70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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梅ケ谷 (紀勢本線) 1983

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天王寺-名古屋間を紀勢本線経由にて連絡する特急列車の運転開始は1965年3月1日のことであった。
当時に国鉄は、1957年度を初年度とした第一次五カ年計画、それを途上で打切っての61年度からの第二次五カ年計画による老朽施設更新、幹線輸送力の増強に近代化を背景に主要幹線のみならず地方幹線に至る特急列車網整備を進めていたのだが、準急のみにて急行列車すら設定の無かった線区、区間への特急設定は異例であり、その強い意欲の現れと見て良いだろう。
紀勢本線での優等列車による輸送実績は大半が白浜口(現白浜)への観光客輸送であり、天王寺からの160キロ余りは特急運転を要しないとされて、それの大幅増発のなされた1961年10月改正では見送られた経緯がある。しかしながら、同改正で設定の山陰線特急が時期尚早と云われながらも、大阪・京都よりほぼ同距離である城崎方面への観光輸送に加えて、対地方都市間輸送も想定外に堅調で、64年3月の松江から博多までの延長に自信を深めての設定と思われる。一挙に名古屋までの運行は、特急列車に相応しい長距離運転と紀勢線東部区間での需要開拓も意図してのことだろう。けれども、大阪府南部や奈良と名古屋連絡の関西線特急と共通運用にて両立を図った設定は、双方とも名古屋口での利用には不便であった。そもそも直通旅客の考えられないこの列車は、白浜や新宮などでの旅客の入れ替わりを前提にした多目的設定だったから、関西線特急運転ゆえのそれは不適切としか云えなかった。
これは、67年10月改正での関西線特急の廃止時には改められず、68年10月改正にて下りの時刻が繰り上げられてようやくに解消した。

1964年度末時点にて紀勢本線は僅かに海南-東和歌山(現和歌山)間の線増が完成したのみであり、特急運転際しては双子山と梅ケ谷の両信号場が開設された。梅ケ谷は、多気から宮川-大内山川-梅ケ谷川と谷を詰めて来た線路が熊野灘の沿岸へと下り始める荷坂トンネル入口側の亀山起点89K460Mに置かれ、その施工基面高の192M70は紀勢本線での最高所でもある。海岸線までは直線距離にて6キロ足らずの位置であるから、紀伊半島の地形の険しさが知れる。
特急設定時のダイヤで上下行違いは船津だったのだが、大内山-紀伊長島間11.5キロがダイヤ構成上に特急列車運転を阻害とされたのであろう。
ここは、地元の大内山村(当時)から駅設置要望の出されていたこともあり、1965年11月1日付にて駅に昇格したけれど、信号場からの運転要員の配置はあったものの営業窓口の開かれること無く実質的に無人駅であった。

写真は、梅ケ谷で離合する5D<南紀5号>と6D<南紀6号>。手前側、通過列車が6Dである。
高山線の<ひだ>もそうだったけれど、道内の気動車特急を見慣れた眼には、この列車には特急としての威厳が全く感じられなかった。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F2.5S 1/125sec@f4 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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上芥見-白金 (名古屋鉄道・美濃町線) 1987

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上芥見 (名古屋鉄道・美濃町線) 1986 に書いた、道路傍らを往く併用区間には、間に合わなかった花巻電鉄や福島交通の溜飲の下がる想いのしたものの、それらの廃止直後にここを知っていれば、その道路はまだ未舗装の田舎道だったから悔やみもする美濃町線である。
それでも、軌道線の低い乗降台には不釣り合いな鉄道駅然とした美濃や新関の駅舎(そこでは、かつてには手・小荷物や貨物も扱ったことだろう)や、通票(スタフ)授受の運転要員一人だけが常駐していた併用軌道区間の競輪場前、野一色に日野橋の小さな詰所、かつては各停留場に存在したであろう乗車券販売窓口や待合所の名残など、このようなルーラル鉄道をほとんど撮っていなかった身には、どれもこれも物珍しく見えたのだった。狭い路盤に玉砂利だけの薄い道床、木製の門形架線柱は70余年前の美濃電気軌道とさほどに変わらぬと思えた。

