70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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坂町 (米坂線) 1971

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途中駅から折返運用となる編成を、より以遠への運転列車に併結して送込むのは電車や気動車には容易いことで、運用例は数多在る。かつての機関車列車、客車運転の時代にも例は少ないながらも、この運用形態は列車設定の必要上から施行されていた。
気動車の運用では、線路容量や乗務員運用の都合からだが、機関車列車での例は機回し線の設備の無い駅からの折り返しや機回し時分を確保出来ないダイヤ構成を事由にしていた。
列車は後位が対向する向きで前後に機関車を連結した双頭列車の形態になる。勾配区間なら補機ともなろうが、後部機はぶら下がるばかりが大半だったと思う。

米坂線にもその例が在って、坂町から上り始発の124列車は途中越後下関まで、同駅より坂町行きとなる1123列車編成を後部に機関車とともに連結していた。
道内撮影の途上に米坂線へ坂町から入ると、青森への前途はそこを15時過ぎの<しらゆき>に限定されてしまって半日しかスケジュールが取れないから、それは奥羽本線夜行からの米沢を起点にしていたのだけれど、始発列車となればそうも往かずに午前4時前の坂町に秋田行き夜行<鳥海>を降り立つことになった。半日だけのスケジュールはその夜を新津に戻っての駅寝として翌日に羽越本線を組み込んで一日に延ばしていた。

それが一番列車だから、その前に移動出来る列車は無い。当時には健在だった花立近くまでなら歩く時間は十分にあったけれど坂町に留まったのは、平坦区間に後部機は力行しないと判断したからだった。
小国より1121列車で1番ホームに到着した編成が、その牽引機をそのままに米沢方へ機関車を連結して124列車となる。
朝のひと仕事を終えた機関車が後部でも盛んに煙を上げいた。

[Data] NikomatFT+AutoNikkor50mm/F2 1/250sec@f5.6 Y48 filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR4 on Mac.
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陣場 (奥羽本線) 1976

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奥羽本線の矢立峠区間の勾配改良と複線運転化は、その核心である矢立トンネル(3180M)を含む白沢-長峰間22.5キロに別線を新設する大規模な工事であった。

新線の矢立トンネルは、1968年に着工して温泉肥沃土の地質に悩まされながらも翌69年7月31日に貫通し、1970年10月1日に完成、同年11月5日よりこの区間の複線運転を開始して、矢立峠の峻険を越えていた旧線が失われた。これに際しては、トンネルの福島方では施工基面高101M80の白沢から同190Mに置かれた入口抗口までの10パーミル勾配の維持に陣場構内の嵩上げを要し、さらには白沢から将来に下り線となる増設線が陣場手前の福島起点416キロ付近で既設線を支障するため(キロ程は既設線基準)、白沢-陣場間についても起点414キロから前記の416キロまでは既設線に沿った単線、前途陣場構内までが複線の路盤を新設し、この区間を将来の上り線を使用した単線運転にて既設線より同時に切替とした。
白沢-津軽湯の沢間が新設線の運転となったのであるが、単線路盤の区間には、将来に勾配を下る上り列車の運転線ゆえ15パーミルが存在して、蒸機運転当時に補機の残る要因ともなっていた。
陣場停車場は前記の嵩上げに際して、東に構内を拡張して新線上に駅施設を移設した。同一位置、構内のためそれと扱われていないが実質的に移転であり、白沢方には上下線を分ける分岐器が置かれた。津軽湯の沢も出口抗口付近への移転を要し、此処にも碇ヶ関方に分岐器が設備された。これにて両駅とも運転扱いが残り、引続き要員が配置されていた。

移設された津軽湯の沢から長峰までの区間は、13.5から15パーミルの介在した線形の10パーミル連続勾配への緩和と碇ヶ関-長峰間の唐牛トンネルが電車線架設に断面が不足するため、第3から第5の平川橋梁の老朽化対策と曲線改良を兼ねて、第3平川橋梁の下り方起点430K500M付近までに、ほぼ既設線に沿った複線路盤を新設した(碇ヶ関構内を除く)。これにて、各橋梁はPC桁の新橋梁に移行し、複線断面の碇ヶ関トンネルと(新)唐牛トンネルが新設された。複線運転の開始は1971年8月31日のことと記録される。
けれど、当時にここを列車で通過した記憶からは、少なくとも津軽湯の沢-碇ヶ関間については前記の矢立トンネル供用開始と同時に単線運転で新線に切替えられたと思われる。ここでの記述は手元の秋田鉄道管理局による線路縦断面図や線路略図などの資料に基づくが、肝心の盛岡工事局の局史や工事記録を国会図書館が収蔵しておらず閲覧していないものだから確証がない。
(この項続く)

