70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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田立 (中央本線) 1973

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中央西線の南木曽-田立間は、同線の電気運転化に合わせての塩尻中津川間線増計画にて複線の別線に切替られた区間である。新線は南木曽構内にて分岐し、木曽川左岸を兜トンネル(l=1015M)で通過、新第五木曽川橋梁(L=92M)で右岸に渡河し、島田トンネル(l=2551M)にて既設線田立付近の東京起点315K500Mに至る4.8キロ余りで、読書発電所付近の第五木曽川橋梁から島田ダム貯水湖畔を辿っていた旧線に対して276Mを短縮していた。新旧接続位置の315K224M地点には、これを既設線の315K500Mに読替える距離更正点がある。
南木曽は位置こそ変わらなかったが構内を新線上に移設し、その新旧接続地点付近に在った田立は、この際に信号場を出自とする位置を集落からの利用の利便を図って1.5キロほど名古屋方の316K680M地点へ移転した。
切替は1973年5月25日のことで、同時に塩尻-中津川間の電気運転設備への通電もなされ、これにて同日より木曽福島-中津川間の貨物列車上下12本で電蒸運転を開始、27日からは全区間に拡大された。即ち、7月10日と決定していた中央西線の全線電化開業を左右する最終工事区間だったのだが、それには理由があった。新旧線路盤は、新線の設計上にその新第五木曽川橋梁東京方の木曽川左岸にて、旧線をやや上に高低差のほとんど無く平面交差していたのである。この位置へ線路を挿入しなければ新線は開通しない。当時に旧線列車の車窓に、その位置を除いてほぼ完成した新線を見ている。
その切替作業がどのような手順で行われたものか、国鉄岐阜工事局の残した工事誌へ当然に記録はあるのだろうが、部内文書のそれに接する機会には恵まれていない。事前に旧線側を仮桁で仮設線化して仮橋脚で支え乍ら新線路盤を構築したものと推定するのだが、当時に同地点を見に往かなかったのが悔やまれる。

とまれ、電化柱の建つことのなかったこの区間は、その最後の日まで多くの鉄道屋を集めたのだった。
写真は、第五木曽川橋梁から続く盛土区間を南木曽へと上る5881列車。夕暮れも間近い時間の運転であった。

中央西線区間の補機は塩尻-木曽福島間の前位に対して、木曽福島-中津川間の下り列車は後機を定位としていた。これはそれぞれの区間での隧道の配列上とも聞いたことがあるが、上り列車も補機を要した落合川-中津川間の落合川配線上からの後位定位を、中津川での作業上に全区間へ適用した故ではないかと思っている。木曽福島からの上り補機回送の前位連結にもそれは見て取れようか。
なお、蒸機運転当時の塩尻-中津川間のD51による貨物列車の牽引定数は480であった。これがEF64による電気運転では740となり、しかも480t牽引時の10‰勾配の均衡速度も26km/hから46km/hに向上したから、ここの電気運転化は貨物列車の本数減に基準運転時分の短縮が機関車や要員の大幅な削減をもたらして、それの線区経営に資する典型と見えた。

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor50mm/F2 1/125sec@f4 Non filter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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仙台 (東北本線) 1971

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1971年3月20日より運転を開始した<あおば>には、運転初日の上下列車に乗っている。春休みの渡道に合わせてのことだが、その途上で仙台から秋田を往復したのである。
1968年10月の改正における特急列車の増発と運転速度向上にて、その全国的なネットワークの深度化の図られたとは云え、線路の繋がっていない北海道を除けば、特急列車とは首都圏ないし関西圏あるいは名古屋を起点の設定と云う当時に、地方都市間連絡は1967年10月1日より門司港-西鹿児島間に運転していた<有明>に次ぐ設定であり、これが最初の事例だった北上線のごとき地方支線区への特急運転に興味を抱いた故であった。