この1980年代半ばには、沿線での団地や宅地開発の進んでいたけれど、それも下芥見あたりまでのことで、そこから国道156号線を新設軌道区間に回り込めば、まだまだ穏やかな農村風景が広がっていた。
白金を過ぎて少しだけ県道287号線を走るところや、神光寺から美濃へ勾配区間も愛おしく思えたものの、白眉とするのは、やはり上芥見付近だろうか。しかも、ここでは白金に向けて併用軌道を離れると、44パーミルもの勾配で築堤を上りながら90度転回して津保川を渡っていた。この線区で最長の津保川橋梁である。軽い車両ばかりの小さな負担力にて設計の鈑桁橋梁は、とても華奢に見えたものだが、それには似合いの好ましいプロファイルだった。
堤防をしばらく歩いて振り返ると、傾いた茜空に枯れ野の川筋が見えた。
橋梁を渡るモ600型は、新関行き。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S 1/125sec@f5.6 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

鉄道管理局前 (仙台市交通局・長町線) 1972

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仙台駅より少し離れた東五番丁交差点近くに不思議な商業施設があった。地元ではエンドーチェーンと呼ばれ、つとに高名であったらしい。
愛宕通り(電車通り)に面した6階建て程の店舗ビルの後側に8階建を増築した、かなりの床面積を持った広い店内と記憶する。正面入口を入るとそこは吹き抜けになっていて中央にはイヴェントステージと地元ラジオ局、東北放送のサテライトスタジオも併設されていた。目にしたスケジュール表には歌手の名が並んで、彼らをゲストとした番組の放送が行われていたようだった。
吹き抜けの造りとはお洒落なイメージもあるけれど、食料品に雑貨から衣料品、家具、家電に食堂、果てはボウリング場までの規模の店内を歩いてみれば、どうにもイナタイのである。規模はデパートなのに、どこの売り場もそれの高級感とはまるで正反対の安売りPOPの吊り下がっていたように覚えている。
この少し後になれば、関西拠点のダイエーが全国に大型店舗にて進出し、所謂大型総合スーパーと言う店舗形態も理解出来ただろうが、当時の札幌にも知る限りの都内にも見かけなかったスタイルなのだった。なんと表現して良いか分からないが、強いて言えば、近所だった三軒茶屋茶沢通り商店街のそれぞれの店が一箇所に集合した感覚だろうか。
その数年後に写真学校で知り合った仙台出身者に問うと、もともとのスーパーマーケットがその旗艦店として仙台駅前に進出したものと知った。そこは子供にはパラダイスだったと云う。市内や宮城県下に多くの店舗を展開して、意味不明の店名は確かにエンドー「チェーン」だったのである。

その駅前エンドーチェーンの北東角に取付けられていた看板が写り込んでいる写真は、おそらくは東五番丁交差点を越えた緑屋の屋上からではないかと思うが、記憶は曖昧で定かでない。北目町通りとの交差点に位置した鉄道管理局前停留所に差し掛かるモハ400型は、1系統-八幡神社前から県庁を経由しての長町駅前行きである。背景には長町方から仙台駅進入の曲線が見えていて本線列車との組合せを目論んだものだろうが、粘ってもタイミングの合わなかったのか、そのカットは見当たらない。
今となっては、新幹線の高架が通過して様相の一変してしまった背景の方が気になる写真ではある。画角の線路4線の中2線が上下本線で、右が下り入換線、左側が上り南入換線、そのさらに左側に廃された仙台市専用線の名残があるはずだが確認出来ない。コンクリート建築は仙台電力区と通信区の詰所だった建物で、今は取り壊されて民間の葬祭場が建つ。手前側に見えるのは本線構内進路構成の南部信号扱所、その隣の画角外れは南部梃子扱所で貨物積卸線の進路構成をしていた。
この年の12月に仙台駅は仮駅舎に切替えられ、新幹線の建設工事が本格化した。

