70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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佳景山 (石巻線) 1973

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非電気運転の地方交通線における貨物列車の運行は壊滅状態にある。勿論、その大半は国鉄が車扱輸送を原則的に廃止した1984年2月改正にて失われたのだが、日本貨物鉄道発足以降に辛うじて残されていた線区・区間も同社の非採算輸送からの撤退方針に荷主側も従う形での廃止の続く現況である。
コンテナ車にタンク車ばかりの組成乍ら富山・高岡地区にまとまって残存するものの、何れも短距離の上にそこは撮りたくなるような沿線でもない。釧網本線や紀勢本線が過去帳入りすれば、石北本線のコンテナ車や山口線のホッパ車編成列車の注目されるのは、これからも必然であろうか。
そして石巻線である。2011年の災禍にて石巻埠頭が被災して以降の永い運休を経て、現行ダイヤにては従前の7往復運行に復帰、加えて瓦礫輸送列車の地方交通線貨物に例の無い運転は衆目を集めるに十分である。
ここでの貨物列車の頻発運転は今に始まったで無く、この蒸機の牽いていた当時でも同様で、さらには女川や渡波発着も加わって、小牛田-石巻間には9往復が往来していた。機関車の小型タンク機は些か物足りないし、沿線風景も凡庸に思えたここへ通ったのは、偏にその数を稼げる撮影チャンスからであった。

この仙石線石巻港発着の貨物運行は、1939年11月7日に当時の宮城電鉄が宮電山下(現陸前山下)で分岐する貨物支線とその終端に釜停車場を開業したことに始まる。ここには予てより王子製紙の出資した東北新興パルプの石巻工場が建設中で、同日には釜から同工場への専用線も開業して、この支線は始めから工場の原料搬入と製品輸送に要求されたものであった。戦後の1953年7月20日には旧北上川河口の岸壁への分岐線に(初代)石巻港駅を開業して水陸連絡貨物も扱い、1968年10月11日には新設の石巻工業港へ延長し石巻埠頭駅を置いて、そこに立地した飼料工場製品の出荷輸送も行われた。
石巻線貨物列車と云えば、ワム80000を連ねた姿を思い浮かべる向きの多かろうが、それは有蓋貨物車に多くの余剰車が発生して保有車の同形式への統一と物資別適合車への改造も進んだ日本貨物鉄道発足後のことであり、この1970年代には鉄製有蓋車を中心にチップ輸送向け改造無蓋車やホッパ車、タンク車など多様な貨車で組成されていたのである。

写真は初冬の朝の860列車。逆向き運転が石巻港(旧釜)発列車の証になる。
凡庸な風景にも、大崎平野の東端に浮かぶ欠山の丘陵北端をかすめる勾配には力行してくれる。

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor50mm/F2 1/250sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

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野辺地 (南部縦貫鉄道) 1972

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地域交通線、80年代以降なら地方交通線と呼ばれた、所謂ルーラル鉄道には余り興味を持たなかった。道内の主要幹線函館本線の、それも札幌近郊の沿線に住んで鉄道風景を眺めた身に、それは大型蒸機を先頭に長大編成で疾駆した列車群に在ったのだった。その頃に走り始めた気動車特急や急行列車の近代化列車もあこがれを持って眺めていた。
ハーフ判カメラを宛てがわれて立つ沿線も当然に函館本線であり、桑園の外れからひっそりと分岐していた札沼線にも行ってみたけれど、宅地開発の進み始めた農地を往く線路は、同じようなロケーションだった千歳線に比べて優等列車のやって来ない分、随分と寂れて見えた。
1960年代の末から蒸機を本格的に撮るようになれば、残り少ないそれにルーラル鉄道にも通ったけれど、そこでの気動車列車のカットはほとんど手元に無いから、蒸機ばかりを見ていたことになる。
それを失ってから、暫くは足の向かなくなっていたのだけれど、1970年代の後半から標津線や士幌線、深名線などを巡り始めて些か後悔したものだった。70年前後と云えば、空知や留萌地域の運炭鉄道の多くが健在であり、旭川には郊外電車が走っていたし、道北・道東に足を伸ばせば簡易軌道も生き残っていたのである。それらの何れにも乗っていない。