上野まですら3時間53分の実現していた当時に、陸東線・北上線・田沢湖線と各線経由の急行列車の在りながら最短でも4時間半強を要していた仙台-秋田間の輸送改善は国鉄東北支社の課題のひとつであった。その中での1970年2月の奥羽線<つばさ>へのキハ181系気動車投入は千載一遇の機会と映ったに違いない。この区間の到達時分短縮に、線路規格の低い奥羽線内や支線区間での運転速度向上は困難ではあるけれど、この高出力機関搭載系列を用いれば、軌道の整備された東北線内を電車並みに走行可能な上に、2往復の<つばさ>は運用上に秋田で丸一日近い滞泊を余儀なくされていたのである。そして北上線経由運転は両駅間を結ぶ最短距離であった。
本社内には一部に残った反対を押し切っての設定は、当初に(毎日運転の)臨時列車であり、<つばさ>編成に中間電源車として組成のキハ181の向きを上り向きに方転して、それを含む下り方の6両使用の全車普通席の編成(この時点でこれを附属編成とした)ではあったけれど、この臨時特急は、4時間を切る運転時分にまずまずの成功を収め、半年後の1971年10月1日改正にて尾久区への増備による<つばさ>編成増強を背景に、同編成上り方の特別車や食堂車を含む6両(基本編成)運用に改められて、特急としての面目を一新したのだった。

写真は仙台駅6番線に入線した8021D<あおば>の一番列車。隣では地元新聞のカメラマンもシャッタを切っていた。
1番ホームからが大半の下り優等列車に、本屋から最も遠く上屋も半分しか覆わない6番ホームは些か寂しいが、仙台運転所からの回送には致し方ないところだろうか。発車に際しては仙台鉄道管理局の吹奏楽隊も参加した出発式が挙行され、途中北上線内の停車駅となった陸中川尻ではホームから溢れんばかりの地元住民の集まる中で、湯田町による歓迎式も行われ、また車内ではここから乗り込んだ観光協会からの記念品の配布もなされたのだった。

秋田では、その近郊で蒸機を撮影して過ごし、なまはげも登場した出発式の行われた夕方の上りにて仙台へと戻っている。
東北支社の力を入れたはずの特急列車にかかわらず、途中停車各駅の構内アナウンスが<あおば>と呼称せずに「臨時特急」と繰返していたのが気になった乗車ではあった。そう云えば、目黒駅で購入したマルス103のV型端末からの特殊指定共通券での発券も、当然に活字棒の準備の無くて別途「特急券」「臨時」と押印されていた。
実は、<あおば>にはその最終運行となった1975年11月24日の上り12Dにも乗りに出掛けている。都内からの到達の関係で陸中川尻での乗車だったけれど、車内は普段と変わらず、特別の車内放送も無しに淡々と仙台に終着したのだった。
編成は秋田に戻ること無く、翌日に尾久へと有火回送された。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2 (Data unknown) Y48 filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

豊後中川-天ケ瀬 (久大本線) 1987

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20年程前と思う。「人麻呂の暗号」なる単行本が年間ベストセラーとなり、後に文庫本化もされたはずである。その成立に、時の政権に深く関与した柿本人麻呂がかかわったとされる「万葉集」の未解読の歌が古代朝鮮語でいとも容易く読み解け、そこに権力者の意図が炙り出される、とした内容だった。その時期に日本放送協会も同趣旨のドキュメンタリィを制作、放映したことも手伝って話題となったゆえ、ご記憶の向きも多かろう。
当時に書店で手に取った帯のタタキ(宣伝コピィ)の胡散臭さに読むことはしなかったのだが、それへ賛同する出版も続けば、案の定に国文学や言語学の研究者からの反駁も行われたのだった。両者間で学術的に冷静なやり取りも行われたようではあるが、多くはイデオロギーに固執した論戦に終始して辟易したのも覚えている。これは現在にも尾を引いていて、この分野に限らず、日韓に跨がらざるを得ない諸研究は両国ともに国粋主義的外野の声が大き過ぎるように思う。