この仙台駅前のエンドーチェーンは、90年代に至ると郊外型大規模ショッピングモールとの競合に破れ、小売り戦線から脱落して往くのだが、それに匹敵する時代の先取りだったようにも思える。これを書くに調べていて、その建物自体の健在を知った。旧電車通りに面した1963年建築の旧館は先の震災にて4階より上を失うも、1972年増築の新館の写真には確かに見覚えがある。

[Data] NikonF PhotomicFTN+AutoNikkor200mm/F4 1/250sec@f5.6 Y48filter  NeopanSSS  Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

戸田小浜 (山陰本線) 1974

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北の育ちなものだから、東京に転居してもしばらくは北の方が気になり、鉄道屋としても北海道や奥羽地域にばかり通っていて、1974年に幾度かの山陰方面への旅は神戸以西に足を踏み入れる初めての機会だった。なので西国の事情には疎かったのである。

道内版のほうに、北海道(少なくとも子供時代を過ごした札幌地域)では穴子をハモと呼び習わしており、随分と後になって西国の所謂鱧料理に出会い、頭の中をクエスチョンマークの飛び交った話を書いたことがあるけれど、この山陰方面ではラーメン(中華そば)にやられた。
最初は鳥取の駅前食堂だったと記憶するが、そこで注文した旅の定番食には、どう見てもタンメンらしきものが運ばれて来たのである。食べてみてもそれは正にタンメンであり、列車時刻の迫っていたこともありそのまま店を出たのだった。二度目はずっと西に下っての江津駅前である。ここでの注文にもそれはタンメンだった。さすがに店主へ間違いでは無いかと質すものの間違いなくラーメンと返答され、この地域(具体的にどの辺りまでかは分からないけれど)では、どうやら自分達の呼称するところのタンメンをラーメンと称すと知った。では、かの鶏ガラ醤油スウプのラーメンはと問えば、店主は品書きを指差して云うのだった。「ほら、あそこ。正油ラーメン」。なるほど。
遅まきながら、ごく一般的な食べ物が地方により呼称の異なるのを知る最初の機会であった。40年前のことであり、今では事情の変わっているかも知れない。

同じようなことは、1980年代に高山線撮影で立ち寄った名古屋でも経験し、そこでは「カツ丼」にしてやられた。それが全ての店でないことは後に知るけれど、カツ丼を頼んで出て来たどんぶりには、ご飯の上にトンカツと千切りキャベツが載っていたのである。これは、どう見てもカツライスだ、と店主に問うても「いいや、カツ丼だ」と言い張られて困ったものだった。そこでのカツライスとは、トンカツとキャベツが別皿、即ちトンカツ定食の様式を指すのである。カツを甘辛く煮て玉子で綴じたカツ丼は品書きに存在しない。これには、名古屋市内のみならず尾張・美濃地域ともに遭遇したものである。
やや事情の異なるが、博多では焼き鳥屋の「ねぎま」であった。立ち寄った店のほぼ全てで、その串に鶏と共に刺されていたのはタマネギだったのである。これは東京では見たことが無い。行きつけの店に聞けば、元々には博多の焼き鳥屋には無かった品書きで、東京からの転勤族あたりが持込んだものと云う。ところが当時に博多に長ネギはほとんど流通しておらず、やむなくタマネギを代用したものが、ここでの「ねぎま」と定着したらしかった。塩焼きのネギに出会えぬのは酒呑みには残念でもあったけれど、それはそれで旨い肴ではあった。

写真は戸田小浜駅本屋の窓越しに見るD51。この860列車は803D<さんべ2号>と続行の829列車(DF50牽引)との行違いで20分近く停車する。機関士と助士の不在は駅務室へ引上げて一服と云ったところか。
おそらくは、この本屋にデザインされた窓枠であろう。鉄道省はポスターばかりでなく駅舎も洒落ていた。
夜までここで粘るつもりの夕食は、駅から街道を少し下ったところの食堂で済ませた。もう慣れたもので注文は「正油ラーメン」である。

