70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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小国 (米坂線) 1972

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30年を過ぎて再びの「SLブーム」と云う。1976年の大井川鉄道に始まり、1979年からの山口線に波及した動態保存車による展示運転は、国鉄の分割・民営化直後から民鉄も含めて静態保管車の動態復元が続いて、運転線区を加えたばかりか、それ以外で運転される機会も増えて全国各地に煙を上げているような錯覚すら覚える。この2014年には釜石線でさらに1両が走り出す。
2000年代を迎えて、もはや鉄道自体がノスタルジィの対象と成り果てたところに、ディジタル写真の爆発的普及も手伝い、再びに人々の群がってのブーム化であろう。

ブーム故のことか、それが呼び込んだものか、山口線運転当初に在った動態運転による産業遺産保存の意識は希薄となり、民間資本による蒸機列車の運行は今や観光資源である。電気暖房の14系客車に積まれた石炭ストーブなど笑えない冗談はさておき、山口線に磐越西線の12系も別に蒸機に牽かれなくとも良さそうな観光仕様がなされている。機関車自体にも非営業の動態復元車に空気圧で可動させるなど玩具扱いの展示まで出現する始末であり、観光対象として厭きられれば打ち捨てられるのではと危惧する。
営業線上の営業列車ではあるが、単独で採算の採れるはずもなく、それにて有形無形の恩恵を被る沿線自治体の直接間接の資金協力を含め、北海道旅客鉄道による季節を変えての各線運行は札幌からのパック旅行に組まれ、東日本旅客鉃道の磐越西線運行も、2014年からの釜石線運行も新幹線利用を促進してこそであるから、将来にそのメリットの失われても運行は継続されるのだろうか。自治体の協力も、客足の低下すれば期待出来まい。観光資源として顧みられなくなれば、運行経費はもとより、法定の検査経費や修繕経費は何処の誰が負担するのだろうか。営利企業にそのインセンティヴは無い。

動態運転の本義は産業遺産の保存にある。観光需要に迎合した趣向では無く、隧道に入れば車内に煙の充満し、客窓を開けて旅すれば顔は煤に汚れ、それをホームの洗面台で洗い流す追体験の出来てこそに思う。
その理想とも思えた北海道鉄道文化協議会による函館本線運行や日本ナショナルトラストの大井川鉄道運行の挫折は、欧米での事例に範を求めながらも歴史遺産に対する日本人意識の落差を改めて認識させる出来事であった。本来ならば国家事業であるべきそれの保存が寄付や募金で充足せぬとなれば、運行側も運転区所等での催事の有料化は勿論のこと、河川での入漁料宜しく沿線の特定位置からの撮影への課金も考えねばなるまい。輸送手段には既に不要となった運転の再現である。将来に煙を絶やさぬにも、撮影者の意識が問われよう。繰返すが、それの全てを資本に委ねるのは危険である。

蛇足乍ら、安易に交わされる「SL=エスエル」なる言葉について言及しておきたい。
Steam Locomotiveの頭文字を取ったSLとは、本来にそれまでは蒸気機関車だけだった機関車に電気や内燃動力車が入り込んで来た動力近代化の時代に、国鉄部内でそれを区別する必要からの記号であった。それゆえ技術用語として蒸機の直訳であるSteam Locomotiveの略号が使われたのである。
なので、これはネイティブの英語圏(特に英国とその連邦諸国)においては少しも一般的では無い。半ば和製英語と考えた方が良く、そこでは単にSteam若しくはSteam Engineである。
ちなみに、電車はElectric Railcarだし、客車はCoachあるいはPassenger Wagonと呼ばれるから、PC・EC・DCも国鉄部内の区別記号に過ぎない。
このような記号を敢えて部外者の用いる必要は無いと考えるが、「SL」を多用されるなら、これをご理解の上でと願う次第である。

蒸機ブームの最中、1972年3月14日のここでの蒸機最終運転となった130列車。惜別列車の混合125列車を重連で牽いた9634の帰区を兼ねて、こちらも重連運行であった。9634+59634は偶然なのか、意図的だったのか。
降雪の中、鉄道屋よりも多くの地元住民に送られて出発して往った。