この日、連絡船の午前便で着いた昼の青森から野辺地に降り立ったのは、1968年にここまでを延伸していた南部縦貫鉄道に乗るつもりだったのだが、その動機もルーラル鉄道の探索では無かった。東北本線の大平トンネルを通過する別線複線の使用開始にて失われる接続駅、千曳に替えての野辺地までを国鉄から借り受けた旧東北線区間、特急や急行で幾度も通ったそこの再体験を目論んだに他ならない。だから、そのレイルバスに乗ったものの千曳改め西千曳で降りてしまい、この鉄道の核心区間には足を踏み入れず仕舞いだった。
西千曳からは東北線の廃線跡を現千曳まで歩いて、やって来た普通列車で野辺地に戻り、そのまま17時過ぎの<十和田1号>で上野に向かっている。
1980年代以降に、このルーラル鉄道のレイルバス運行は注目を浴びることとなり、沿線への人出に躊躇する内に1997年の営業休止を迎えてしまった。

この駅跨線橋から見下ろしただけの光景の他、西千曳での数枚が手元に残る全てとなり、これは後悔と反省のカットなのである。けれど、単行列車ばかりとなった釧網本線を、以来に一度も撮っていないところなど、反省は足りぬものと思う。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2 1/250sec@f5.6 Y48filter  NeopanSSS  Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

大館 (奥羽本線) 1972

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特急を牽く機関車の掲げる円形の列車名表示板、所謂トレインマークは、戦後には「列車標」と呼ばれ、1954年12月1日付にて第一種(後尾用)と第二種(前頭用)が「国有鉄道鉄道掲示規程」「同鉄道掲示基準規定」に指導標として規定されたのに始まる。1960年3月30日付総裁達により、「列車標」を「列車名標」に改め、電車・気動車による優等列車運転に対応して第二種に甲・乙・丙の区分を設け、機関車掲出の円形型は丙種とされた。なお、この際に電車・気動車・客車特急の電照式掲示を第三種と規定している。
1963年の<みずほ>を最後に第一種の使用も無くなり、国鉄部内で1961年以降に進められた規程・規定類の近代化により、1967年12月10日付にて掲示規程は全面的な見直しの行われ、そこでは第一種から第三種までの全てが「トレインマーク」の名称に一本化されたのだった。鉄道屋としては、機関車に掲出のトレインマークと電車等の電照式列車名表示(愛称版)は区別したいところだが、これ以降規定上はどちらも「トレインマーク」である。

これらは車両の一部と見なされて管理や保守、運用は車両に準じ、検修区所や運転区所がそれに当たって来た。車両の配置区と同一のこともあるが、寧ろ別の事例が多く、その独自の運用が列車や線区ごとに運転区所に指定されたのである。これら区所が列車仕立駅などに派出所を置いたのは、トレインマークばかりでない列車名標や列車種別標、行先標などの着脱実務と管理のためである。大宮の鉄道博物館ではクハ481の車両展示に愛称板の交換風景が再現されているけれど、上野駅でこれを作業していたのは上野駅の職員ではなく、尾久客車区上野派出の要員であった。
機関車掲出のトレインマークに限れば、伝統的に車両配置の機関区が管理した事例が大半を占める。特急列車が数本であり、機関車にも特別に整備した特急組の運用が組まれていた時代には、それはほぼ機関車と一体運用であったから着脱は自区での出入区の際に限られた。比較的短距離に複数の特急仕業の在った門司機関区では、煩瑣を避けて特急組機関車の除煙板裏側に複数の列車標を常備して運用を一元化していた。
ところが、1970年代至れば電化、内燃化の進展にて機関車の集中配置が進み、また特急の設定も増えれば、機関車は特急から貨物列車までに共通に運用され、トレインマーク着脱の実務も配置区所の出入区時ばかりではなくなり、仕業行路中途で必要とされることの多くなった。
これ自体は前記のとおり連綿と行われて来た業務の範疇を出るものでないが、国鉄の財政悪化から省力化や作業効率向上の叫ばれた時代と重なり、1970年春より始められた生産性向上運動(マル生運動)の国鉄当局による強引な推進に反発した組合との労使関係の悪化も加わって、列車運転に必須の部材では無いトレインマークの運用管理が問題視されたのであった。これは歩み寄ることの無かった両者の協議の迫間に落込んだとして良く、72年頃より区間によっては掲出の無い特急列車が現れ始めていた。
区所によっては特急牽引を含む仕業の出区から帰区まで装着のままとする方策が取られ、常磐線内で<ゆうづる>のマークを付けたままのED75による貨物列車や普通列車の見られたのも、この頃である。
合理化を拒む組合側に対し、要員削減の口実としたい当局側は1975年3月10日改正でのトレインマーク廃止を決定するのだが、既に多くの列車や区間で掲出のなかったのが実際であった。東海道・山陽線の東京-下関間の除外されたのは、この区間を牽いた東京機関区のEF65が同区間を往復するばかりの特急専用機ゆえである。