[Data] NikonF2A+AutoNikkor50mm/F2 1/125sec@f2.8 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

金浦 (羽越本線) 1969

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家族で札幌に暮らした頃、水戸への帰省旅行の途上に沿線の観光地に立ち寄ることの在ったことは以前の記事に書いたと思う。通常に夏休みや春休みの期間が、この象潟への旅は黄金週間と記録に在る。飛び石連休がどうして連続休暇になったものか、そこでのわざわざの帰省の事由は覚えていないけれど、おそらくは法事か何かで親戚一同の集まる機会だったのだろう。東北/常磐線の直行経路を取らぬのは旅好きだった親父の発案によるもので、この際の奥羽・羽越本線の昼間の乗車に象潟への下車も同様であった。
そこへは札幌を夕方の<ライラック>で出て、連絡船の深夜便から金沢行きの<しらゆき>に乗継いで到着、一泊の後に再び<しらゆき>にて羽越線を南下し新潟で<佐渡>に乗継ぎ、高崎から両毛線・水戸線を経由して夜遅くに水戸に辿り着いている。札幌-象潟に16時間、象潟-水戸に13時間余りは当時にすれば至極一般の旅である。

紀元前466年とされる鳥海山の大規模噴火による山体崩壊にて形成された流山地形が潟湖に没して、象潟九十九島と云われた景観が1804年の象潟地震にて隆起しての現況は、かつて島だった水田の流山に明らかに小舟を繋いだで在ろう痕跡の見られて興味深いのだったけれど、そこからは流山を縫うように敷設された羽越本線を走る蒸機の煙もまた眺められた。
家族旅行ゆえ蒸機を含む鉄道撮影は諦めていたものだが、意外にもその機会は翌朝にやって来たのだった。国民のレジャー指向が顕著となった1960年代を通じて、観光地を保有する地方公共団体は1956年に制定されていた国民宿舎の制度を利用してこぞって自営の宿泊施設を開設しており、この日に宿泊予約をしていた象潟町に隣接の金浦町(ともに現在はにかほ市の一部)の「金浦はまなす荘」もそのひとつであった。到着してみれば、その裏手を線路が通過しているのが見えたのである。
持参の時刻表に拾って、朝食時間とした8時までに下り5本/上り2本の撮影が可能と知り、そこには前年10月に走り始めた<日本海>も、C57の荷2048列車も含まれていた。翌朝の5時に宿を抜け出して沿線に立てば、象潟側のように一旦は海中に没したではなさそうだけれど、寧ろこのあたりが山体崩壊土砂の堆積中心とも思え、線路は特徴在る景観を通過していた。

写真は、<日本海>の露払いのように通過して往く801列車<鳥海2号>。
DF50を期待したものだが、1968年10月改正での盛岡区や長野区から秋田区・山形区へのDD51の大量転入にて、それは大半が米子区へ去った後だった。(このDD514は一足早く1966年4月29日付で秋田区へ転入したもの)

[Data] NikomatFTN+AutoNikkor135mm/F2.8 1/125sec@f4 Y48filter NeopanSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

打保 (高山本線) 2008

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吉城郡宮川村(現飛騨市宮川町)の中沢上は「なかそれ」、人によっては「なかぞれ」とも読む難読地名である。そこから宮川をやや下った位置には祢宜ケ沢上なる地名もあり、これは「ねがそれ」と読む。隣接した河合村(現飛騨市河合町)にも中沢上が存在し、こちらは「なかぞうれ」である。
言語や地名の由来には疎いのだけれど、この「それ/ぞれ」も「ぞうれ」も共に「さわ-うれ」の訛りによる読みとは容易に推定される。もともとは「なかさわうれ」だったり、「ねぎがさわうれ」だったのが、話し言葉の上で変節したのである。
「うれ」を承知していたのは偶然で、それは万葉集に納められた和歌のひとつに覚えており、木梢や枝の先のことを指しての万葉言葉である。よって、これが地形に由来するならば「中沢」と云う沢の流れの先端、つまりは上流であり、後世に「上」の字が当てられたものと推定する。けれど、中沢上も祢宜ケ沢上も本流である宮川沿いに所在して、それらしい沢の痕跡すら無い。ここでの「さわ」とは水流以外の何者かを示すのかも知れないが、そこまでの知識は残念ながら持ち合わせない。いずれにせよ、おそらくは平安期から存在すると思われる由緒ある地名である。