[Data] NikonFphotomicFTN+AutoNikkor5cm/F1.8 1/60sec@f4 Y48filter NeopanSSS Edit by PhtoshopLR4on Mac.
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中山平 (陸羽東線) 1969

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大谷川、北関東にもかつて東武特急の愛称にもなった同名の川があるが、ここでは「おおや」と読む。
標高1083メートルの大柴山南斜面を水源に、宮城・山形県境を南流の後に東に向きを変え、鳴子温泉市街地近くで江合川(荒雄川)に合流する北上川水系の一級河川であり、鳴子峡の深い渓谷を刻むのもこの川である。鳴子トンネルを出た陸羽東線は、その広い谷を県境のサミットへと辿り、その本流と流れ込む沢に幾つかの架橋を要している。
中山平停車場の前後には、その構内のレヴェル区間を挟むように杵沢を跨ぐ中山川(l=68M)と本流への第二大谷川(l=65M)の二つの橋梁が架けられていた。どちらも重連の機関車を載せるに丁度良い延長で、1917年11月1日の開通以来の石積の高い橋脚を持っていたから、ここでの定番の画角を提供してくれた。ともに1/55勾配上に位置して煙も申し分無いのだった。

これらを仰角で眺るべく構内の裏手斜面を川へと下る道を往くと、そこの大谷川は河原の石を積み上げた堰に止められ、地元の子供らの水浴びの歓声が聞こえていた。まだ全ての学校にプールの設備される時代では無いから、ここでの川遊びは夏休みの定番だったのである。
この頃に海パンは夏旅の常備品にしており(→北浜 (釧網本線) 1968)、早速に仲間入りさせてもらった。石の堰は思いのほか大きく、水深もあるものだった。子供らだけでは積めそうに無く明らかに大人達の仕事に思えた。ここでの夏の遊泳場造りは、彼らの子供時代から連綿と受け継がれた集落の年中行事だったのではなかろうか。同じような事例は全国に在ったことと思う。幼少時の記憶だが、祖母の故郷である茨城県の山間部、山方村辰ノ口でも久慈川の河原を分流した細い流れの堰止めに泳ぎに連れて行かれた覚えも在る。
渓流とあって虻やらの小虫が煩く飛び回るのだけれど、地元の小学生らの云う通り、沢水を集めた冷たい水に頭から潜って汗を流してしまえば集っては来ないのだった。山間地とは云え学校プールの整備され、水質や危険に対する意識も変化して川で泳ぐ子供らもすっかり見なくなった。自分も最後に泳いだのはいつのことだったろう。

写真は中山川橋梁を構内へと上る1793列車。
これは、夏休みの水戸への帰省途上に立ち寄った際の撮影である。

[Data] NikomatFTN+AutoNikkor5cm/F2 1/250sec@f5.6 Y48filter NeopanSS Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

津軽湯の沢 (奥羽本線) 2008

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奥羽地域の鉄道へは、北海道周遊券の長い有効期間や東北線、奥羽線、羽越線を選べた経路を利用して、その往来途上で立ち寄っていた。内地での撮影がこの地域に偏っているのはそのためである。
それの有効期間が短縮された末に「周遊きっぷ」に立替えられれば、ゆき券・かえり券の有効期間を遣繰りして対応したけれど、「ぐるり北海道フリーきっぷ」など格安だけど有効間の短い企画券を使うようになると、別立てで出掛けざるを得なくなった。ならば、北奥羽を選ばずとも良さそうなものだが、やはり北方育ちの人間としては引き寄せられてしまうのである。
特に奥羽本線の矢立峠区間には、若くして没した友人の大館近郊への墓参も兼ねて年間に一度は立っていた。それは大抵に紅葉黄葉の頃を選んで、道内から戻って一週間程して出掛けていたものだった。

