手元には無いのだが、2002年度の杜氏組合を資料に見れば、南部杜氏が300人を越えて突出している他は但馬杜氏、丹波杜氏、能登杜氏が続く程度である。越後杜氏組合の300人を越すけれど、これは県内の杜氏組合を一本化したゆえであり、野積・越路・刈羽・頸城・小千谷などの杜氏集団に往年の勢いは無い。広島地域や九州島内に至っては各地区で組合を維持出来なくなっての統合で、それでも50人を越えるに留まる。
これは、杜氏-現代で云えば酒造技能士一級保持者-の総数が激減している訳では無い。農村や山間地などからの杜氏に率いられた農民の一群による季節労働としての酒造が終焉を迎えているのである。
江戸期における寒造りの定着以来に、寒村の農民による酒蔵への出稼ぎは村の誇りとされていた。熟練した酒造技術者である杜氏に率いられた技能集団は「酒男」と呼ばれて、富を持ち帰る村の誇りだったのである。年少者のあこがれの姿であり、いつしかそれに加わることを念じても、杜氏の親戚や親が親しいでも無い限り参加出来ぬ集団でもあった。
しかしながら、農村の豊かとなる戦後となれば、凡そ半年を故郷と家族と離れての生活が嫌われ、酒造集団への志願者の減り、仕舞いには杜氏が育たなくなったのである。この季節労働による酒造形態はまもなくに絶滅するであろう。
替わっては、杜氏不足に対して蔵元自らが酒造技能資格を取得しての酒造、蔵人は地元からの通勤による通年雇用が一般化しつつある。酒蔵の在る地域の若者達にも人気の勤務先であるらしく、次世代の杜氏は彼らから生まれることになろう。

長野県北部、北安曇郡の小谷村も小谷杜氏を輩出して来た地域である。この山村もまた雪に閉ざされる冬の生業を必要とし、戦前の最盛期に酒蔵へは300人程が出掛けていたと云う。一つの技能集団は7・8人で構成されたから、この中での杜氏は40人前後、行き先の蔵もその数になろうか。当時に1400戸程の世帯数に、そこから働き手の一人が参集したとすれば、凡そ5戸に1戸は「酒男」を出していた計算になる。
先の資料に、既に小谷杜氏組合の名は見られず長野県杜氏組合に一本化されてしまっている。それから小谷村出身者を拾うと14人であった。酒蔵自体の減少を思えばそれほどに減っていない印象だけれど、その高齢化は着実に進んでいる。最早地元から蔵人は集められず、杜氏が単身で蔵に赴くのがほとんどと聞く。

急流の姫川が削り、大量の土砂を運んで埋めた谷は広く、その全てを河床と化す。この攻撃斜面にあたる築堤の区間は1995年7月の大氾濫にて流失の被害に遭っている。
列車は439D、糸魚川行き。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S 1/250sec@f5.6 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

杉原 (高山本線) 1998

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1932年8月20日に開駅した杉原は宮川へと落込む斜面に設けられ、乗降場と本屋に高低差のある信号場のような造作の停車場である。R=700Mの緩い曲線を描く構内は、その例に漏れず趣の鉄道景観を見せてくれた。ここには「飛騨最北の駅」との標柱が建てられているとおりに、高山本線はここから峡谷を刻む宮川の谷を隧道と橋梁の連続する線形にて県境を越え、富山県婦負郡細入村の猪谷へと至る9キロあまりに停車場を持たない。
同じく谷を辿る旧越中西街道の国道360号線も、2000年に細入バイパスと細入宮川道路の一部として新道の供用されるまでは、国道とは名ばかりの冬期間には閉鎖される細道であり、ここは確かに飛騨地域の最深部なのだった。

この高山本線の北部区間(勝手に高山北線と呼称している)に頻繁に通うようになった1990年代前半には、個人事業主と云う仕事上の利便から普及の始まった携帯電話を既に手にしていたのだけれど、所謂県境に接する山間僻陬の地にあたる沿線は、当時には当然ながら携帯電話の利用圏外だった。普及途上だからリアルタイムの着信にはあまり気を使わなくても良かったが、発信や留守録された伝言を聞くには公衆電話に頼らざるを得ず、外来者の余り無いこの地域で公衆電話ボックスの設置は坂上駅至近の宮川村役場構内に杉原駅前のみであり、角川の駅前商店、打保の簡易郵便局の局舎内にはそれの閉店後の利用は出来なかった。
角川や坂上は比較的早くに基地局が設置されて、不便も解消したのだけれど、坂上から10キロ余りを隔てた打保とさらに奥まった杉原の利用圏外は永く続いた。その中で杉原駅前の公衆電話が利用の少ないとして撤去されたのには困ってしまった。他に設置は、駅から延々と斜面を上った白木ヶ峰スキー場下に開設されていた村営温泉施設しか無く、一日を撮影に歩き回った挙げ句の登坂往復には辟易したものだった。
実を云うと、この不便を同じく撤去されてしまった駅待合室へのストーブ再設置と合わせて宮川村役場にメイルで訴えたことがある。担当者からの返信は「検討させていただきます」との形式的なものだったのだけれど、半年程を経て駅からやや離れた位置に、ボックスでは無くスタンド形式ながら公衆電話の再設置されたのには驚いた。まさか、個人の要望が受け入れられたとは思えないが、携帯圏外の実情に役場も必要性を認識し、その要求をNTTも基地局設置予定の無いことを前提に受け入れたのだろう。

写真は杉原場内に進入した1025D<ひだ5号>。
ホーム上の積雪がこの画角の邪魔をするものだから、駅前の民家でスコップを貸してもらい1時間程かけて除雪している。
当然に勘違いなのだが、当の民家住民にはえらく感謝されたのを思い出す。

2004年10月の台風災害からの復旧に3年振りで打保に降り立つと、そこには基地局のアンテナが建てられていた。杉原でもその電波を辛うじて受けたのだけれど、通話状態の悪いことこの上無かった。

[Data] NikonF5+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D 1/125sec@f5.6 NON filter Ektachrome Professional E100SW [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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