70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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龍ヶ森 (花輪線) 1968

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まだ札幌に住んでいた頃、1968年から70年まで毎年に写真の師である親父のお供で北東北へ遠征していた。行き先は羽越本線今川に奥羽本線矢立峠、それに花輪線は龍ヶ森であった。1968年の夏と云えば東北本線に大型蒸機も健在だったけれど、この年5月16日に発生した十勝沖地震の被災からの復旧にて遅延するかと思いきや、既に全区間で電車線路の架設を終わり、通電も近いと伝え聞いて諦めたものだった。
龍ヶ森へは1971年の無煙化間近に行われた三重連の復活運転に再訪しているが、この時がそれに接した最初の機会だった。
なにより、8620なる機関車は、当時の道内では札幌から離れた名寄に池田、そして釧路に少数が残るのみだったから実機を見るのも始めてである。苗穂にも居た9600と同時代の旅客用機との知識どおりに、それに比べてかなり細身の華奢な印象で、かつて東海道線で優等列車を牽いたとも知っていたから、このルーラル線区の急勾配を3台運転をしてまで貨物を牽く姿には一抹の侘しさを感じもしていた。
それでも、細いボイラに似合いのやや甲高いブラストが三重連ともなると、時に同期し時にバラけてそれを波のようなウネリのリズムに繰返しながら、ゆっくりと勾配を近づいて来る様にはすっかりと魅了されたのだった。それは岩手松尾を発車して間もなくから、この標高500メートル余りの峠まで途切れ途切れに届いていたと覚えている。
ここでの補機は、一方の解結駅の岩手松尾に転車台を設備しないため常に荒屋新町方を正位として運用されていた。したがって上り列車には逆向きとなって後機・後々機を定位とし、前機・前々機は下り列車に限られたのだが、補機連結順位は松尾での構内作業ダイヤにて決まり、多くは後機、後機・後々機、あるいは前機に後機の運転となって、この時期に三重連運転は昼過ぎに1本だけだったと記憶する。
蒸気機関車がブームと呼ばれ始めて、定番の位置であったこの腰の森隧道からのR302曲線区間は多くの撮影者を集めた。けれど、この1968年の夏休み期間中の一日に数えたのは5人に満たない。これは函館本線の上目名とて同様で後々の狂乱はまったく想像出来なかった。
付け加えさせていただけば、この当時に撮影に出て御同輩に出会うこと自体、あまりない体験でもあったのだ。

このBlogの表題の範疇を外れてしまうのだが、この68年からの内地撮影も今後に加えさせて頂く。
列車は前機と前々機の三重連運転の965列車。この頃に大場谷地峠で撮影可能な蒸機列車は昼間に6本があった。38688は荒屋新町区の配置で、ほぼ補機に専用された機関車である。

[Data] NikomatFT+P-AutoNikkor135mm/F2 1/250sec@f5.6 Y48filter NeopanSS  Edit by CaptureOne5 on Mac.
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湯野上 (会津線) 1973

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大川ダム湖(若郷湖)に沈んだ桑原駅は、西若松からの上り勾配が舟子を頂点に一旦下り込んだ位置にあり、ここからは再び会津滝の原まで25パーミルを含む上り勾配が続いていた。
勾配の底にあたるここは、タンク式機関車の容量の少ない水を補う給水駅に指定され、上下の列車は必ずここに停車時分を持っていた。おそらくは線路開通時からの設備と思われ、良質な水の得られたのだろう。それは後には下り列車のみに限られたのだが、1971年8月に棒線化され営業要員の引上げられた後にも、しばらくの間運転関係要員が配置されていたのはそのためである。
そして狭まった大川の渓谷を隧道と橋梁で勾配を登る湯野上までの区間、第一から第三の大川橋梁がこの線の撮影の核心であり、中でも第二大川橋梁をそのハイエストとするに異論はないだろう。それを国道より遠望した光景は、多くの御同輩のフィルムに残るものと思う。
隧道へと続くこの橋梁上で下りの機関車は、運転取扱の規定どおりに一声を吹鳴して、渓谷に木霊する汽笛は今も記憶に鮮やかである。
この架橋位置は大川の「目覚めが淵」と呼ばれ、確かに旅行ガイドの類いにも景勝地としてその名は記されていたのだが、どれも一行程を費やすのみで大魚の棲みそうな深い淵の由来は知り得ない。

