70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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竹沢 (八高線) 1996

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1970年には、まだ札幌に居て八高線の蒸機は撮っていない。その後もDD51形内燃機関車がそこを走っていたことは十分に承知していたけれど、先達諸氏の撮影を誌上に見れば、関東平野西縁の沿線風景に今ひとつ触手の伸びずにいたのである。おそらくは北の育ちで見慣れないせいに違いないが、紅葉黄葉の時期はともかくも広葉樹の雑木林には惹かれなかった。
セメントホッバ車で組成の貨物列車は魅力であっても、優等列車は既に無い上に普通列車に苦手なキハ30/35がやって来ることも理由ではあった。
この線を撮り始めは、以来20年余りを経ての1990年代の半ば以降になる。それは、その頃に再開した高山線撮影の帰路に利用していた富山からの<能登>を早朝の高崎に捨てれば、一日をここで楽しめたし、なにより自宅の在る相模原への短絡経路だったからに他ならない。帰りがけの駄賃と云ったところである。

当時には、手近なDD51の運行線区として注目されつつあり、高山線では出会うことのなかった鉄道屋を、ここでは随分と見かけた。
とは云え、定数一杯の14両組成のホッパ車編成を重連で牽くのも、道内線区は勿論のこと東北線に羽越線、奥羽線と幹線系線区で優等列車や長大貨物編成の先頭に立つ姿ばかりを眺めた眼には、地域交通線での何とも地味な仕業に見え、保守基準の低い線路空間をゆっくりと窮屈そうに走るのは、函館/室蘭線を疾駆する機関車とは別モノにも思えたものだった。
財源が重いセメントで無ければ、9600にD51の入線を要せず、C58からDE10形への置替で事足りた線区だったろう。

降りていたのは高麗川から寄居の間ばかりで、その以北・以南区間はほとんど撮っていない。丘陵地を下った市街化の激しい区間を意識的に避けたのだが、そこに限らず、この頃に撮っていた中では珍しくも沿線の人口密度の濃い線区ではあった。
けれど、そのお陰で食事だけには困らなかったのである。道内線区や高山線など前日に用意しておかないと一日をエサ無しに過ごすことも珍しくなかったのが、ここでは立ち位置の至近で飯が食えた。
毛呂駅前の定食屋、越生駅前の中華食堂に渋沢陸橋近くのラーメン屋、竹沢駅前の蕎麦屋、用土駅近くのトンカツ屋と思い出すのは幾らでもある。沿線最大の街だから当たり前かも知れないが、白眉は寄居北口の役場ビル7階のレストランだったろうか。役所の食堂だから安い上、大窓には秩父山系の展望が開けていた。

竹沢から折原への区間は、丘陵を縫うようにして小さなサミットを越えており、決定的な立ち位置もなかったけれど好ましい沿線風景が展開して幾度も歩いた。
写真は第三木呂子踏切(57K569M)の先、R=400曲線をゆっくりと旋回する5276列車。
14車組成の見られたのは、この高麗川行きと倉賀野から寄居への5294列車だけだったと記憶する。

[Data] NikonF4s+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D 1/250sec@5.6  Fuji CC2.5M filter PKR Edit by PhotoshopLR5 on Mac.
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女鹿信号場 (羽越本線) 1971

