70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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平岩 (大糸線) 1987

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姫川の谷を平岩あたりまで遡れば温泉地帯となる。駅下流の姫川沿いに姫川温泉のまとまった旅館街があり、上流に辿れば川沿いにも旅館が建ち、これも姫川温泉と呼んでいるようだった。
葛葉峠への当時の国道148号線のつづら折りに白馬温泉が、峠近くから50メートル程を谷に下ったところには蒲原温泉があった。
それが何処であったか、どうしても思い出せないのだけれど、この頃国道を外れたあたりに露天風呂が湧いていた。と云っても脱衣所さえ無い単なる湯壷である。白馬温泉よりもやや下ったあたりだったような気もするし、そこから姫川の近くに出た位置だったようにも思える。
葛葉峠途中のドライブイン横で数カットを撮影して、つづら折りを駅に戻りながらロケハンのつもりで踏み入れた道すがら、単車旅行のライダーが入浴していたのを見つけてご一緒させてもらったのである。彼の単車がそばに停めてあったから傾斜地ではない。湯舟も二人が十分入れるサイズだった。彼も偶然景色を眺めに停まって見つけたと云う。そこには何の掲示もなされるでも無いし、周囲にそれを附属させる建物も無く、そこから湯の引かれるでも無く、だだこんこんと湯が湧いていた。
無色透明の泉温は、かなり熱かったのだけれど、峠の登りで汗をかいた身体には快かったと覚えている。
これが今も在るものか分からないが、もしご存知の方がおられればご教授頂きたい。果たしての無断入浴の是非を。

この頃、富山運転所には西日本旅客鉄道の承継した非冷房のキハ58/28が集められ、主に高山線と大糸線運用に就いていた。冷房搭載車の2両の配置もあったけれど、キハ58とあっては宝の持ち腐れである。後に大糸線色と呼ばれる塗色への変更が順次進められていた。
列車は432D、南小谷行き。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f4 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS4 on Mac.
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岩館 (五能線) 1983

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五能線の無煙化は、広戸-追良瀬間での8620蒸機の転落事故の記憶も生々しい1973年3月のことであった。
これに際しては、DE10内燃機の8両が弘前運転区に集められたのだが、何れも五能線運用には使用しないはずの蒸気発生装置の搭載車だったことを訝しく思ったものだった。ご丁寧にも1両が配置された除雪用のDE15も1000番台車であった。
ご承知のとおり、ここの運用客車は混合列車での貨車前位組成から各車で独立暖房を装備していたのである。
同じ秋田鉄道管理局や隣接する盛岡・仙台局管内で同時期にまとまったDE10の配置の在った各区では、旅客列車仕業の無い区所は勿論、それを持っていた区所でも非搭載車との混配置が見て取れるから、この措置は何らかの意図のあったものと思う。
それの稼働を前提にしていたとすれば、客貨分離しての貨物列車の設定を想定したとも思えるけれど、線内での貨物発着の少ないゆえの混合列車だったから、例え財源が1車でも運転せねばならないそれは考え難い。貨物扱い駅の集約を見越した貨車後部組成化の計画でも在ったものだろうか。弘前-川部間での逆向き運転は残るけれど、それなら給油などメンテナンスを要する各旅客車の温気暖房機の使用を停止出来るから燃料経費の低減にも繋がる。この後に増配置された4両も蒸気発生装置搭載車であった。

1983年春には次期ダイヤ改正での貨物輸送の大幅なシステムチェンジが囁かれ始めていた。車扱い貨物輸送からの大幅な撤退となれば、混合で設定なればこその五能線客車列車などひとたまりもあるまい。その夏の渡道に際しては、前夜を弘前に宿を取ってそれへの名残り乗車を目論んだ。
この最終期の五能線には、弘前運転区のオハ62-2両/オハフ61-15両の配置を以て、それの5両組成の3組使用による[秋21]運用にて12本列車が設定されていた(内1本は回送列車)。その半数は[秋荷3]運用のオハユニ61を東能代方に併結した6両編成であった。運用の合理化から途中解結は廃され、朝方の輸送力列車も昼間の全線の通し列車も全て同一組成である。この編成長では貨車の後部組成は最早あり得ない。

翌朝に弘前から乗った1730列車のハイライトシーンが、この岩館での1735列車との離合だろうか。今時なら人垣の出来そうなものだが、この時そこに立ち会ったのは自分ひとりだけだった。
DE10141は盛岡からの転入車。対向のDE101198は弘前への新製投入車である。