ただ、ここでの煙は期待出来なかった。下り列車は、勾配の緩んだ第四小沼崎トンネル内での絶気のままに通過し、直後の隧道内で再び力行に移る運転だったのである。第三大川橋梁付近のように白煙だけでも引いてくれぬものかと思ったものの、それに出会うことはなかった。
ならばと、汽笛吹鳴の一瞬に立ち上がる蒸気をと狙うも、ほんの僅かな白煙にタイミングはなかなかに合わないのだった。
この日は幸運なことに、キャブ屋根に延ばされたダイナモの排気に加え、コンプレッサを駆動させ乍ら走行してくれたものだから、煙突後部からのそれの排気を白煙に捉えることが出来た。渓谷の秋の静寂感を画角に表現するに、白い蒸気は欠かせない演出なのだった。
第二大川橋梁上の列車は1393列車。

[Data] NikonF photpmicFTn+P-Auto Nikkor105mm/F2.5 1/500sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

今川信号場-越後寒川 (羽越本線) 1971 

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国鉄が小荷物輸送から撤退して早四半世紀を越える。それは1986年11月1日ダイヤ改正を期してのことだったけれど、1970年代から規模の縮小の始まり、80年代に至ればあまり利用されるものでもなくなっていたから、その実際を知らぬ世代が大半となっていよう。
けれど、少なくとも70年代前半までは荷物を発送しようとすれば、郵便小包か鉄道小荷物しか選択肢はなかったのである。この当時、トラック輸送の混載便も勿論存在したが、それを個人が利用するのは余程大型か嵩高の荷物に限られ、場合によっては貨物と呼ばれて、その運賃とともに身近な手段とは云えなかった。郵便小包は重量6キロまでに制限され、それを越えれば客車便と通称されていた鉄道小荷物が唯一であった。

70年代前半まで、と書いたのは、1976年1月にヤマト運輸による「宅急便」なる一般向け小口混載輸送事業が始められたからである。多くの路線トラック業者の参入を招き、瞬く間に鉄道小荷物のシェアを浸蝕したこのサーヴィスは、当時の関係者への非礼を承知で書くのだが、その商品開発は国鉄の荷物輸送を反面教師とすれば事足りたはずである。
梱包に頑丈な箱や防水紙、十字に複十字にの紐掛けを要求され、2枚の鉄道荷札を括り付け、しかも駅の荷物フロントまで持込まねばならない。着駅まで2日から5日を要し、全ての駅で配達業務を行っていたのでは無いから、到着通知のハガキを手にした引き取りも常態であった。紐括りの荷姿は、数度の仕訳や積替に紐を鷲掴みしての放り投げの荷役ゆえであったから、荷傷みも多々生じていた。
生活水準の向上した国民意識とは明らかに乖離していたと云わざるを得ず、事態に慌てた国鉄は、手小荷物業務を外部委託していた鉄道荷物会社他の受託業者をテコ入れし、個別集配を一体化した小荷物営業を商品名「宅配鉄道便Q」として1982年に開始し、これに市中の取次店を整備した「ひかり宅配便」を1985年より始めるが、最早列車輸送を維持する程のシェア回復は難しく、1986年11月1日ダイヤ改正での大幅な撤退は既定方針であった。