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かつて写真の鉄道屋は列車で旅をしていた。それの大半が自動車で移動するようになって、埋め合わせするかのように、今度は鉄道の旅を目的とする一群が現れた。ひたすら列車に乗り続けるだけで戻って来る鉄道屋は、その昔から存在したけれど、途中に下車を繰り返しながら「駅」を観光するところは新しい。その行動様式は、既に鉄道自体を懐古趣味の対象化したところに始まって、古い鉄道屋は何とも複雑な思いで眺めている。
そのひとつのジャンルである「秘境駅探訪」なる遊びが何時頃に始まったものか承知していない。その切っ掛けと思われ、また筆頭に挙げられる室蘭本線の小幌にしても、北海道旅客鉄道への承継後に駅として全国版の時刻表に掲載のなされて「発見」されたのであるから1990年代からこの方のことであろう。ここの信号場としての現役当時の状況(*1)やその後の経過を知る鉄道屋には当然の現況だったのだが、確かに再発見者には「秘境」に見えて不思議はない。
以後に競うように続いた「発見」は、小幌のごとき事例は稀で多くは過疎の進展による。線路容量の増大を意図する信号場は地形等の条件が許せば停車場間のほぼ中間位置が選ばれ、周囲に利用者の存在しないゆえに駅とはされなかったものであるし、戦後の社会構造の変化が呼び込んだ中山間地の過疎にて、そこに駅だけが取り残されるのは今に始まったことでは無く、蒸機を追って峠の駅に降り立っていた鉄道屋はとっくの昔から知っていて、どちらも当たり前の光景だったのだけれど、鉄道に懐古を感じ始めていた旅行趣味者の一群がそれを再発見したと云うことなのだろう。
「発見」にも限界のあるゆえか、鉃道としての利便性にまで言及しての「秘境駅」は、たかが遊びと知りつつも鉄道屋には違和感がある。

1962年10月30日に使用開始の信号場であった女鹿もそのひとつに数えられるらしい。この吹浦-小砂川間の8.7キロは隧道に盛土・切取が続いて土工の容易さから現位置の選ばれたものであろう。結果、切取区間に隔絶されたものだが、連鎖閉塞の運転要員を要し、付近に集落も存在してその便宜に客扱いも行っていた。その設置時に地元からの要請に応えて酒田方面への通勤・通学の利便を図ったもので、現行の停車列車もそれを引き継いでいる。
これも東日本旅客鉃道の発足に際して駅に認められての「発見」であろうが、とても「秘境」とは云い難いし、過疎地に所在するでもない。
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(*1) 断崖上部の国道より車道が通じ、本屋に職員の宿舎も建てられ、旅客を便宜的に扱ったように海岸へと降りれば数戸の漁家も存在していた。

ここの前後区間は線路の断崖の海岸線に接近して、蒸機の時代から注目されてはいたのだけれど、決定的な位置と云うのは無かったように思う。線路に近づくと並行する国道を画角に排除出来ないからでもあった。
この日も、吹浦に降りて十六羅漢を見物しながら信号場まで歩いても気に入った位置の見つからず、女鹿の集落から三崎峠を越えていた旧道に入って、ようやくに線路と海を眺めたのだった。
列車は荷2048列車。残念なことにロケハンの時には無かった電化柱が建てられてしまっていた。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2 1/500sec@f4 Y48 filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

徳沢 (磐越西線) 1979

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阿賀野川(福島県域では阿賀川)の谷は古代からの交通路であったが、その流れを用いた水運は中世以降に本格化した。けれど、それは河口より津川までのことで、そこより上流は山峡を曲流して舟の通行可能な河川ではなく、明神や西海枝(さいかち)の浅瀬や銚子ノ口の急流がそれを妨げていたのである。
その最初の開削工事は、徳川幕藩体制初期の1620年に時の会津藩主蒲生忠郷により目論まれるも、工事途上に現在の喜多方市利田(かがた)地内で斜面の崩落が起き、これにて水流に3メートル程の落差を生じてしまい頓挫する。これは後に利田ノ滝と呼ばれ、今は1943年竣工の山郷ダムの貯水域に水没している。
その後の1645年にも会津藩転封後の保科正之が試みるが、これも失敗に終わり、ようやくに1685年の開削工事にて辛うじての運行に成功したと云う。会津藩は姓を松平と改めた正容の時代であった。それでも渇水期の通行には難儀して1729年に追加工事の記録がある。