この時期の秋田・青森県境の峠は冬の走りの頃でもある。厳冬なら大雪であろう雷鳴を伴った降雨に度々に見舞われた。
それは何もここだけに限らず、この季節に羽越方面から道南渡島半島部に至って体験する。秋らしい晴天の続くことも勿論あるのだが、日本海から寒冷前線をともなった低気圧がひと度接近すれば、その後面には冬の冷気をともなっているから大気は不安定化して雷雲の生ずることになる。真冬なら日本海沿岸で「鰤起し」と呼ばれる雷鳴と同じである。低気圧の太平洋側に抜ければ、西高東低の冬型気圧配置の局所的類似形となって冷たい時雨の毎日で、冬の走りに違いない。
とは云え、その峠には氷雨も風情の楽しみも在って、点在する湯宿である。近年には翌日の利便から矢立ハイツばかりとなってしまったけれど、大館市内で買い込んだ「太平楽」の純米酒あたりを持込めば至高の一夜ではあった。

この日も大館での低く垂れ込めた曇天は、峠を越えた湯の沢で既に線路を濡らしていた。周囲の紅葉黄葉は鈍色に沈んでしまうけれど、それも冬仕度を整えつつ在る峠には相応しくも見えた。
列車は4001<日本海>。1往復の削減されて、4001のスジに青森編成のやって来ることに違和感を覚えたものだった。
早朝の雨雲に露出はフィルムでの走行撮影の限界に近い。

[Data] NikonF5+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D 1/250sec@f2.8 Non-filter Ektachrome Professional E100G [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

余目 (羽越本線) 1971

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白状してしまえば、近年の鉄道は趣味的にはちっとも面白く無い、と古い鉄道屋は思っている。よりご年配の先輩諸兄はなおさらだろう。事象を挙げれば切りが無いが、ひとつには臨時列車の設定に運転である。臨時運転と云えば蒸機の展示運転を含む観光列車に、旅客に媚びたとしか思えない催事列車ばかりの昨今は、より一層につまらない。それしか知らぬ世代はそれなりに楽しんでおられようが、輸送力を負担しない列車にはどうにも興味が持てない。

知る限りの1970年代には、年末始・旧盆期・黄金週間などを中心に実に多様な臨時列車が設定され、定期運転には無い線区・区間への設定や思いもかけぬ車両の運用など、必ず趣味的に興味深い運転の発見されたものだが、輸送の新幹線への転移が進み、残された在来線区でも1980年代半ば以降に優等列車の短編成・頻発運転政策にて波動輸送力がそれへの増結中心となり、支線区なら輸送需要そのものの低下から設定の大半の失われたのである。
Webを通じての情報公開なぞ無い時代、季節毎の臨時列車運転が新聞に報じられれば、丸の内の国鉄本社一階に在った「国鉄PRコーナー」に駆けつけて資料を閲覧させてもらい、月末近くの時刻表発売が待ち遠しかったものであった。北海道から内地に出た頃だったから、やはり注目したのは道内に上野を発着する東北・奥羽・羽越に上信越各線であり、前者なら寝台車を連ねて洞爺-釧路間を追分経由で直行した<狩勝51号>や、特急気動車の運用を大幅に変更して設定の夜行<北海>に<北斗>、後者では磐越東線小野新町からの<みはる>に、女川からの<おしか>、寝台車まで組成の宮古発着の<みやこ>等に印象が深い。幹線でも線路容量から新たなスジの挿入が困難で、青森-八戸間の定期普通列車を急行で延長した<八甲田53号>など、夕刻の帰宅列車がその期間だけ12系座席車に変身した例もある。秋田-新庄間定期列車からの<出羽51号>も同様と記憶する。名古屋から青森へ東京・上野を経由した<あおもり>などはスロ54/スロフ62にスハネ16/オハネフ12の6両ずつで組成の豪華列車であり、米原と宇都宮のEF58を東京駅で交換していた。