写真は大館を発車する4001列車<日本海>。急行用などへ格下げ後の20系客車なら見慣れた光景かも知れないが、これは堂々の特急列車である。編成半ばには食堂車も営業している。秋田機関区は、この1972年夏にはトレインマーク運用を廃していた。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor135mm/F2.8 1/500sec@f5.6 Y52filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

天ケ瀬 (久大本線) 1986

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福岡で仮住まいの1年余りは記憶に残る日々だった。航空機での頻繁な東京との往復には倦みもしたが、羽田からモノレール・地下鉄を延々乗継いでの遥かなる都心に比べて、板付の飛行場の中心街天神からの至近が救いだった。九州人、中でも博多の人々のヒコーキ好きは、この身近な空港も要因に違いない。

そこの人間は実にフレンドリィで、拠点を置かせてもらっていた映像制作会社のスタッフ連中に連れられ、あちらこちらで楽しく呑んだ。中州には余り出掛けず、天神西通りから大名、警固、赤坂あたりが縄張りだったと思う。
かの「一風堂」が西通りの路地の小さなラーメン屋だった頃である。
玄界灘を始め九州一円からの肴は豊富で美味しく、しかも何にしろ都内では考えられない程に安いのだった。勿論、呑み屋街の横道の10人も入れないような鮨屋だったけれど、並の握りにビール大瓶で1200円、西鉄福岡駅近くの路上の天婦羅屋台に行けば一巡りに1000円で釣りが来た。大濠公園近くのレゲエ屋台(BGMが皆レゲエ)も、ちょい呑みに最適だった。ここは、一升瓶をボトルキープしておけば500円で呑めた。
桜坂の部屋から歩いた六本松の交差点に行きつけの店を見つけて、福岡に居れば毎日のように立ち寄っては、そこの常連達と別の呑み屋に出撃もしていたものだった。
そして、件の制作会社の連中とは車を出してもらって温泉に出掛けては、また呑んでいた。熊本県下まで遠征することもあったけれど、大抵は近場の久大本線沿線に向かった。玖珠川の広くも無い谷沿いに旅館の建ち並んでいた天ケ瀬温泉も行き先のひとつだった。そのまま一人だけ居残って翌日を撮影に充てたこともある。

天ケ瀬の温泉は動力揚水では無く、自然湧出である。泉温も高い。かつては玖珠川の河原を掘れば湯の湧いたと聞くが、いまでもそこには5箇所の共同露天風呂がある。なにせ河原なので衆目から覆いのかけられた湯舟も在ったが、気持ちの良いのは川の水流近く、増水時には水没前提に設けられたそれだった。さすがに真っ昼間の入浴は憚られたけれど、一日の撮影を終えた夕刻にひと風呂浴びてから列車に乗るのは快いのだった。そして、博多に戻ればまた六本松で呑んだ。
写真は、天ケ瀬温泉街の裏道を往く640列車、日田行き。河岸の共同露天風呂も見える。
久大本線は、玖珠川の谷の最も南側を通過していたのだけれど、その上部に国道210号線の新道が開削されてしまい、駅上空をその橋梁が通過する。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec.@f4 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

中山平 (陸羽東線) 1972

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鳴子峡の西側の入口であり、古くからの湯治場でもある中山平は新緑や紅葉黄葉の季節には多くの探勝者に賑わう観光地であった。久しく訪れてはいないのだが、今もそれに違いないだろう。駅には遠慮がちにだけれど装飾が施され、駅前の土産物店街には幟がはためいていたものだった。
シーズンのピーク期間には仙台から蒸機の牽く臨時列車が走り、時には予備車をかき集めたような雑多な形式の気動車で組成された団体臨時列車も運転されていた。定期列車も上り方面から到着する度に多くの観光客の吐き出されていたのを思い出す。
この賑わいは1970年代を通じて失われ、80年代の初めに再訪した駅前はすっかり寂れていたのだった。国鉄の輸送人キロベースの旅客輸送量が2156億人キロで最大を記録したのは、その半ばの1974年度ではあったが、まずは観光客需要の道路交通への転移が急激に進んだのがその10年間だったのだろう。この1972年でも鳴子側に設けられた臨時駐車場は乗用車や観光バスでひしめいていたのを見ているけれど、まだ鉄道も利用されていた近郊への団体輸送は、その直後には道路交通の市場に完全に取って代わられたのである。
鳴子方面からの観光バスは鳴子峡や温泉への入口で客を降ろすと、峡谷散策を楽しんだ彼らを拾うために引き返してしまって、中山平の駅前まで客を乗せてやって来ることが無い。