会津の領主がこれほどまでに阿賀野川の舟運に拘ったのは、産米の日本海廻船(北前船)を利用した上方への移出のためであった。風向の関係でそれの運行される4月・6月に領民の百姓は農作業に多忙で陸路輸送の人夫確保が難しく、それに比べて人手を要さない水運を必要としたのである。
揚川通船と呼ばれた津川から塩川の区間には8箇所の河戸(船着場)が設けられ、津川から遡って最初の河戸が徳沢であった。運賃はこの河戸間ごとに決められていたらしい。ここには唯一の舟番所も置かれたから主要な中継地点だったのだろう。

1914年11月14日の徳沢を含む津川-野沢間を最終区間とした岩越線(現磐越西線)の全通により、阿賀野川の水運は壊滅するのだけれど、この揚川通船区間に限れば、運行水路河道や手綱道(*1)の維持管理の困難から、それ以前より衰退していたようである。
1882年に福島県令に着任した三島通庸の住民弾圧に近い強権行政と裏腹の積極的な土木政策により、越後街道(ほぼ現国道49号線)の馬車道への改修の進んだこともあるのだろう。
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(*1) 舟を上流に運行する際に、それに綱を架けて牽く人夫が歩く水流沿いの通路である。

写真は、阿賀野川徳沢橋梁を往く224列車、郡山行き。普通列車の7両組成は、かつて首都と新潟を連絡していた主要幹線の名残と云えようか。
郵便局舎と合築される前の木造駅に降りて、その橋梁を見上げる位置まで坂道を下ると船着場に着き、そこには放置された起重機の残骸があった。聞けば、かつて船の揚陸に使われたと云う。水面との位置からは、1929年に竣工の豊実ダムにて水位の上がった以降の設置と思われ、ここでの水運に使われたではなさそうだった。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4 1/250sec.@f5.6  Non filter  Tri-X(ISO320)  Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

前田屋敷 (黒石線) 1979

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黒石線は、1912年8月15日に鐵道院による黒石軽便線として開業している。それは、この津軽地域において1894年に弘前まで、翌年より大鰐方面へ延長された後の奥羽本線に次ぐ鉄道路線であった。その経路から外れた商都黒石を奥羽本線に、そして弘前への連絡を意図した鉄道であり、鐵道院が法定線に依らず、軽便鉄道法(1910年4月23日法律第57号)を国有鉄道線の「高規格を必要としない路線で、地元に起業者がいないか将来的に有望な路線」にまで拡大解釈しての建設は、そこに余程の政治的有力者の存在したのだろうか。
当初には、弘前への接続を計画したのだが、速成を意図して最短距離の川部を起点に変更の結果、予算の30万円が13万円余りにて開通と当時の新聞(東京朝日新聞1912年8月15日)は伝えている。同記事は、剰余金で川部-五所川原間を建設しての津軽横断線実現を地元が要請し、鐵道院も調査の上で内定とも書くけれど、それは私設鉄道の陸奥鉄道が1918年に開通させている。その経緯は調べてはいない。これも1927年に鉄道省に買収され、以降に黒石線(1922年9月2日改称)はその五所川原線(後の五能線)と一体に経営されて往く。
1935年4月15日より奥羽本線の大鰐から川部を経て五能線五所川原の区間にて開始された弘前地区におけるガソリン動車運転もこの線区を含んで、6.6キロの線内に唯一の中間停車場の前田屋敷は、その際に設けられた所謂ガソリンカー駅であった。

速成と予算低廉化を意図しての川部接続は、1927年9月7日に弘前から津軽尾上までを開業していた弘南鉄道が、戦後の1950年7月1日に弘南黒石に達するに及んで裏目に出る。弘南鉄道は当初より黒石延長を目論むものの、戦前には鉄道行政を掌握していた鉄道省が、旅客・貨物の転移は明らかと見て実質的にそれを阻んでいたが、国鉄の公共企業体となれば運輸省も免許を付与しない訳には往かぬのであった。
斯くして赤字運営の地域交通線となった黒石線を、その34年後に当の弘南鉄道が経営委譲を得たのは、自治体参加の第三セクタ化された場合の利便性向上からの逆流失を恐れて、それの安楽死を意図しての行動だったと思えてならない。