上野からの羽越本線系統には取り立てる程に楽しい列車は無かったけれど、定期列車のDF50に対してそれは蒸機に牽かれていた。
この1971年10月改正当時には、季節列車6801・6802<鳥海3・2号>と予定臨時列車の8803・8804<鳥海52・51号>、それに設定臨時列車の9801・9802<鳥海51・52号>の設定が在り、同改正までのスロ62の組成は失われていたが、波動輸送への12系投入にて捻出のスハ43/オハ47が回されて、かつてのようにスハ32やオハ35の組込まれることのの無く急行らしい組成は見せていた。
勿論、C57の牽引を期待して大晦日の余目で待ったのだが、それは大阪からの<きたぐに51号>に回されて、こちらはD51であった。ここでの定期C57急行に間に合わなかった身とすれば、それでも十分に貴重だ。
列車は、朝の余目に到着した6801列車<鳥海3号>。ここで13分も停まる。
青色15号に揃った編成なのだが、モノクロームだと一見普通列車と変わらぬのが難点だろうか。

[Data] NikomatFTN+AutoNikkor105mm/F2.5 1/250sec@f5.6 Y48 filter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

角川 (高山本線) 2001

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角川は高山本線最後の開業区間に含まれ、1934年10月25日に開駅している。停車場は宮川左岸の吉城郡河合村小無雁に置かれ、地域の大字の角川を駅名とした。宮川に坂上村(後に宮川村)との村境が走り、対岸が大無雁と呼ばれる。古川盆地北端の飛騨細江から山地に分け入り6キロばかりの駅間ではあるが、冬には進む程に積雪の厚みが格段に積む豪雪地域である。

ここでの運転扱いは1969年10月に美濃太田からのCTC制御に切替えられて要員の引上げも早く、通い始めた1990年代半ばの時期は無人化されて久しいけれど、開駅時からの駅本屋の残り、旧出札窓口のみを仕切って駅前の商店が受託した乗車券類の販売が行われていた。その頃には飛騨古川駅発行になる軟券の補充片道券だったが、まもなくに高山駅の総合販売システムからの出力による補充券に変わった。
乗降場よりも一段低い位置に設けられた本屋脇には山清水を引いた池が造られ、そこには鯉が何匹も泳いでいたものだった。おそらくは駅員の配置されていた当時からのことなのだろう。
此処ばかりで無く、打保に杉原にも駅前に池の痕跡があり、公共施設と合築される以前には坂上にも在ったらしい。沿線の集落でも鯉の池を持つ民家が散見されて、かつて山村の貴重なタンパク源としていた名残であろう。
一度、坂上ダムに塞き止められて川幅の増した宮川を、ここの河合橋から眺めていて黒い川底が突然に傾くのに驚いたことがある。見れば、川底一面の鯉の大群なのだった。かつて大きな淵などを棲み家としていたものが、1925年の蟹寺発電所打保取水堰堤や1950年代のダム建設にて、その貯水池が棲息域となって個体を増やしたものだろう。
角川の宿の主には、もう食べる人は居ないと聞いたが、地域行事的な意味合いなのか現在も漁は行われていて、それは夕刻から夜に松明をかざした火振り漁である。誘われて見物させてもらえば、観光化されていないだけに面白い。

インクブルーの角川ダム貯水域を渡る第10宮川橋梁(l=150M)と、列車は1021D<ひだ1号>。
撮影位置の河合村村道(2004年現在では飛騨市市道)の臼坂森安線は冬期に除雪されないから、ここに至るにはカンジキが必須である。

[Data] NikonF5+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D 1/125sec@f5 C-PLfilter Ektachrome Professional E100SW [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

水戸 (水郡線) 1981

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1969年度に量産先行車の出場したオハ12系急行形客車は、国鉄が1950年代後半に製作した軽量客車の一群以来の座席客車であった。1970年の大阪千里丘陵での万国博覧会開催と云う動機は在ったにせよ、10年余りを経ての客車の新製を、当時の国鉄は低廉な製作費からの波動用等稼働率の低い運用への優位性を事由としていた。貨物列車や特急寝台列車運転に多くの機関車の保有が前提であり、国鉄を引き継いだ今の民営会社には、そのインセンティヴは無い。