イデオロギーがどうあれ、海峡を隔てた朝鮮半島と九州島では古より往来の行われて文化の移出・流入のなされたのは疑いようが無い。
大分県玖珠郡と旧日田郡への玖珠川流域には「ツル」地名が連続し、国内におけるそれの分布重心を成している。「ツル」とは10世紀より以前に区分の古代朝鮮語からの移入と謂われ、「水流」を意味する日本語の「つる」に転訛したとされる。川の大きな屈曲部や蛇行した流れををそう呼んで、そこに開けた僅かな平地の地名となったものだろう。鶴や弦、津瑠、都留などの字が当てられたが、ここでは全てが「釣」であり、ざっと地形図から拾っても、玖珠町、九重町、旧湯布院町、旧天瀬町、日田市の地域に23の字名を数える。現在まで残らなかったもの、国土地理院に採取されなかった地点も在るだろうから、実数は遥かに多いと思われる。
ここにこれだけ集中は、日田地域に存在したと云う古代王権と関わりの在りそうだが、それは門外漢ゆえ識者に譲る。

豊後中川から天ケ瀬に至る現在の日田市天瀬町合田地区には、玖珠川下流から豊後中川駅の所在する下ノ釣を始め、上ノ釣、山ノ釣が見て取れる。確かに、何れもが玖珠川の谷を形成する急峻な斜面を背にした水流屈曲部の集落である。上ノ釣からはその斜面を打越集落へ通づる道路が這い上がっていて、第五玖珠川橋梁の俯瞰を試みるが樹木に遮られて叶わず、上方斜面に一件だけの民家にお邪魔して、その勝手口の軒先から撮らせてもらった。得体の知れぬ他人を快く導き入れて下さってこそのカットである。
橋梁上の列車は603D<由布3号>。
編成の中央はキロ28の格下げによるキハ28 5200番台車。当時に300円の座席指定料金で特別車設備を楽しめる乗り得く車両だった。大分運転所へ<由布>仕業用に3両が配置されて居た。
橋梁下を横切るのが、豊後中川-天ケ瀬 (久大本線) 1986 に書いた沈下橋である。

[Data] NikonF3P+AiNikkor180mm/F2.8S 1/250sec@f4 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

湯野上 (会津線) 1973

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国内に唯一の事例だそうである。1920年代から30年代に駅舎建築に優れた意匠を残した鉄道省も、中央本線日野のように農家を模した例はあるにせよ、さすがに屋根を萱で葺くことはしなかったのだけれど、この会津線が福島県と本店を福島市に置く地方銀行の東邦銀行を公共・民間それぞれの筆頭株主とする第三セクター経営の会津鉄道に承継されて以降の1987年12月に建替られた、湯野上の駅本屋は茅葺き屋根を戴くのである。
それを知らずにいたものだから、単なる観光旅行でほぼ20年振りにここへ降りた際には些か面食らったものだった。
観察すれば、深い寄せ棟に切妻屋根を十字に配して向拝までも設けた、木造漆喰壁の本格的民家建築であり、内部(内装)も古民家風に設えられ、萱の維持に不可欠の囲炉裏も置かれて実際に屋根を燻している。重要伝統的建造物群保存地区である下野街道大内宿のゲイトウェイを意識しての観光駅舎に違いないが、近年に見られる「なんちゃって建築」とは一線を画しており、周期的にやって来る葺き替えを含む維持・管理からも、この第三セクター鉄道単独ではなく、地元下郷町との観光フロントを兼ねての共同事業であろう。乗車券類の販売ばかりでなく、日常の管理も下郷町が受託している様子であった。