国鉄による荷物輸送量のピークは1億5000万個余りを記録した1963年度とされる。戦後を通じて70年代に至るまで、年末始繁忙期の荷物に埋め尽くされた汐留駅の多忙は、毎年ニュース映像に記録される年末の風物詩でもあった。
旅客列車に併結の荷物車によって全国津々浦々に輸送されて来た小荷物は、幹線における列車本数の増強とともに荷扱いにともなう停車時分や乗降場の荷役時間中の占有が問題視され、1960年代には専用列車化が推進されたのだった。荷物列車と呼ばれた列車種別である。これには郵便輸送の多くも一本化された。輸送量のある幹線にのみ設定され、本数こそ多くはないが、札幌から鹿児島までを走ったから眼にする機会は少なく無かった。
写真は、日本海縦貫線を走破していた荷2048列車。この直後の1972年3月15日改正で荷4048列車となり、荷物輸送の終焉まで存続した。この頃、新津機関区のC57の秋田までの運転は821列車で下り、翌日の荷2048で上る1仕業だけと記憶する。

[Data] NikonF PhotomicFTN+AutoNikkor200mm/F4 1/250sec@f4 Y48 filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

撫牛子 (奥羽本線) 1980

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1930年代の日本は、早期に世界恐慌の影響を脱しつつあったものの、これも世界的天候不順から冷害に凶作が続き、加えての昭和三陸津波にて東北や北海道地域の農家は疲弊し、一方では軍部が発言力を高め2.26事件を経て、遂には大陸での開戦に至る不穏な時代にあった。
けれど、それは戦前における鉄道の黄金期でもあり、鉄道省は、その営業線をほぼ唯一の基幹交通機関として長距離輸送は勿論、都市圏に地域内輸送にも、技術革新を背景に様々なサーヴィスによる増収策を展開していたのである。超特急<燕>の運転、省営自動車の運行、長距離電車の実用化、丹那・清水隧道の開通、3等寝台車、連帯運輸制度に貨物の宅扱い制度など、後年にエポックとなったこの時代の事象には事欠かない。現代にも繋がる地方都市圏近郊区間での旅客のフリークエントな輸送施策もそのひとつであり、これに導入されたのがガソリン機関による気動車であった。

単車構造の鉄道省最初のガソリン動車キハニ5000形の12両は、1929年に日本車輌を出場し、翌1930年2月1日より東海道線支線の大垣-美濃赤坂間にて試用の後、初期故障などの曲折を経乍らも同区間の他、室蘭、仙台、姫路、徳島などの近郊区間に実用された。この車両は試作的要素を持ち、48PSのガソリンエンジンに従来の客車同様の構造が単位重量あたりの出力不足を招くなどの課題を残したものの、フリークエント運転による旅客の誘発効果が確かめられ、1933年からはボギー構造の標準型キハ41000形(登場時はキハ36900形)、それの支線区用であるキハ40000形、そして1934年には流線型車体を採用したキハ42000形が量産され、全国各地に導入がなされたのである。
仙台鉄道局においては、弘前機関区へのキハ42000の配置(両数不明)により弘前近郊区間の頻発運転にこれを運用した。弘前市は1898年10月1日に歩兵第4旅団および歩兵第16旅団からなる陸軍第8師団が、ここに創設されて以来、平時1万人規模の師団に加えて軍関連施設や関連事業所などが立地、人口増に経済規模も拡大して、県都青森を凌ぐ都市に発展していたのである。
ガソリン動車の運行は、1935年4月15日より奥羽本線の大鰐から川部を経て五能線五所川原の区間にて開始され、それは第8師団の兵営地帯を貫通するものであった。この際には既設停車場間に10箇所の停車場を新設、簡易な乗降場設備に旅客フロントを持たないこれらは、ガソリンカー駅と通称された。
ここに限らず、全国のガソリン動車運行区間に営業施策として展開されたもので、戦後に旭川鉄道管理局管内他に大量に設置された局独自の仮乗降場設備の源流を成すが、ここでは全てが旅客駅であった。
順風であった運転も、1937年7月からの日中戦争戦時下に至ると同年12月には早くもガソリン消費統制が施行され、以降数次に渡る統制発令に中止せざるを得なかった。ここでの運行停止日は分からないが、ガソリンカー駅としての開業駅は1940年11月1日を以て廃止されている。
撫牛子は、その中で生き残った幸運な例である。(他には五能線林崎が戦時の休止を経乍ら戦後に復活している) 弘前に隣接して利用の多かったものだろう。