その線路には礼を失するが、ここは撮ろうとして訪れたのでは無いと白状しておく。奥羽本線撮影の折、川部に黒石行きの停車していたものだから往復のつもりで乗る内に、途中2時間を待つつもりで前田屋敷に降りてみたに過ぎない。稲作地帯に林檎果樹の散在はここでの特徴的景観かも知れないが、取り立てての変哲の無い沿線が淡々と続いていた。せめての救いは、収穫の季節に林立する穂仁王(ほにょ)だったろうか。
列車は132D、川部行き。
この頃には、弘前への直通も、運用の都合からの鯵ヶ沢行きも在った。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5 1/250sec@f5.6 Y52 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

浦宿 (石巻線) 1974

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この1970年代に鉄道の撮影は、皆が鉄道移動に徒歩だったと前に書いた。そして、この頃には鉄道屋ばかりでなく釣り師もまた列車に乗っていたのである。沿線に釣り場のあれば、確かに到達時分に鉄道に利もあった時代である。天王寺から南紀方面へ、ほぼ彼らに独占された夜行列車の在ったことも記憶に新しい。
仙台と石巻線との往き来に乗っていた仙石線でも、大きなクーラボックスの目立つ釣り客を見かけることの多かった。その国電の横型腰掛で隣席となった釣り師のボックスが突然に跳ねて驚いたことがある。それが切っ掛けで自慢げに見せてくれたそこには、体長6・70センチはあろうかと思われる見事なイシガレイが暴れていたのだった。聞けば渡波漁港防波堤での釣果と云う。

幅120メートル程の水道で外海に繋がる万石浦の開口部に位置するのが渡波漁港である。海域としての万石浦とは、渡波漁港佐須浜1号防波堤先端と長浜防波堤先端を結ぶ線より内側とされているから、地理上には石巻湾(仙台湾)に面したこの漁港も万石浦の一部になっている。
干満差による流出入で潮の速い漁港内でのイシガレイ釣りは、今にWeb上を検索しても記事の多々見つかる。閉鎖性海域にてウネリのない万石浦が産卵場所であるらしく、その出入りに漁港内を回遊するものらしい。流速の在る位置であれだけの大物、それが防波堤上から可能なのだから当時より釣人を惹き付けて止まぬのであろう。

石巻線は、沢田から浦宿までの4キロ余りで万石浦の北岸をトレースする。旧金華山軌道の路盤を転用した区間である。周囲を丘陵に囲まれた内海だから当然に俯瞰を意図するのだけれど、国道398号線も並行していて良い足場には恵まれない。ようやくに浦宿から少し戻った大沢集落の裏山に上れそうな位置を見つけたのは無煙化も間近に迫った頃だった。樹木の落葉しなければ見通せないここは、道路も画角から外せる唯一の位置と思う。

写真は朝の斜光線に光る海面を往く1891列車の女川(港)行き。
イシガレイの育つ海である。対岸が指呼に見えるように、ここはそれほど大きな内海ではない。

[Data] NikonF2A+AutoNikkor105mm/F2.5 1/250sec@f5.6 Y52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4on Mac.

三見 (山陰本線) 1974

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専ら北海道に奥羽地域をフィールドにして、西日本方面の鉄道はほとんど撮っていない。北の人間だから、既知の風土に惹かれたのだとは思うが、裏を返せば南のそれは苦手だったことになる。ひとつには景観の主要な部位を成す植生にあった。西に、南へと向かう程の照葉樹、広葉樹の大きく枝葉を広げた森林を画角に切ると、地表を覆う地衣類のごとくに強弱に乏しく、加えての北には無い竹の群落の遠景に見ての畝りにも似た様には、息苦しささえ覚えたのだった。平たく云えば、その「もっさり感」を敬遠したのである。
後にホウムグラウンドにした飛騨地域にしろ、この74年に幾度か向かっていた西山陰にせよ、西国に在っては心象の風景に相似形を見てのことだ。