類似の事由にて、気動車化されたルーラル線区と云えども通勤・通学輸送の集中した線区・区間には、1980年代前半まではその運転に客車運用が残存していた。朝夕の長編成を要する輸送力列車のみを客車運転として、気動車の需給を抑えていたのである。1977年度以降にはオハ50系列に置替られた例も多い。
1980年の時点で俯瞰すれば、そもそも需要の小さい道内線区では江差線のみだが、内地ならば本線が客車運用主体であった東北地域や北陸、中国山陰地区、北九州線区などに多くの事例があった。
機関車屋とすれば、もっと撮っておけばと悔やむところだが、朝夕だけの運転は撮影にも効率の悪く、加えて早朝だったり夕方の列車は日没後だったりで撮り難い列車群でも在ったのだ。

水郡線の水戸口には、常磐線にも多くの運用を持っていた水戸客貨車区による[水21][水22][水付21]の3運用が組まれて、朝間に常陸太田への1往復と常陸大子からの上り1本、夕刻に常陸大子への下り2本が運転されていた。最大組成は朝の常陸大子からの2342列車で[水21][水22]の併結による9両であった。
水戸機関区にDE10の配備される1974年まではDD13に牽かれ、冬期には暖房車を要して機関区にはホヌ30にホヌ34の4両が待機していたものである(* )。
1985年3月14日改正での常磐線普通列車の全面電車化による水戸客貨車区の運用全廃と運命を共にして過去帳入りしたのだった。
ここの運転に限らず、1982年11月改正以降にオハ50系列に置替られたものを含めて気動車化が進むのは、当時に続いた特定地方交通線の廃止により、それの需給に余裕の生じたためである。ルーラル線区客車列車の淘汰は、ルーラル線区の消滅と軌を一にしていた。
........................................................................................
(* ) 暖房車は客車区所の配置ではあるが、ボイラを運用する関係から実際の配備先は機関区所が通例であった。

写真は夕刻に常陸大子へ向かう2343列車。[水22]の5両組成であったこの下りは、水戸を18時過ぎの発車で夏場でないと撮れなかった。
隣接する草蒸した線路は、1890年11月26日開通の那珂川へ1.1キロの貨物支線。ここの路盤に敷設されたのはこちらの方が先である。この頃には既に使用されていなかった。
背景に目立つ建物は当時に完工したばかりの茨城県産業会館。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor50mm/F1.4S 1/125sec@f4 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

陣場-津軽湯の沢 (奥羽本線) 1969

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矢立峠の列車運転の凄まじさには度肝を抜かれたのだった。
1969年の親父に連れられた道南旅行から足を伸ばした初訪問では、峠の宿とばかり思っていた相乗温泉がプールを備えたジャー施設とは知らず面食らったのも然り乍ら、その部屋のすぐ先を往く峠越えの機関車の咆哮と山間に響き渡る太い汽笛には、鬼気を感ずる程だったのである。
函館山線のC62重連急行に始めて接した時も、それが水戸駅で出発を眺めた<みちのく>を牽いたのと同じ機関車とは、とても思えなかったけれど、ここのD51はその山線のそれとも別の機関車であった。後補機を付けた運転も渡島大野から仁山への勾配に、東北本線の十三本木峠を延々と越えた急行列車に、それの乗客しとては体験し、常紋越えの運転も見ていたはずはずなのに、その凄まじさは想像を絶していたと云えば良いのだろうか。
ここは、常紋の600tに対して950t牽引をやっていたのである。前補機に前々補機を付けた所謂三重連は定期仕業に無くなっていたものの、大半の貨物列車は前補機に後補機、もしくは後補機に後々補機による三台運転が常態であり、谷の狭いこの区間ではその折り重なる凄まじいドラフトが、耳を劈かんばかりに山間を支配するのだった。そして、吹き上げられた石炭の煙は次の列車まで谷に漂い、ここはそれの絶えることの無い峠でもあった。