[Data] NikonF3P+Distagon 28mm/F2.8 with Adapter 1/60sec@f8 Fuji SC52 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

落合川 (中央本線) 1987

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ここに鉄道の開通したのは、1908年8月1日の中央西線の坂下までの延長による。ほぼ現在の下り線(上り運転線)であるが、1889年に成立した落合村村域に駅の設けられることはなかった。
中央西線は延伸が続けられ、1911年5月1日の宮ノ越-木曽福島間の開業により中央東線と繋がり、昌平橋-名古屋間が全通して中央本線と改められた。それにて、この坂下から中津川の9.9キロ区間も運転本数は飛躍的に増加したものと思われ、それが交換設備を有したものか、或は単に閉塞区間を区分したものかは分からないのだが、線路容量の拡大を要して1913年9月10日に落合川仮信号所が置かれた。これが1917年11月27日付にて駅へと昇格したものである。
一方で、ここの木曽川には1926年に大同電力による落合ダムが竣功している。木曽川水系における電源開発は1900年代初頭には構想されていたと思われ、それは1910年の名古屋電燈の手による八百津発電所の起工に始まる。
中央西線の線形設計時点で、このダム計画が存在し、それの考慮されたものかは分からないのだが、線路はダム堪水標高を上回る位置を通過していて、それの移設や施工基面の嵩上げの行われた形跡は無い。落合峠から20パーミルで下った線路の標高をあまり下げること無く、坂下への勾配に繋げた線形が功を奏したのだろうか。ダム建設前なら、それは谷の中腹を往く姿だったはずである。

坂下への瀬戸山隧道手前には、名古屋からの列車が最初に木曽川本流を渡る第一木曽川橋梁が架橋された。河畔までは降りない線路であったから、それは高い橋脚に橋梁長も要して支間306ft.3in.の下路ペチット型のピン結合曲弦プラットトラスがアメリカンブリッジ社に発注された。三留野(現南木曽)-田立間に所在した第5木曽川橋梁( * )と同形で、架橋当時には河床から雄大な姿を見せていたであろうが、水面の上昇して貫禄はやや損なわれることになった。
ここには、1968年9月25日の複線運転化に際して下流側に支間94mの下路式単純トラス橋が架けられ、新旧トラスが並んで好対照を見せていたのだけれど、下り線(上り運転線)となった旧橋は1972年4月24日に使用を停止し、前記と同形のトラス橋に架け替えられて現存しない。
けれど、現在もこの二つのトラス橋は、近接した位置からは勿論、山腹の国道からの俯瞰も含めてここでの鉄道景観を為している。

( * ) 建設時は中央西線の第二木曽川橋梁であった。ところが同時期に建設の中央東線側でも藪原以西の木曽川架橋に第一から第四の木曽川橋梁と命名した。保線区境界が木曽福島とされていたため不都合はなかったのだが、これが田立に変更された際に重複を避けて第五木曽川とされた。

下り線を往く列車は830M、中津川行き。松本運転所の169系による運用である。
現在上下線のトラスは全くの同一設計。増設線(上り線)の支間も既設線に合わせられて100ミリしか違わない。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f5.6 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS4 on Mac.

伊佐領 (米坂線) 1971

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弁当沢トンネルを抜けて明沢川(*1)の峡谷部に架橋された、この1934年竣功のコンクリート拱橋は橋梁名を眼鏡橋梁と云う。直後の隧道も眼鏡トンネルと呼ばれている。かつて弁当沢トンネル出口で交差していた小国新道(*2)の40メートル程下流に所在した石積拱橋である綱取橋(*3)の通称名からの命名と思われる。
この眼鏡橋梁にはメラン式とされる拱橋が採用された。メラン式とは、この架橋工事のなされた1930年代当時には鉄筋に替えて鉄骨を用いた構造を指し(*4)、谷が深く支保工等の設置が困難な場合に選択されたものであった。コンクリートが橋梁材として用いられ始めた1900年頃以降、戦前期には全国で40基が確認されるのみの構造であり、中でも鉄道橋は1917年の中央本線外堀橋梁(*5)との2例に過ぎない(*6)。
ここには、当初設計では16mと22mの2連の鉄桁橋梁を計画していたが、河中への橋脚設置に融雪期の水流阻害が明らかとなって、延長の34mに31.1mの1支間とした拱橋に変更し、25メートルを越える橋梁高にメラン式構造とされたのである。
鉄骨とはしたものの、当時の小国新道は狭隘に加えて半洞門構造も災いし、最大で長さ9メートル重量3トン近い部材の運搬に難渋したことや、隣接して弁当沢隧道が掘削途上で峡谷の現場には仮橋が設けられ、作業進行手順に調整を要したこと等が建設概要には記されている。支保工を用いない鉄骨材の組み上げには、両岸を結ぶ空中にケーブルを渡し、これに部材を吊り下げながら施工する鋼索式が取り入れられ、事前にこれの支持構造(アンカーブロック)が構築された。これの遺構は今も橋梁を挟むトンネル抗口上部断崖に残っているはずである。