山陰海岸との呼称は、京都府北部から兵庫、鳥取県域に跨がる延長凡そ75キロの海岸線「山陰海岸国立公園」の指定域を指して使われるようだ。ならば、この山陰西部の海岸を何と呼んで良いのか承知しないが、ここにも日本海の成因にかかわると思われる険しい地形が続いている。
とは云え、五能線や羽越本線の沿線を歩いていた身には、西の穏やかな海岸風景に見えた。多分、この年の秋には蒸機の消えて風雪の季節を知らぬからだろう。
三見に降りての徒歩には、連子格子の町家と土蔵の古い街並に、由緒の在りそうな社寺山門を記憶する。当時には知る由もなかったけれど、ここは1600年代初頭に萩城下と赤間関(現下関)の間に開かれた赤間関街道の経過地であった、海沿いの漁業集落-方免村に1665年に置かれた宿駅町-三見市(さんみいち)なのだった。
『萩市史』によれば、街道沿いの目代所(駅逓)を中心に、前間5間、奥行き15間に町割りされた町家47軒が建ち並び、他に馬持ち31軒、宿持ち31軒、小商いの商店17軒の規模だったと云う。1889年の三見村を経て1955年に萩市の一部となっていた。
1925年4月3日の美禰線としての鉄道開通までは牛馬・馬車交通の要衝として機能したことだろう。40年前、その残滓を通り過ぎて飯井方に歩いたわけである。

尾ヶ崎前後の海沿い区間まで、山陰本線が三見トンネルで抜ける山稜を越えて歩いた、その古の赤間関街道はかなりの細道だった。十分とは云えないロケハンにポイント探して先を急いだが、尾ヶ崎を回り込む辺りに上れそうな棚田を見つけて安堵した覚えが在る。
写真は、尾ヶ崎トンネルに向かう825列車、益田からの下関行き。列車の位置は、僅かな延長だけれど25.7パーミルの勾配である。
手前に伸びるのが旧赤間関街道。

[Data] NikonF2A+AutoNikkor50mm/F2 1/250sec@f5.6 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

波高島 (身延線) 1996

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身延線を撮り始めたのには、然したる理由のある訳では無かった。電鉄と呼ばれた開業時からの古い電化線に惹かれたで無く、特別に富士川の広い谷の景観を気に留めたでも無い。居住する相模原から近く日帰りも可能な範囲で撮り続けられそうな線区を探した結果であった。房総方面や東北・上越線沿線となれば東京都内の通過に時間のかかってしまうから、それは自ずと八王子からの中央線沿線に限られた。小海線の選択もあったけれど、そこのキハ110系列気動車には八高線で厭と云う程に対面していたので、強いて云えば東海旅客鉄道が1995年に投入していた373系電車の、キハ82を思わせるパノラミックウィンドウに軍配を挙げたところだろうか。

通い出した身延線は、実を云えば、買収国電区間はもとより地方電鉄も数える程にしか撮っていない身には、今に残る前身からの国鉄離れした規格や施設が物珍しく、かつてここを走ったEF10や旧型国電を記録された諸先輩には笑われそうだが、それと新鋭の電車とのアンバランスに惹かれてしまったのだった。
ここを撮られた向きには周知の通り、芝川までに富士の山容を仰ぎ、その先で富士川左岸を辿って、落居峠を越えての甲府盆地と変わる車窓では、やはり富士川の流域へ幾度も足を運んだ。但し、その景観は旧型国電を追った諸氏の多くが飯田線へと向かったのが理解出来るものでもある。