宮川村中沢上の集落は、ここを初めて訪れた1996年には集落とも及ばない3世帯の暮らすのみだった。宮川の曲流部内側に位置して戸谷と上桑野の対岸にあたる。山懐の狭い耕地に三戸の民家にそれぞれの納屋に土蔵が全てである。それでも小さな祠に地蔵様、耕地を見下ろす墓地も存在して集落の体裁は備えているのだった。地形からか集落内の道は円を描いて完結しており、その内側耕地に1枚だけ残された水田は田の神を迎えた祭礼場としての車田の名残とも思われ、なるほど古からの集落なのだろう。
その頃には戸谷集落から宮川に永久橋の中沢上橋が架橋されていたが、住民に聞けば1980年代の半ばまでは上桑野への吊り橋に頼っていたと云い、その橋台跡が宮川縁に残る。
高山本線はここに盛土を構築して通過し、その前後に第三・第四の宮川橋梁を架橋していた。第三橋梁の定点撮影位置にしていた村道川東線への通り道だったこともあるけれど、その飛騨の原風景とも思えた山里の景観にはここでも四季折々にカットを収めさせて貰いもした。それはC58、9600形蒸機の時代と何ら変わることの無い鉄道景観に思えた。

集落背後の栗林の丘から民家の屋根を見下ろすと、その先に第三宮川橋梁が見通せた。冬の日の弱い西日に橋梁を渡る列車は1036D<ひだ16号>。それの山の端に隠れるまで、後に僅かもない。
この辺りの民家は、屋根裏部屋の採光に天頂部へドーマー窓を持っている。それは雪下ろしに屋根へと向かう通路でもあったのだろう。

[Data] NikonF5+AiNikkor 105mm/F1.8S 1/2000sec@f2.8 Nikon L1Bcfilter EktachromeProfessional E100GX [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

面白山信号場-山寺 (仙山線) 1977

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1990年代の半ばと記憶するが、とある雑誌の編集者に同行しての仙台から山形へと回る取材旅行で、彼がその間の移動手段に選んだのは都市間の特急バスであった。久し振りの仙山線の車窓への目論みは崩れ去った訳だが、その理由を尋ねての答えは「一時間に一本では使い物にならないでしょ」だった。調べてみれば、1981年にトンネルだけは開通していた笹谷峠越えのルートには、その前後区間の山形自動車道が供用開始されており、宮城交通と山形交通による共同運行の都市間バスが、何と一日26往復も設定されていたのだった。しかも所要時分の1時間あまりは、かつての気動車急行の1時間29分はもとより電車運行の1時間10分さえも上回っていた。
奥羽本線福島-山形間の改軌工事に関連して、<つばさ>や<津軽>の迂回運転などの話題も在ったものの、それら電車列車には特段の興味を持てず、この頃には撮らなくなっていたこの線区が、注意を払わぬ内に取り巻く環境の大きく変わっていたことに気づかされた一幕ではあった。
鉄道側も、その特急運転に際して軌道強化により最高運転速度を95km/hに向上させており、所要時分を1時間丁度とした途中無停車を含む快速列車の設定にて対抗していたけれど、有効時間帯にほぼ20分ヘッドのバスのフリークエンシィには敵うはずも無い。車窓風景などと宣うていたのは鉄道屋だけで、この編集者氏に限らず一般の旅行者の選択はとっくにバスだったのである。
<つばさ>の迂回終了後に、それを快速列車として車両も温存すればアコモデーションからも十分に対抗可能だっただろうが、それの見送られたのは鉄道による頻発運転とするには市場規模の及ばぬとの判断なのだろう。装置産業としての鉄道の限界はここにもある。