この橋梁は宇津峠への25パーミル勾配上に位置し、1959年に供用された国道113号新道上の網取橋(2代)から険しい峡谷に位置する姿見下ろせるようになれば、米坂線での有数の撮影地点と認識されるに至り、60年代末期からには多くの蒸機目当ての撮影者を集めたのは周知の通りである。機関車列車の無くなった今では、その橋梁長に気動車編成では、陸羽東線の第一大谷川橋梁と同じく、些か撮り難くなったのが残念ではある。
* 脚注と参考資料一覧は追記にある。

列車は166列車。
少しでも吹雪かれると視界が取れなくなる。この日は三度目の正直。

[Data] NikonF+P-AutoNikkor50mm/F2 1/500sec@f2.8 Y48 filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR4 on Mac.
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陣場 (奥羽本線) 2011

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陣場 (奥羽本線) 1976 の続きである。

白沢-陣場間の複線化に際しての下り線となる勾配緩和線は、福島起点412キロ付近から左へ分岐し、第一下内川橋梁(102M)を架橋してR600で右回りの松原トンネル(2404M)を掘削し、第二下内川橋梁と続く盛土区間で右に回りながら416キロ付近にて使用中の複線路盤に接続する連続10パーミルの迂回線形にて建設された。ここでの勾配改良の矢立トンネルに並ぶ肝である。これは1971年9月25日に使用を開始し、ここに大館-長峰間の複線化が完了したのである。陣場、津軽湯の沢は共に自動閉塞区間の棒線駅となり、同年10月1日付にて要員無配置駅となった。
なお、この下り迂回線は上り線よりも903メートルを延長し、下り線の416K903M地点にそれを416K000Mに読替える距離更正標が建てられている。したがって、この区間を下りで通過すると416キロの甲号距離標を2度見ることになった。

こうして、1971年の8月31日には白沢-長峰間の大半が新設線に移行し、ほぼ同時に秋田-青森間が通電され(1971年8月25日)電気車両の訓練運転も始められて蒸機の仕業を置替て往くのだが、蒸機運転も残されていたからそこも蒸機列車は走った。
さて趣味的な興味は、無煙化の寸前に供用された前記の下り迂回線を蒸機列車が運転したか、である。
営業運転でなければ、それは有った。1974年の春まで、阿仁合線用に大館に常駐したC11が配属の弘前運転区と出入りする際に、不定期で貨物列車後部連結にて有火回送されていたからである。
それはさておき、本来の奥羽本線蒸機はどうだったのだろう。この区間での定期運用は71年9月26日まで施行と記録されているから、25・26日の二日間にそれの運転された可能性はある。けれど、鉄道誌にもWeb上でも写真を見たことが無い。今や高名な撮影地点となっている第二下内川橋梁の蒸機列車のカットなど話題であろうに、耳にしていない。撮影されているなら、ぜひ見てみたいものと思っている。
DD51形内燃機は通過していた。71年10月1日改正以降も1972年3月まで、電気機関車の不足から普通旅客/荷物列車の大半と貨物列車1本の牽引にそれが残存したのだが、これの写真も発表されてはいないようである。かく言う自分も蒸機撮影に忙しくて撮っていない。惜しいことをしたものとは、後になって思うことだ。

=参考資料=
秋田鉄道管理局 : 運転関係線路図(1967年) 線路縦断面図(1970年)
1971年度鉄道統計年報 : 日本国有鉄道
秋田鉄道管理局史 : 秋田鉄道管理局 (1961)
鉄道ピクトリアル各号 : 鉄道図書刊行会