観光フロントと思えば茅葺き・囲炉裏にも納得も往き、古民家の再現に手抜きをしなかった当事者の姿勢も評価されて然るべきだが、ことさらに「駅舎」を強調されると鉄道屋には違和感も残る。R=700からR=350で緩く曲線を描いた構内に上下乗降場が往時の姿を留めているだけに尚更の感が強い。特に乗降場に林立する幟旗には興醒めした、と書いておく。
こじんまりと端正にまとまって、乗降場側へ入母屋風に回された庇も好ましく、鉄道省による「小停車場駅本屋標準図」(1930年10月6日工務局達第875号)に示された1号型図面に準拠したと思われる、それこそ山間のルーラル鉄道に相応しい赤い屋根の本屋を知る身には、駅舎に板敷きの小上がり風フロアの囲炉裏端は、やはりそこが駅とは思い難いのだった。

下り線に停車するのは1391列車。ここで対向の324Dを待つ。
画角を邪魔する、使われなくなった通票授け器のマル印は、次駅桑原方の通票第一種の確認用表記である。
春浅い3月。櫻の蕾もまだまだ固く、それに集まる乗客達の皆の長靴姿は融雪に山間の道が泥濘むのだろう。

[Data] NikonF photpmicFTn+P-Auto Nikkor105mm/F2.5 1/250sec@f4 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

寄居 (八高線) 1996

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宗像神社と聞けば、やはり玄界灘に接する筑前の宗像大社を思い浮かべるが、この寄居の社もそれが総本社である。701年の創建と云うからかなり古い。古代からの交通路ながら暴れ川だった荒川の鎮めに、その分霊を勧請したのは道主貴(みちぬしのむち)たる水上交通の守護神ゆえのことだろう。
819年にこの地を訪れた弘法大師が荒川断崖の象ヶ鼻を霊地と見て聖天像を残すと、神仏混淆の時代にそれは象ヶ鼻を上宮、宗像神社を下宮に配祀した聖天宮として祀られ、以後には永くその名が残ることになった。けれど、その時代に在っても上宮を沖津宮、境内社の弁天社を中津宮、そして下宮を辺津宮としたのは宗像大社に擬えてのことだろう。ここが再び宗像神社と呼称されるのは、1868年の神仏分離令以降である。
いずれにせよ、秩父街道の宿場として、また鉢形城の城下町としても発達した寄居の鎮守で在り続け、現在に、本町/中町/栄町/武町/茅町/花町/宮本/常木/菅原の九つとされる氏子地域は寄居町の旧市街地にあたる。

現在に11月初めの秋季大祭では、本町/中町/栄町/武町が年番で設営する仮宮との渡御・環御に氏子町内からの7台の山車が牽き回される。江戸時代後期の製作であるらしいそれらも見事だけれど、その保管庫たる背の高い山車蔵の佇まいも年に一度の祭りの賑わいを秘めるようで好ましい。
社の鎮座する現在の藤田地区、古くは六供とも呼ばれた宮本町の山車蔵は神社に隣接して所在した。高山線からの帰り道に寄居へ初めて降り立って、荒川橋梁への道すがらにこの景観に出会うと、それの南北方向への架橋には祭りの秋の低い光線を想ったものだった。ここでの紅葉黄葉は大祭を過ぎた11月の中旬にやって来る。

山車蔵の在る風景。列車は5261列車。信越本線川中島に在った秩父セメントデポの専用線発5470を、八高線内定数の関係から八王子で5261と続行の5263に分割したセメントホッパ車の返空回送列車であった。財源が少なければ5263は運休となる。寄居へ7時前の到着は、この景観には理想的な光線と云えた。

[Data] NikonF4s+AFNikkorED180mm/F2.8D  1/125sec.@f4 NON filter Ektachrome Professional E100S [ISO200/1EVpush] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

岩出山 (陸羽東線) 1971

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上野からの夜行<いわて>を早朝の小牛田に捨てての陸羽東線の撮影は、直ぐに接続する723Dに乗継げば陸前古川で追いつく1791列車から始まる。奥羽山脈越えの核心区間に急ぎたいところだが、それは川渡までの運転ゆえ西岩出山(現上野目)の橋梁か、さもなくば岩出山の駅に降りるのが定番だった。そこには5760列車も到着していて構内に2台の蒸機が煙を上げることになる。