今や、市街地外縁の住宅地に呑み込まれんとしている撫牛子も、この当時までなら周辺には長閑な田園が広がっていた。農道を歩いて岩木山の方角を望むけれど、強い西日に溶込んで判然としない。
ガソリンカーの末裔達の4両編成は、キハ40+22+11+28と全て形式が異なる。この頃には当たり前に見られた組成。五能線直通の1740D、鯵ヶ沢行きである。

[Data] NikonF3P+AiNikkor28mm/F2.8 1/500sec@f8 Nikon Y52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

藤田 (東北本線) 1979

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前にも書いたと思うのだが、ここで仙台を中心とした地域の記事の多いのは、そこが東北本線のほぼ中間に位置したからである。上野からも青森からも仙台で朝を迎える夜行の設定があり、道内撮影との往きに帰りにの立寄りに利便があったのである。小牛田に降り立つ陸東線や石巻線には往路の、青森から<八甲田>を使う仙台市内や仙山線へは帰路の立寄りが多かったと思う。
東北本線の、この宮城・福島県境の国見峠区間には電化幹線と云うこともあり、それほど熱心に通った訳では無い。福島・会津磐梯特殊用均一周遊乗車券(販売名-ミニ周遊券)の自由周遊区間に白石までが含まれていて、会津行きの際に足を伸ばしたことも在るけれど、大抵は道内からの帰路であった。峠とは云え、歩くのは田園の田舎道ばかりだったし仙台周辺の帰りがけの駄賃と云ったところである。但し、ここへ向かうには<八甲田>を白石か次の福島で降りていた。

日本鉄道が、40分の一勾配(=25‰)を以てしてまで国見峠を経路と選定した経緯は良く分からない。この時代の文献調査の基礎資料である『日本鐵道史』(1921年鉄道省編纂)には、開拓使雇いの鉄道技師ジョセフ・ユーリー・クロフォードに委託した調査にて阿武隈川西岸に沿う経路が示されたとあるものの、これが国見峠を越えて刈田郡内の通過に変更された経緯は記述しない。通説には、それは当時に一大養蚕地帯であった伊具郡内阿武隈川流域住民の強硬な鉄道忌避の結果とされるが、改めて関係地域の市史、町史や村史の当該個所を読んでみると、それぞれの記述のかなり相違しているのが分かる。自治体の正史であるから無理からぬことで、その濃淡から読み解く他に無い。
養蚕を主要産業としていた事情には伊具・刈田の両地域ともに変わりはなく、それぞれに在った、得体の知れぬ「汽車」に対する蚕生育への不安からの強硬な反対運動が書かれている。そして同時に刈田郡の白石・大河原、伊具郡の丸森・角田ともに線路誘致を主張する有力者の存在も記録され、地域史からは双方に反対勢力と積極的な誘致論の併存が読み取れるのである。
委細は省くが、この状況下に経路決定の要因となったのは、大河原の有力者尾形安平の存在に思える。誘致論者の彼は日本鉄道の株式応募を地元素封家に積極的に説いて回り、鉄道用地となり得る広大な土地も私費にて買収しており、鉄道側は反対運動に無縁のこれを評価したものであろう。そこに至る経路での運動には会社発起人のひとりである銀行家渋沢栄一が白石の豪商米竹清右衛門を説得して用地を提供させ落着を図った様子である。
かくして、線路は当時に宮城県南の中心都市角田を外れて、白石-大河原-船岡を経路としたのであった。この伊具郡と刈田郡側の鉄道を巡る確執は、戦後に丸森線の建設と東北本線の電化・複線化に際して再燃するのだが、それは別項に譲る。

国見峠は県境の山稜に開けた低い鞍部を通過する標高190メートルばかりの小さな峠なのだが、それでも福島・白石方ともに比高100メートルを上る難所に違いなく、鉄道には建設規程に許容される限界の25パーミルが連続して、電機運転に至るまで重連の領域であった。この頃には残存していた気動車急行は、それこそ停まりそうな速度でここを越えていたのを思い出す。けれど、軽快に駆け上がる電車特急はそれを感じさせない。
まだ、首都圏とは築館インタまでしか通じていなかった東北道と併走するのは、1009M<ひばり9号>。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5 1/500sec@f5.6 Y48 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