写真は第二下内川橋梁での2021列車<あけぼの>。
タイトルの80s'を遥かに越えての最近の撮影をご容赦いただきたい。保線基準の緩和から盛土斜面の植生の周期伐採がなされなくなり、畑作地の前縁からは取り難くなってしまった。

[Data] NikonD3s+AT-X300AF PRO 300mm/F2.8D 1/500sec@f5 C-PL filter ISO320 W.B. 5560 Developed by CaptureOne5 Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

小沢 (日立電鉄・日立電鉄線) 1977

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随分と前のことだが、岩手県和賀の牛飼いに聞いたことが在る。放牧場と云えば広大な草原や緩やかにうねる緩斜地を思い浮かべるけれど、実は牛はどんなところでも飼えるらしい。例え急斜面の笹地でも樹林帯でも自分で下草を押し潰して草原環境を創り出すと云う。そのような放牧地で成牛まで育てば、10ヶ月程牛舎で乳を搾り、また2・3ヶ月放牧してやれば良いのだそうだ。
なるほど、酪農と云う農業形態は沖縄を除く各都道府県に存在する。乳牛は圧倒的には北海道のイメージがあるけれど、それは全国の至る所で飼育されているのである。

ここ茨城県も意外なことに生乳の生産量の177,500トンは全国8位の酪農県と云うことになる。勿論北海道が全国生産量の49パーセントを占めるのだが、大消費地である首都圏に隣接する地理的条件からか、栃木・群馬・千葉の関東地域各県とともに上位グループの一角を為している。
常北平野を流れて久慈川に合流する里川を福島県境近くの水源まで遡った八溝山地に、茨城県酪農業協同組合連合会の運営する育成牧場の里美共同模範牧場がある。1960年代初頭に子牛の育成を目的に旧里美村の共同牧場として発足した牧場で、現在では山系の分水嶺近くの標高600から800メートルに80ヘクタール余りの放牧地を有する。ここまで登ってみると場内にはかなりの急傾斜地も含まれるのが見て取れるのだが、確かに牛は何も気にするでなく、そこは等高線の屈曲が見えるような牧草地となっているのだった。

里川の流域には、旧里美村村域に限らず小規模な牛舎と放牧場が散見される。共同牧場が利用出来れば自前での広大な牧場は必ずしもいらないのだ。ここ小沢に近い里川の氾濫原も放牧場に利用され、牛の草食む姿が見られた。
里川橋梁を往くのは、モハ11型モハ12の常北太田行き。日中のワンマン運転には、大抵このクルマが往復していた。
この時点で車齢は30年にならんとしていたけれど、さらに15年あまりを過ごして1992年に廃車された。
北海道函館本線に同名の駅が存在するが、ここは「おざわ」と読む。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4 1/500sec@f4 Y52 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

鯵ヶ沢 (五能線) 1972

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五能線へは岩館あたりに往くでも無い限り弘前側から入っていた。奥羽本線の<津軽>を東能代に降りるよりも、東北本線の<八甲田>からの接続とした方が速達だったからだが、これだと上り列車の鳴沢から鯵ヶ沢への車窓も楽しめた。
五所川原から岩木山を仰ぎ淡々と田園風景を走った列車は、鳴沢の数軒しかない集落を過ぎて鳴沢川への築堤を17パーミルで橋梁上に達すると彼方に日本海の水平線を認め、築堤を降りて一度は視界を去ったそれがR400曲線で左に回れば一面に広がるのである。1971年に初めて出会って以来の感覚は忘れられない。それは深緑だったり、真藍色だったり、鉛の海だったりしたけれど幾度乗っても新鮮な視界と覚えている。

肝心の鯵ヶ沢の停車場は再び内陸側に折れ、海沿いの既存市街地とは中村川を隔てた位置に設けられた。1925年5月15日の陸奥森田からの延長に際してそこの通過を避けたものであろうが、5年後に延伸となった北金ヶ沢を集落間近の山裾の通過としたのとは対照的である。
市街地の迂回は隧道を伴う20パーミルの小さな峠越えを要して、開通遅れをもたらしたのかも知れない。

列車は混合1730列車、東能代行き。
北緯40度の津軽半島西海岸、低い海岸段丘の続く七里長浜の景観は北海道とさほど変わらなくなる。異なるのは手前鳴沢川の低地には水田の広がるところだろうか。
この撮影地点の段丘に今も立つ鉄道屋はいるのだけれど、同河口には1997年6月に大規模な産業港(七里長浜港)が開港して海側を向いての画角は取れなくなった。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor135mm/F2.8 1/250sec@f4 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