仙台と山形を結ぶバス運行の歴史は古く、山形交通が1952年から面白山北方の関山峠を越える国道48号線を経路として運行を始めている。仙台に降りるようになった1970年代にも駅前で、桃とさくらんぼから発想したと云う派手な塗色のバスを幾度か目撃した。この時代ならば2時間あまりの所要に割高の運賃からも、鉄道が圧倒的なシェアを確保し、5往復の急行列車を以て両都市間のみならず、米坂線を介しての新潟や奥羽・陸羽西線経由の酒田・鶴岡との連絡線としても機能していたのだが、冬期には除雪されない国道286号線が細々と通っていた笹谷峠直下に3385メートルの笹谷トンネルの開通して、バス路線の開かれれば鉄道の命運は決したとしても過言でなく、それにアクセスする山形自動車道の延伸と歩調を合わせての時間短縮と増便を前には、都市間連絡鉄道としての機能をほぼ失ったのが、1990年代から此の方の現状である。上記の仙台と日本海側との連絡も今や全てがバスの市場に移行している。

件の当時に20代後半だった編集者氏は、もうひとつ気になる理由を挙げていた。曰く「(バスは)お茶を飲んでいる喫茶店の前からでも直ぐに乗れる」であった。駅に向かい入場してホームから列車に乗り込む行為が「面倒臭い」と云うのである。
新幹線にも通勤列車にも乗りはすれど、子供の頃から親の乗用車での移動が常態であったと思われる彼の世代に共通した、このバスがあればそれを選択する行動に古い鉄道屋は些かばかり戸惑う。

紅葉川林道(市道所部紅葉川線)から第二紅葉川橋梁を見下ろす。通過する列車は827列車り山形行き。
この頃のダイヤで827列車の仙山間所要時分は1時間44分であった。この区間の輸送をほぼ独占していた当時、9月の平日だけれども、機関車次位の客車の窓全てに人影が確認出来て結構な乗車と見える。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 1/500sec@f4+1/2 Y52 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

龍ヶ森 (花輪線) 1975

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岩手県岩手郡松尾村に所在する標高679メートルの龍ヶ森がスキー適地として衆目を集めるのは戦後のことである。1926年11月10日に、ここへ鉄道の開通し龍ヶ森信号場が置かれた以降には、当時に普及しつつあったスキーの実践者に、その車窓に見えた広大な斜面は注目されたであろうが、戦前の岩手県のスキー場案内に沿線の田山は記されても龍ヶ森の名は無い。

戦後の1952年(*1)にこの信号場の廃止されてしまい到達手段も無くなっていた中で、1957年1月3日の信号場跡地への乗降場開設は、盛岡からも手近であり、列車で到着すれば眼前が滑降地と云う龍ヶ森斜面への誘客を図ってのことである。当時より盛岡鉄道管理局はスキー客誘致に熱心で、1952年には松尾村寄木に山の家「もみ山山荘」(*2)も設置していた。
ここでの乗降は、1959年(*3)の信号場の再設置以降も勿論そこの客扱いとして継続されていた。
この国鉄の措置により来訪者を増やしつつあった龍ヶ森スキー場に、地元松尾村は当時に不可欠の設備とされつつあった特殊索道(現乙種索道-スキーリフト)の導入を決め、1961年12月28日より運用を開始とした。同日を以ての信号場の正駅格上げは、これを受けてのことである。
旅客フロントを持つ新本屋を設置するでなく、旅客扱いの実態に変わりないのだが、待合室に替えては当時に用途廃止の進んでいたオハ31形5両の車体を連ねたヒュッテを構内に開設したのだった。「山の家」の簡易ヴァージョンとも云え、国鉄が直営した。1962年シーズンからは、同年より運転を開始した準急列車の臨時停車も行われていた。
ここへ8620形蒸機の三台運転を目当てに初めて降り立った1968年は、この現状の時期であった。夏期とあってヒュッテの営業はなされていなかったけれど、休憩室とされた1両は車内が開放されていたと記憶する。鉄道屋ばかりでなく、ここへやって来る登山・ハイキング客を意識してのことに思えた。
...................................................................................................................
(*1) 8月5日付での廃止とされるが、確証が無い。
(*2) 1970年まで営業し、後に国鉄は解体跡地へ「八幡平リゾートホテル」を建設・運営した。
(*3) 月日付名。鉄道公報に記載がなく、おそらく盛岡局の局長達によると推定。