岩出山は、1591年に領主となった伊達政宗がそれまでの岩手澤を改めて以来、およそ400年間に渡り伊達家の城下として形成・発展した。1947年に米軍の撮影した空中写真にも羽後街道(現県道226号岩出山宮崎線)沿いに間口の狭くて奥行きのある町家と思しき街並の連続する様が見て取れる。この頃までなら江戸期からの多くの建物が残されていたのだろう。今でも、酒蔵に味噌蔵、醤油蔵に麹屋、それらに麹菌を供給した微生物商売のもやし屋までもが所在する情緒在る街である。
1913年4月20日にここへ達した陸羽線は羽後街道東側を迂回して街中を通過することのなかったが、翌1914年4月19日開業の川渡までの延長線がその北端を横断していた。
この当時に、そこまでを承知していたでは無いものの、その趣には惹かれるところのあり、街道沿いの古い街並と組合せを狙って周辺を彷徨いたのだが、バイパスも建設途上の街道は交通量も多く気に入った画角は得られなかったのだった。この辺りのことは 岩出山 (陸羽東線) 1972 にも書いている。

写真は、そのひとつ西側に所在した河原町踏切(起点25K613M)である。曖昧な記憶だが、街並を諦めての画角であろう。当時に羽後街道と並行に有備館から城山下へと通じていたこの道は土道であった。警報機は付帯しても遮断機の無い第三種踏切も、今ではほとんど見ることが無い。森民酒造の蔵がこの少し先に在る。
接近する列車は勿論、岩出山を出発した1791列車。まもなくに第一荒雄川橋梁への築堤を上る10パーミル勾配が始まるので、機関車はこのままに力行して往く。
なお、踏切は今では河原街道踏切と名称が変わっている。

[Data] NikonF+P-AutoNikkor50mm/F2  1/500sec@f5.6 Y48filter  NeopanSSS  Edit by PhotoahopCC on Mac.

甲斐大島 (身延線) 1996

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トンネルよりも小学校が先だったのである。
富士川沿いの田園風景を撮るつもりで甲斐大島に降り、和津の伊勢神明宮に向けて宮の下踏切(起点39K874M)まで歩くと彼方の大島トンネル上部に平坦な土地が見えた。集落を抜けてやがては坂道となる田舎道を辿れば、建てられた記念碑にてそこがかつての小学校跡地と知れた。

此処に在った大河内小学校大和分校は、1902年1月に創設された大河内村の大和尋常小学校をその直接の前身としていた。1955年2月11日付にて身延町と合併した大河内村は、かつての身延町の富士川対岸に大島地域から帯金地域に至って所在した自治体である。その南部の大島地区と和田地区には1875年に相次いで教習所が開かれ、それぞれ大島学校、和田学校と称していた。これが1884年に合併して大和学校を名乗り、やがては大和尋常小学校へと改組されるのである。お判りの通り「大和」は地区名の合造であり、本来なら「おおわ」とするべきだろうが「やまと」と読んだ。
この大島トンネル上の敷地へ校舎を新築しての移転は1904年9月と記録される。大島と和田のほぼ中間、大島字的場の山腹斜面を削る大規模な土木工事は、学校が地域/地区の象徴的存在だった当時に、その校舎を両地区から見通せ、また子供らに自分達の地域をそして富士川を校庭より見下ろす視点を与えたかったものだろう。

1919年4月8日に甲斐大島までを開通し、翌年5月18日に身延へ延長の富士身延鉄道は富士川左岸まで山稜の張出したこの地点を隧道で通過する他には無く、ここに大島隧道が建設された。余り類例の無い学校敷地下の隧道である。
1970年代の末、北区赤羽台地内の東北新幹線通過に際し星美学園敷地へのトンネル建設には、散々揉めた挙げ句に多額の賃借料にて決着した事件が記憶に新しいけれど、ここは待望の鉄道路線であり、電気運転にて煙に燻されることもなかったから、寧ろ学校のシンボルとして歓迎されたに違いない。