会津本郷 (只見線) 1972

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会津にC11を撮りに往くのは会津線の方だった。福島・磐梯の特殊用均一周遊乗車券の自由周遊区間に只見線が含まれなかったからでは無く、川幅のある只見川への多くの上路式トラス橋梁が雄大に過ぎたゆえと思う。使えるレンズも限られたこの頃には、それらの何とも単調な絵柄が気に入らず、画角にまとめるなら上三寄から湯野上で峡谷を刻む大川(阿賀川)沿いの会津線だったのである。
一通り撮ってみて、そう結論していたものだから手元に残る只見線のカットは少ない。

只見線も若松市街地を抜けたところで大川を延長437メートルもの大川橋梁で渡っていた。会津盆地に流れ出てからの大川だから、広い氾濫原を持っているのである。橋脚を連立させての経間の短い22連のプレートガータでの架橋は、1926年10月15日に会津坂下までを開通させた当時の、経費を勘案した架橋技術と云うことなのだろう。
会津本郷からなら至近の距離なのだが、蒸機列車の前後に適当な列車が無くて西若松から歩いたものだった。

期待していなかったロケーションは、足の短い橋脚の低い架橋が開けた周囲に馴染んで意外に面白く感じたものの、やって来た会津坂下までの区間貨物1493列車のあまりに少ない財源には落胆した覚えが在る。以前に見かけた同列車はそれなりの貨車組成だったものだから、画角ももう少し左に振った位置を想定していて、慌てての中途半端は否めない。

会津坂下に転車設備はの無いゆえの機関車運用は、そこまでに勾配はほとんど無いにかかわらずセオリーどおりの下り逆向きであった。軽い財源に列車は思いのほか足早に駆け抜け、それが都市近郊快速運転用とされたこの機関車の本来の姿とは後年に知った。
湯野上あたりでの紅葉黄葉は、まだ盆地まで降りて来ていない。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2 1/500sec@f5.6 Y48filter  NeopanSSS  Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

下呂 (高山本線) 1988

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駅で入手した下呂温泉の観光パンフレットには、益田川の両岸に開けた温泉街全景の俯瞰写真が表紙にあしらわれていた。そして、パンフレットのレイアウト上のことであろうトリミングラインに残るのは、高山本線の第六益田川橋梁に違いなかった。早速に持参の五万分の一地形図を参照すれば、おそらくは下呂駅前から益田川右岸を上流に向かう県道88号線の釜ケ野集落から分岐する林道からの撮影と推定され、それは70年代までは無かったものだ。予定を変更してそこを1時間程かけて登ったけれど、周囲は樹木に遮られて下呂市街を見下ろせる場所は見つけられなかったのである。
カットから見て取れる高度とパースから可能性は薄いとは云え、さらに県道を禅昌寺近くまで進んだ上田地区から柿坂峠へ向かう林道とも考えられ、帰宅後に発行元と記載の下呂温泉観光協会へと問い合わせると、古い写真ゆえはっきりしないが下呂観光ホテル裏手あたりからとの返事ではあった。確かに見下ろした角度はそれらしく見える。けれど、駅近くからも見上げられるその建物の上方の足場らしき位置には覚えはなかった。
次の高山線往きに再び下呂を組込み、下呂観光ホテルへの坂道を上り広い駐車場に立てばその答えは直ぐに知れた。伐採地である。その裏手の垂直にも見える斜面は前記の林道ラインの近くまで、既に成長した植林地となっていた。おそらく、そこの伐採当時もしくは植林のなされた直後に撮影されたカットだったのだろう。杉の苗木の生長は早いから4・5年も経てば人の背丈を超える。
こういうこともある。気を取り直してホテルのフロントに許可を請うてから駐車場の外れに立ったのだった。

高度はちっとも稼げないが、温泉街を背景にした第六益田川は捉えられる。
列車は708D<のりくら8号>。後部2両が富山始発、キロ28を含む4両は高山回転編成である。
1986年11月改正以降、基本4両編成は岐阜方1号車をキハ65としてキロ28の2号車を所定としていた。キハ58初期車やキハ57の廃車にともなうものだが、その組成順は夏期に騒音源となるキロ28の冷房用電源機関の使用停止を意図した措置である。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f4 Fuji SC42filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

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