羽前沼沢 (米坂線) 1971

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戦後の道路整備は1952年制定の道路法(1952年6月10日法律第180号)により進められた。ここでは、国道は1級と2級路線に区分され、国土を縦貫ないし横断する基幹路線である1級国道の40路線と、これに接続して幹線道路網を構成する2級国道の144路線が政令にて指定された。
当時に国道とは云え、それは1960年代に至るまで基幹道路と認定された程の意味しか持たず、一部を除けば未舗装の砂利道に過ぎなかった。記憶を辿れば、国民車と云われたトヨタ「パブリカ」での遠出に走った国道5号線は、市街地や集落内こそアスファルト舗装の進んでいたものの、そこを一歩離れれば砂利に土埃の舞う田舎道が続いたものだった。
道路の事情に詳しいでは無いが、これのバイパス建設を含む曲線や幅員の改良の進展の見られるのは60年代後半からで、1965年の道路法改正で1・2級が統合されていたとは云え、当然に旧1級国道区間から手の付けられ、当時の経済成長を背景にした旧2級路線への着手は多くの路線で70年代に入ってのことである。

この米坂線とともに荒川水系流域を遡り宇津峠を越えて置賜平野に達する旧2級国道であった国道113号線の改良工事は、1967年8月にこの地域を襲った「羽越水害」からの復興を兼ねて、関川村域や小国町西部区間が先行して施工されたものの、1971年当時に宇津峠区間には一部区間に着手されたばかりであり、宇津峠にトンネルこそ開通していたけれど、前後には農道然とした砂利道も残されていたのだった。
特に、羽前沼沢から伊佐領へは、代替のトンネルが県道として開通していた子子見、綱取の半洞門区間までは細道の国道で、それを駅前から30分ばかり辿ると左手に現れたのが明沢橋梁(l=65M)であった。この半径200メートルの曲線上の橋梁は、明沢川と桜川の合流点に架橋されて橋梁周囲が開けていたから、この細道の国道上に多くの鉄道屋を集めていた。伊佐領方向に進むと明沢の上流側を巻いて、その右岸の段丘上に達して格好の俯瞰位置も在ったのだが、峠を下る列車を撮ることになって当時にここに立つ人は疎らだった。

写真は、その位置から見下ろした611D<あさひ1号>。気動車急行なら勾配は無視して良い。
仙山線・米坂線経由で仙台と新潟を連絡していた2往復の内、この611Dと上りの614Dは多層建てを基本とした東北地域の気動車急行群にあって、珍しく始発から終着まで解結の無い運転であった。但し、共通運用の関係で順位は新潟方から7-11号車とされていた。
座席指定車には、当時新潟運転所に4両の配置の在ったキロ25格下げのキハ26 400番台が所定だったのだが、この日は何故か組成が無い。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2 1/500sec@f5.6 Y48 filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

面白山信号場-山寺 (仙山線) 1979

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電化区間と云うのは、どうにも好みでは無い。
何より画角の決定要素に電化柱の処理を考慮せねばならないし、それによる制約は意外と大きい。例え、それが単線の片支持区間であっても、機関車もしくは先頭車両のパンタグラフがビームのブラケットとクロスしてはいけない、などのセオリーも面倒臭いのである。勿論、逆光に映えて林立する電化柱や光るトロリー線の美しいことも承知しているけれど、前景や背景処理を含めて取れるポジションの制約は悩ましく、足は自然と非電化区間へと向かう動機のひとつになっていた。
もっとも、それは幹線鉄道のことで、買収国電線区などに残る古びた電車線設備は、場合によっては画角のテーマともなり得える存在でもあった。