川渡から堺田までの765列車を牽いた機関車は、貨車編成を堺田に置き去りにして単行にて川渡へ戻る。その単766列車は中山平で下り普通列車の交換待ちでしばし停車した。この貨物列車を分割した運転については、川渡 (陸羽東線) 1972 に書いている。
ホームに単行で停まった機関車は、なかなか画角にまとめられるでなく、見物に終始していたのだけれど、この観光シーズンばかりは賑わいに囲まれた。普通列車に続行した団臨は老人会の旅行でもなさそうなのだが、圧倒的に年配者が多い。若い世代は機関車を見つけて記念撮影に興じるも老人達は見向きもせずに出口へ向かう。彼らにとっては蒸機など当たり前に過ぎる鉄道風景だったのだろう。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor135mm/F2.8 1/250sec@f5.6 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

裁判所前 (仙台市交通局・循環線) 1973

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1960年代、札幌から祖父祖母の地である水戸への帰省旅行には、東北/常磐線の急行で直行するばかりでなく、旅好きだった父親の発案で色々な経路に乗っていた。日本海縦貫から上越線で高崎に出て両毛線・水戸線に乗る大回りもあれば、水郡線で郡山を経て福島から奥羽線を辿る旅もあった。いずれも途中で一泊して周辺の観光地を巡るのである。
直行経路上の仙台にも降りて、一日を松島遊覧、もう一日は仙台市内観光と云うことも在り、仙石線の気動車塗色をした国電やC59からC62まで各形式揃った大型蒸機ばかりの仙台機関区など札幌では体験出来ない鉄道風景に興奮した覚えが在る。市内観光に乗った仙台市電は1型/30型の単車から最新の400型まで自局導入の歴代各形式が揃っていた時代で、1型を2両連接に改造した300型など、子供の眼にも異様さを感じ取り思わず見入ってしまう車両も居た。間違いなくゲテモノの類いである。
高床で市内電車とは異質に思えた180型は、やはり郊外線の琴平参宮電鉄からと後に知る。嬉しかったのは、水戸市内を走っていた電車への再開で、1965年に茨城交通水浜線の100型の10両が130型として転入していた。これらは単車の廃車代替に購入されたものであった。

内地に転居した1970年代には、北海道均一周遊乗車券を手にした旅行者として道内とを往復し、途上仙台にも幾度か降りて仙台市電を撮ることになった。1969年に失われた北仙台線に続いての全線廃止も噂になり始めていた頃である。けれど、1968年には呉市交通局からの2000型に3000型も加わって、車両形式はこの当時が最も多様であったろう。
中でも気に入っていたのは11両が在籍していた200型であった。導入当時に流行した後退角の付いた正面2枚窓も良かったが、100型には違和感のワンマン運転転用に際しての非対称の大窓も、この車にはまるで新製時からのように似合っていた。1955年度製の206-208の3両だけのパンタグラフも異彩で、ポイントを稼いでいた。

この日は、南町通りから右転して進入する裁判所前の跨線橋(歩道橋)付停留所を正面から捉えるべく、中央分離帯の芝生に立って交換風景を狙った。そのタイミングに加えて自動車交通に邪魔されることも覚悟していたのだけれど、小一時間程でチャンスが巡って来た。しかも交換双方が200型の幸運に恵まれた。「小松ハウス」の自動車だけが惜しい。

[Data] NikonF photpmicFTn+P-Auto Nikkor105mm/F2.5 1/250sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

焼石-少ヶ野信号場 (高山本線) 1988

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2013年の夏も豪雨の災禍が続いた。それにて毎年何処かの鉄道に長期不通を生ずるのは年中行事化の感さえある。天然地盤に築造された構造物は永続性を要求され乍らも自然に最後までは購えないのだろう。もちろん復旧への工事が続けられてはいるのだが、中には復旧を放棄されたり資金難からそれの危ぶまれている線区もある。