ここでの蒸機撮影の狂乱は別項に譲るとして、写真は喧噪の去った1975年に再訪した際の撮影である。標高500メートル の初秋は深々と冷え、虫の音に響く閉塞器の電鈴は二度と聴くことの出来ない駅の情景である。
客車ヒュッテ側から撮っているのだが、それが据え替えられたオハ46の車体であったかの記憶はない。
光跡を残して通過するのは、914D<よねしろ2号>盛岡行き。19時10分通過だが、ここを通る上りの最終である。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 Bulb@f5.6 NonFilter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

甲斐常葉 (身延線) 1996

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甲斐常葉は、富士身延鉃道が1927年12月27日に身延から市川大門までを延長した際、下部町(当時)の中心集落常葉に開かれた停車場である。用地を集落とは常葉川を挟んだ対岸に求め、地形の関係からか小さな構内にかかわらず対向曲線上に位置して、好ましい佇まいを見せていた。しかも上り方は杉の木トンネルの出口抗口に接する。構内がエス字線形の事例は国鉄線にそれほど多いとも思われず、出自の地域交通線たる私設鉄道の現れとも云えようか。
この鉄道の建設が準拠した地方鉄道建設規程(1919年8月13日閣令第11号)も当時の国有鉄道の鉄道建設規程(1900年8月10日逓信省令第33号)も反向曲線上への停車場設置を禁じていた訳ではないが、ここのような構内延長の短い場合なら鐵道院や鐵道省の建設線では余程の制約でもない限りは避けられていたものである。しかも、ここは上下にそれぞれ待避線をともなって、それもエス字状であるから、構内有効長より判断するに長編成列車はなかったにせよ、上り方の貨物積卸線が稼働していた時分の入換作業では見通しに難儀したことと思う。これを見ていれば、辺境の天北線や名寄本線はやはり本来の幹線と納得してしまい、永年そのような線区ばかりを撮っていた身には新鮮に映るのだった。

散策に出た常葉の集落は然程に大きいでは無いのだが、そこの酒屋では沿線の地酒、鰍沢口から遠くないところに在る酒蔵である萬屋酒造店の春鶯囀(しゅんのうてん)を売っていた。しかもエントリィクラスの本醸造酒ぱかりでなく純米も吟醸酒も置かれて驚喜したのだった。それは酒呑みの間では、なかなかの人気銘柄なのである。地元とは云え、このような集落規模の酒販店の多くが地酒の在ってもせいぜい普通酒(* )で、それとは名ばかりの食料品店と化す中では珍しく、以来その四合瓶を土産に持ち帰るのは常態になっていた。いつも、ここでの撮影をその日の最後としており、持ち帰りの重さも気にならなかったのである。(* ) 萬屋酒造は全てが特定名称酒で普通酒は生産していない

身延の近辺で撮っていれば夕刻には必ずこの駅へと移動していたのは、走行撮影が国難なその時間帯に、ここで上下の<ふじかわ>が離合していたからである。件の酒屋で酒を買い込み、駅前の食堂で飯としながら夕闇を待ったものだった。
写真は、運転停車の8082M(右)とゆっくりと通過する4007M。エス字線形の構内がお分かりと思う。
撮影位置はヤブ蚊のとんでもなく多いものだから、忌避剤をたっぷりと塗り込んで踏み入っている。

[Data] NikonF4s+AFNikkorED180mm/F2.8D  1sec.@f32 Fuji LBA2filter Ektachrome Professional E100S [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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