交流車両の行き交う仙山線も古い電化線なのである。1937年11月10日に仙台と羽前千歳から延ばされた線路の全通区間となった作並-山寺間は、当時に丹那、清水に次ぐ長大延長の仙山トンネルを擁して、開業時より電気運転が採用された。石炭焚きの暖房車はここを越えていたけれど、電化を前提に延長5361メートルの隧道が選ばれたとして良い。
それゆえ、1968年10月の直流1500Vから交流への電化方式の変更を経ても、木製を始め鉄製のチャンネル材による電化柱などが残り、画角でのそれの処理を考慮せねばならない電気運転区間に在っては、寧ろ積極的に取り入れたくなる線区なのだった。買収国電区間にも共通する設備なのだけれど、交流の電機機関車や電車の近代化車両とのアンバランスも魅力ではあった。白いコンクリート柱と異なり、背景に溶込むのも好ましい。

電車線路設備に詳しいで無いのだが、電化柱にコンクリート柱の登場するのは時代を下った後のことで、この1930年代当時のそれには主に木柱が用いられた。地方私設鉄道の簡易な電化線には片支持も見られるものの、鉄道省の建設線には木柱2本建植の門型が採用されていた。トラスビームや架線の支持力に不安のあったのだろう。片支持区間のそれは鉄柱であった。仙山線のこの区間では鉄柱とせざるを得ない橋梁上も門型なのは、省線としての矜持だろうか。

山寺から所部経由の紅葉川林道からは様々な画角で渓谷の線路を切り取れた。林道と呼んでいるが正しくは、山形市の管理する「市道所部紅葉川線」である。
列車は811M<仙山1号>、山形行き。後追いになる。列車前方の鉄橋は第一紅葉川橋梁。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4 1/500sec.@f8  Y48 filter  Tri-X(ISO320)  Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

北二番丁車庫 (仙台市交通局) 1972

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仙台の市内電車には、循環線の北二番丁と長町線の長町駅前から分岐する回送線の先との二つの車庫が所在した。
北二番丁の車庫へは、好きな区間だった片平丁から大町西公園・公会堂前方向へと歩けば、ほどなく到達するので何度か立ち寄っていた。交通局前停留所手前から引込まれる通路線左側の事務所に許可を請えば、黄色い腕章を手渡され構内を自由に歩けたのだった。
さして広くも無い敷地には検修庫と事務所棟がぎっしりと建てられ、検修庫の南北に1線ずつの庫外線と、庫内の4線は手前側が留置線兼ピット線、奥側が修繕職場となっており、いつもジャッキアップされて台車の抜かれた車体が置かれていた。北側の1線のみは検修庫を抜けて敷地奥まで通じて、これは留置に専用されていたようであった。検修庫北側の庫外線は、ブロック塀、途中から板塀となる隣地との境の狭い空間を、これも奥まで伸びて庫内を抜けた留置線と並んでいた。
ここには予備的車両の留置されているのが常で、当時であればワンマン運転設備搭載工事の対象から外されていた100型の101-105の内1ないし2両が置かれていた。朝時間帯に交通局前と長町線の広瀬橋ないし舟丁を往復する系統に専用されていたから、昼間に夜間はここで寝ていたのである。残りは長町の車庫に居て、定期的に運用車の差替えがなされていたものと思う。

この101-105の5両は、1948年に戦前からの単車ばかりだった仙台市電に始めて登場したボギー車で、戦後の物資不足の時代ゆえモケットを省略した腰掛けなど粗末な内装ながら、その収容力から画期的輸送改善をもたらしたと云う。100型は翌1949年から1952年までに計24両が増備されたものの、この最初の5両は主電動機など電装品が異なり、将来に廃車予定としてワンマン車化工事の回避されたのであった。
但し、車体の整備のみは施工されたと見えて各車とも原型に近い美しい姿を見せていた。
この日、敷地隅の雑然とした中に留置されていたのは写真の103、そしてその後方には102が居た。
ちなみに、この留置線の先端に車止めらしきものは見当たらない。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2 1/250sec@f5.6 Y48filter  NeopanSSS  Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

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