道幅全てが水流と化した表参道の坂を足首まで浸かりながら渡ったことや、滝のごとき急流の渋谷駅前の歩道橋を昇ったことは在っても、幸いなことに水害の災禍に巻き込まれた経験は無い。
7月28日の12時10分に山口県須佐で観測されたと云う、記録的短時間雨量の138mm/hとはどんな豪雨だったのだろうか。
気象庁の分類では、時間雨量80ミリ以上を「猛烈な雨」と区分して、それは「息苦しくなるような圧迫感がある。恐怖を感ずる」降り様とされている。「傘は役に立たず」に「水しぶきであたり一面が白っぽくなり、視界が悪くなる」状況と云う。
これなら一度だけ出くわしたことがある。高山線の釣鐘トンネル出口抗口上の国道脇から第五益田川橋梁を見る定番の位置で列車を待った夏の日である。その日の天気図は覚えていない。早朝からの蒸した曇天は昼過ぎから降雨となっていた。ここを16時50分前に通過するユーロライナー編成の9606<奥飛騨>を待っていた訳だが、その直前、突然に豪雨と変わり、激しい降水と路面から跳ね返る水飛沫で自分の周囲しか見えなくなって、その轟音には確かに息苦しく、路面を滑って谷へと流れ落ちる足元の水流には恐怖すら覚えたのだった。三脚上のカメラにはゴアテックスのスタフバッグを被せて防水していたけれど、傘など直接にシャワーを浴びないだけで、これも確かに役には立たなかった。あのような場所なので、鉄砲水や落石の危険も在っただろうに、激しい飛沫に包まれてはとても考えは及ばなかったのが正直なところである。

豪雨がまともに一時間も続けば災害に発展しただろうが、幸いなことに20分程で小止みとなって免れた。気がつけば山側の直立した斜面からは滝のように水が流れ落ちていた。僅かに5・6メートル先の、それにすら気がつかない轟音の降雨に水飛沫だったのである。
豪雨災害の報道に接する度に、この経験を思い出している。あの状況下ではとても避難など出来るものでは無い。

下呂に戻って聞いたが、これも気がつかぬまま橋梁を通過した9606は、危険を感じた機関士の判断で釣鐘トンネル内に停車の後、最徐行で運転したそうである。下呂や焼石での雨量は警戒域に達せず、極めて局所的な降雨だったらしい。
写真は、その関係からか定時を遅れての706D<のりくら6号>。恐怖の覚めやらぬ中でのレリーズで意識していなかったけれど、現像を上げてみれば幽玄の山峡が好ましいカットになっていた。

余談だが、下呂で夕食に入った食堂の主人は、ずぶ濡れの姿にストーブを用意してくれた。有り難く暖まっていると全身がもうもうと湯気に包まれ、それを見た主と共に大笑いした覚えが在る。

[Data] NikonF4s+AiNikkor50mm/F1.4S 1/250sec@f2.8 Fuji SC42filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

今川信号場 (羽越本線) 1971

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札幌から上京した後にも、今度は周遊券旅行者として北海道を目指したので、電化・無煙化が急速に進んだこの時期に内地の蒸機を撮った期間は短い。特に大型蒸機の残った羽越本線は1972年夏には電気運転開始を控えていたから、道内との行き来の途上に組み入れ、また東京からも近くて単独でも通った会津方面や米坂線と組み合わせても訪ねていた。日本海の荒れる季節の記録には71年の一冬しか無くて幾度も出掛け、米坂線に雪中の写真の多いのはそのせいだろう。
日本海岸のこの季節は、強風に海が鳴るか時雨の一日か、どちらかばかりだったように覚えている。雪混じりの雨と風に千切れた波飛沫に濡れた線路は、ここでの鉄道景観には似つかわしく思っていたものだ。

羽越本線は、1961年度に開発されて間もないトークンレス閉塞装置を用いる連鎖閉塞式と色灯信号機の全線への導入がなされ、次いで1966年度までには、これも全線で自動信号化も達成される等近代化が進められたものの、複線区間は極一部に留まり、日本海縦貫の重責を担うにはあまりにか細い線路が続くばかりなのだった。当時に典型的な亜幹線の姿と云えよう。
1957年度を初年度とした「第一次五カ年計画」に含まれた北陸本線の一部区間に始まった日本海縦貫線の電気運転と線増は、1961年度からの「第二次後か年計画」、1965年度からの「第三次長期計画」を通じて1969年に信越本線までに実現したけれど、ここで財政事由から息切れしてしまい、羽越本線と奥羽北線は電化こそ「財政再建計画」下でも進められたけれど、多くの単線区間が残され、それは国鉄の民営化で固定化したように見える。現在でもその随所の亜幹線の残滓を、鉄道屋としては喜ぶべきか悲しむべきか。

今川信号場には何度も降りたが、いつも越後寒川方ばかりに歩いたものだった。冬の走りの冷たい雨を白煙を引いて駆け抜ける姿は、情感の鉄道景観であろう。
列車は837列車、秋田行き。

[Data] NikonF+P-AutoNikkor50mm/F2 1/500sec@f4 Non filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

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