波高島は線路が富士川を離れて常葉川の谷を落居峠に向けて遡り始める位置にあり、その前後で幾つかの画角を取れたので降りることの多かった。
波高島周辺の国道300号線はトンネルを含むバイパスが工事中であったから、その頃には拡幅されない細道で下部方向に歩けば、常葉川の攻撃斜面の急傾斜を通過する桟道が架けられていた。徒歩や牛馬の通行の時代にはそれなりの難所だったろう。この上の平桟道から川を見下ろすと吊り橋が見えて、対岸の狭い圃場に湧く温泉の2軒の宿への下部側からの通路となっていた。この表下部温泉、通称に湯沢温泉については改めて書こうと思う。

起点50K800M付近の反向曲線を抜ける列車は、4004M<ふじかわ4号>。

[Data] NikonF4s+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D 1/250sec@f4+1/3  C-PL filter Ektachrome Professional E100S [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

打保 (高山本線) 1999

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1969年度から71年度までに478両が、77・78年度にさらに125両の新製された12系急行形客車ではあるが、1980年代に至れば、相次ぐ列車削減と残る定期運用も14系特急形客車への置替が進み、この系列本来の新製事由であった波動輸送需給も低下して早くも余剰を生じ、団体旅客輸送向け車両への転用が続いた。接客設備を畳敷きとした和式客車、所謂座敷客車と呼ばれた一群である。これらは、6両を基本とした編成単位にオロ/スロフ12の800番台(一部900番台)に区分されていた。
和式客車自体は、1960年に盛岡鉄道管理局(以下鉄道管理局は局と略す)に所属したスハ88を嚆矢として、1970年代には名古屋局、長野局のオハ/オハフ80編成に加えて、特急格上げや電車化にて捻出の特別車(グリーン車)を種車としたスロ/スロフ81にて組成の7本編成が稼働していた。移動の列車内が宴会場と化す団体旅行は折からのカラオケ機器の登場、普及と相俟って年配者を中心に一定の需要が存在したのである。
12系客車の転用は、それら老朽車の代替とされ、本系列の6両編成を基本とした定員も需要に適合したゆえであろう。1980年度の門司局を皮切りに、各局が競うように導入を進め87年度までに15局に16編成が配備された。

個人的には、鉄道車両の畳敷には納得の往かず、加えて編成の奇をてらったような外部塗色にも、それらを積極的に撮ったことは無かった。けれど、90年代に至って機関車列車の稀少となれば、そうとも云っては居られないこともある。
この頃、毎年2月半ばに2度程、泊や黒部、魚津など富山県の東部地域から下呂温泉への募集団体旅行が催行され、高山本線には金沢運転所配置の和式客車編成(愛称名-わくわく団らん)による団臨が走ったのである。既に南端の坂祝までと北の猪谷以北を除けば機関車運行の無くなっており、まして積雪期とあればなおさらとばかりに出掛けていたものだった。
1982年に福井客貨車区に配置された当時の国鉄金沢局の和式編成は、西日本旅客鉄道に承継後の1993年に車両の差替えを含む更新改造を受けており、それこそ走行する風景にはそぐわぬ外部塗色の施されていたけれど、機関車とも150メートル程の列車延長も、最大でも<ひだ>の増結に5両組成を見るだけのここでは魅力ではあった。

第三宮川橋梁上の9627列車。牽いているのは宮原運転所(当時)のDD51である。
この橋梁の定点撮影を繰返していた、宮川村中沢上(なかぞれ)から巣納谷(すのだに)へ宮川の右岸で通ずる村道川東線上のこの立ち位置は、2004年10月にこの地を襲った台風23号による出水にて地盤もろとも流されてしまった。道路の復旧はなされたのだが、同一位置とは往かなくなっている。冬期には除雪されず、斜面からの崩落もあって完全に埋まるからラッセルしながら進むしか無い。氷結した崩落雪を越えるにアイゼンが必須。

[Data] NikonF5+AiAFNikkor 85mm/F1.8D 1/250sec@f4+1/2 C-PLfilter EktachromeProfessional E100G [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

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