写真は、その校庭跡地から見下ろした4001M<ふじかわ1号>。
ここは和津集落からトンネルに向かって気持ちの良い盛土区間が続いていた。

戦後の大河内村立(→身延町立)大和小学校は、1972年に帯金小学校と併合されて大河内小学校大和分校となり、翌73年には本校の身延町丸滝への移転に際してそれに統合、廃校となったのだった。『身延町誌』(1970年身延町誌編集委員会編)には1934年の台風被災にて建替えられたと云う好ましい木造校舎が示されている。健在な当時には良い添景となってくれたことだろう。

[Data] NikonF4s+AFNikkorED180mm/F2.8D  1/250sec.@f5.6+1/3 PLfilter Ektachrome Professional E100S [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

岩村 (明知線) 1973

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明知線は、三河と境を接する東濃への山中に点在する小さな盆地を連絡する線形が選ばれていた。その盆地ごとに集落の開かれていたから地方開発線としては当然であろう。この地域は平安期の古より遠山荘(庄)と呼ばれた荘園であり、鎌倉幕府成立後の1195年頃(1185年説もあり)に地頭を拝命した遠山氏が居城を置いた岩村が、その中心地であった。城は当初には現在の岩村町富田地区への平城と推測されているが、時代の戦国へと遷移する1400年代末期に岩村川右岸の山稜に築城して要害堅固な山城とした。本丸の標高は717メートル(721メートル説もあり)に位置し、麓との比高は180メートル余りに達した。後年に「岩村城」とはこれを指す。

その後も富田地区に残った城下は女城主の伝説を産んだ戦乱にて焼き払われ、現在の岩村市街地は江戸期に松平家の支配下で発展したものであろう。それは城山を正面に仰ぐ緩い坂道の街路沿いに、現在の本町あたりから次第に西側へと形成されたものと思われ、その両側には趣の在る古い街並が続いて、1787年創業と伝えられる「恵那乃誉」の酒蔵もそこの一角に所在した。
岩村醸造の近年の酒銘「女城主」に出会ったのは都内某百貨店の酒売り場だった。飛騨地域は勿論のこと西濃の酒には親しんでいたけれど東濃地方の産は初めてで、それが木曽地域の酒質とどのように繋がるのか興味を惹かれたのである。岐阜県酒らしく「ひだほまれ」の50パーセント精米の純米吟醸は、やや酸味の立てながら軽くしまった味わいに深く感じ入る酒であった。

1972年から73年の幾度かの中央西線往き以来、久しく忘れていた明知線に乗ったのは20年余りを経過した94年のことだった。仕事先の名古屋でスケジュールの空いてしまい、この蔵への訪問を思い立ったのである。線路は既に明知鉄道の経営に移って久しかったけれど、岩村の駅は記憶とほぼ同じ姿で存在していた。そこまで運んでくれた富士重工製のLE-Carの安っぽい造りは些か興醒めとしても、中部地域で最後と云われた通票閉塞に梃子扱いの腕木式信号機が維持されていたから尚更にそう感じたのかも知れない。

訪ねた岩村醸造の蔵は、地方の素封家らしい屋敷をともなって如何にも美味い酒の醸されそうな趣であった。かつては、このような酒蔵や味噌蔵、醤油蔵には良く設備されていたトロッコ軌道が、ここでは格子戸を開けた店先から奥の醸造蔵までの100メートル程に現役当時のままに残されて、よく見ると店頭の陳列台に使われていたのはその台車であり、未だに稼働可能と聞いた。鉄道屋とすれば。ますますに感じ入らざるを得ない蔵なのだった。

写真は、岩村の貨物側線から出発して往く464列車。2往復の設定されていた貨物列車の午後の上りである。いつも、ここで貨車1両を拾っていたのだが、定形出荷の積荷は何だったのだろうか。
岩村城に修理夫人こと女城主の伝説については、恵那市岩村町のポータルサイトに簡潔に記されている。

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor50mm/F2 1/125sec@f5.6 Non filter Kodak unknown film(ISO100) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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