陣場から津軽湯の沢は5.8キロとさほどの距離のあるでは無いのだが、この当時には列車本数も多く、第四矢立隧道を頂点とした勾配を行き来しての撮影では移動に時間を要して効率も落ちるゆえ、初日を陣場側、二日目を湯の沢側と決めてロケハンに歩き回ったものの、狭い谷間に隧道を連続する線路には、なかなかに編成長い950t列車の3台運転をひとつの画角に収められる位置の見つからなかった。持参した8mmム-ヴィにと津軽湯の沢から遠く引いた山頂にも登ったのだけれど、それでも35ミリカメラの画角には足りなかったものである。ロケハンに歩くうちも、後補機付の列車が次々に追い抜いても行き、気の急かされたとも記憶する。
この頃に、構内向こう側で新線(新駅)の土工工事の始まっていた陣場駅を訪ねると、湯の沢までのダイヤを模写したガリ版のプリントをくれた。蒸気撮影がブームと呼ばれ始めた当時、ダイヤを尋ねられることも増えて用意したと聞いた。とは云え、この秋の連休に出会った御同輩はひとりだけで、この峠が狂乱の舞台と化すのは翌年夏のことであった。ブームとは俄参入者にて形成されるものである。

写真は、第六矢立隧道付近での551列車。東北線電化で青森に転じていたD511を前補機に後補機も付いた3台運転なのだが、前部重連とすら分からない撮影ポジションの経験の浅さが恨めしいカットではある。
矢立旧線の体験はこの二日間だけに終わったものの、矢立峠の名は脳裏に深く刻まれ、以来幾度となく訪れる動機となっている。

[Data] NikomatFTN+AutoNikkor5cm/F2 1/125sec@f4 Y48filter NeopanSS Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

風合瀬 (五能線) 1980

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青森県域は本州島の北端に在って、陸奥湾を介した津軽海峡と続く日本海にも太平洋にも海岸線を持つ。それゆえ、日本海岸を西海岸、太平洋側を東海岸と呼ぶと、青森市出身の友人に聞いたことが在る。Eaglesに代表された西海岸音楽全盛の頃だから、彼が「アメリカみたいだろ」と続けたので良く覚えているのだが、西海岸はまだしも東海岸はかなり怪しい。肝心の太平洋に面する三八上北(さんぱちかみきた)地方の住民に東海岸の呼称はあまり聞かれなかった。
対しての津軽での西海岸は一般的で、当時の同世代がウェストコーストを気取ったと思いきや、年配者もそう呼んでいた。聞いてみれば何のことも無い、津軽人にとっては津軽半島の両岸を区別するに必要な呼称だったのである。ここでの東海岸とは半島の陸奥湾岸を指す。となれば、下北半島部の住民にも同様の呼称が有りそうだ。青森県域の両岸を東西とするのは県域中央の青森市周辺独自のことなのだろう。ややこしい。どおりで行政はこの呼称を使わぬはずである。

津軽西海岸、深浦町の大字風合瀬は鳥居崎の後背に広がる緩やかな傾斜地一帯を指し、野中や館村、宮津に字の別れた中心集落もここに成立して、五能線の風合瀬を名乗る駅とは距離がある。この停車場の戦後の追設は住民の請願によると思われるのだが、傾斜地下に設置では大戸瀬との距離が無く、鳥居崎付近には20パーミルの拝み勾配が存在したから、その先が選ばれたものだろう。五能線には建設時の用地取得や線形など様々な事由で、このように集落から離れた立地の駅が多い。かつてなら、それでも住民は駅を目指して歩いただろうが、道路交通の発達すれば見捨てられるのも早かったことになる。
ここも、僅かばかりの民家の中に忘れ去られたように存在する駅だった。

ただ鉄道屋だけは、これと云ったポイントの見当たらないにもかかわらず、ここには必ず下車していたようだ。その駅名の響きに惹かれ、意味するところの景観を想ってのことだろう。そして、駅への道路と一体化した土のホームと小さな待合所に納得すると海に向かい、浜にはそれしかない漁師小屋に画角を決めるのである。
ここでは誰もが持ち帰った光景と思う。

列車は1728D、東能代行き。
1977年度末のキハ40 500番台の最初の投入線区が五能線であった。弘前運転区への79年度の新製分を含めた21両にて同数のキハ10/17を淘汰した。

[Data] NikonF3P+AiNikkor28mm/F2.8 1/500sec@f8 Nikon Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

打保 (高山本線) 2003

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1980年代に、そのかつての亜幹線を思わせる鉄道景観に惹かれて度々撮っていた高山本線へは、暫しの間をおいて90年代半ばから再び訪れるようになった。今度は、半分諦めかけていたモノクロームフィルムに替えて、Ektachrome を手にしての旅である。
この時期には、キハ80系特急にキハ58/28の急行列車も失われて、東海旅客鉄道が発足後いち早く投入したキハ85系の天下となり、飛騨一ノ宮に上枝の油槽施設廃止に貨物列車の運転も無くなっていたけれど、そのロケーションはそれを補って余り在り、美濃太田以北の飛騨川(益田川)、宮川に導かれる区間のほぼ全線に通い、多くは高山北線と勝手に呼んでいた高山以北区間へ向かっていた。
横浜から<ムーンライトながら>で東海道本線を下り、高山駅前のホテルを常宿に線内で2・3日を暮らしてから最終日に富山に至り、<能登>で早朝の上野に帰着するのを定番の行路とし、これなら<能登>を高崎で捨てれば八高線を撮って夜には八王子に帰り着けもした。横浜市内から横浜市内行きの環状線一周の経路であるし、周遊乗車券制度の健在な頃なら、それに静岡から久能山下と下呂から合掌村のバス券を掛け捨てにした一般周遊券に組んで、遠距離逓減制の恩恵に加えての割引を得ていた。この地域に均一型周遊券の設定の無かったためでもある。
高山の常宿は勿論のこと、周遊券を依頼していた旅行エイジェントに高山市内飲食店や下車駅の駅前商店、撮影地点付近農家などあちらこちらに顔見知りの出来る程に通ったのだった。
2004年10月にここへ襲来した台風23号による被災にて中断し、線路の復旧とともに再開したものの、まもなくに2007年、2010年と相次いで頼みの足が定期運転から脱落するとアプローチが面倒になってしまった。朝の中央本線<あずさ>から安房トンネルを越える都市間バスでは高山が昼を過ぎてしまい効率が悪い上、帰路の名古屋経由の新幹線も経費が効率に寄与しないのである。
以来には、それこそ思い出したように出掛けるだけになってしまったが、手元には大量のカットが残された。

最も多く訪れたのは打保だろうか。毎月1度は降り立っていた年もあるくらいだから、ここの季節の遷移は全て記憶にある。
宮川村打保や塩屋、戸谷、中沢上、上桑野、下桑野と点在する集落の移り変わりも目にして来た。駅前に一件きりだった生鮮食料品の農協ストアに、これも一件の残った宿屋にガソリンスタンドは、通い始めて間もなくに無くなり、集落に空家も見た頃には桑野の坂下小学校も廃校になってしまった。過疎化が際限なく続く宮川の谷である。一年前の冬にストーブの煙の上がっていた民家に、それを見ないのは寂しい光景だった。
駅の、鉄道省による「小停車場駅本屋標準図」(1930年10月6日達第875号)に示された間口13メートルの1号型そのものと思われる木造本屋も、2002年夏には取り壊されて姿を消した。跡地には半円形デザインの小さな待合所が建つ。
宮川村のこと、打保のことは追々書いて往きたいと思う。

写真は、線路を埋めてしまう激しい降雪の中、富山方から進入する1026D<ひだ6号>。
これは駅本屋の失われた年の撮影である。

[Data] NikonF5+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D 1/125sec@f5 C-PLfilter Ektachrome Professional E100G [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopLR4 on Mac.
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