列車は、松原トンネルを経由する下り新設線上の711D<千秋1号>青森行き。
前2両が米沢からの、キロ28を含む後部4両が仙台から陸羽東線を経由しての編成であった。<もがみ>を後部に連結した仙台編成の姿は、東鳴子 (陸羽東線) 1975 に在る。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8S 1/500sec.@f4 Y52 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

豊後中川-天ケ瀬 (久大本線) 1986

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沈下橋である。
地域により幾つかの呼称があるが、大分県域では「沈み橋」と呼ばれて、全国でもそれの架橋例の多い地域と云う。天ケ瀬から豊後中川へだいぶ歩いた久大本線の第5玖珠川橋梁の直下を交差して沈み橋が在って、北海道にはまず例の無いものだけに珍しく眺めたものだった。この玖珠川の流域には他にも架橋のあるようだが、鉄道の無いところへは往かないので実見したのはこれだけである。D60蒸機の走った時代の写真を見ると、杉河内手前の第9玖珠川橋梁近くにもそれが見て取れるものの、この頃には永久橋に架け替えられていた。

当然ながら沈下橋は谷を刻む流れには架橋されない。大分県域に例の多いのは、この区間のように山中の谷間ながらも谷底平地を持ち、そこを流れる河川が幅の在る浅い河床を形成する地形が広く存在することを示している。
加えての石橋も特徴的に思う。木製の沈下橋の地域では「流れ橋」との呼称もあるそうだから、ここでは確かに「沈み橋」なのであろう。それは低く河床に張付くように架設されている。
石橋には、この地域では日田石と呼ばれる安山岩質の石材を産出したから身近な材料だったに違いない。さらには、江戸時代末期からの肥後石工に師事した豊後石工たちの存在もあるように思うが、彼らの技法の主体は眼鏡橋(アーチ橋)だろうから、その技術の発揮されたではなさそうだ。
この橋に限れば、空中写真の確認から架橋は戦後1950年代のことと思われる。

第5玖珠川橋梁上の列車は639D、大分行き。
キハ58に挟まれたキハ40の車体塗色は、この年から国鉄九州総局が管内配属の普通列車向け運用車の標準として採用したもので、白色3号を基本に窓下に青色23号の帯を配していた。それまで青色23号を使用した国鉄車両は存在しなかったのだけれど、双方とも国鉄制定色に違いなく、九州旅客鉄道に引き継がれたこの塗色も国鉄色だろう。

橋梁近傍、上ノ釣集落の住民に聞けば、ここの「沈み橋」は名を持たないようだった。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S 1/500sec@f5.6 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

藪原 (中央本線) 1972

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1972年9月の中央西線への旅は、物見遊山の気分だったのである。
全線で電化柱の建植も終わったとの情報も得ていたし、沿線への撮影者の出没も多かろうと思われたから、長野で高名な善光寺とやらを覗き、松本から未乗の大糸線を往復したら、折からのDiscoverJapanキャンペーンで浮上した馬籠宿に妻籠宿の様子を眺めに行って、そのついでに蒸機を撮ろうなどと考えていたのだった。なので、南木曽-田立 (中央本線) 1972 に書いたように東京の残暑そのままの出で立ちで出掛けてしまった次第で、撮影機材も軽量化していたし、足元は何とサンダル履であった。
それでも、藪原から国道をサンダルでペタペタと歩き、1966年9月27日の複線化にて架橋された上り線(下り列車運転線)の第二木曽川橋梁に辿り着くと、そこはPC桁に架線まで吊架済みの近代路線然としたロケーションだったのだけれど、やって来る大型蒸機に見入る内に鉄道屋の本性が目覚め、その日の内には運動靴にソックスにパーカを買い込み、しっかりと撮影モードに転換したのだった。結局、馬籠・妻籠には現在まで往かず仕舞いのままである。

この当時の中央西線は、急勾配途上の隧道配置の関係から下り列車の中津川-木曽福島間を後補機とした以外は、補機の次位連結を基本としており、そこは重連の領域であった。上りの木曽福島以南は補機を要しないが、それは中津川への回送と運用によっては落合川からの落合峠に備えてのものだった。
所定では1両牽引の列車でも大抵は重連でやって来たのは、秋の繁忙期に入ってどの列車も荷が重かったためだろう。

列車は869列車、稲沢操車場から塩尻までの輸送力列車であった。
装備を立て直して再訪したこの日、ここは鷲鳥トンネルの抗口上に撮影者が居ると立てぬ場所なのだが、この日他にそれを認めることはなかった。
本務機は、まもなく進入するそのトンネルに備えて早くも集煙装置の排煙開口を閉じている。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2 1/500sec@f4 Y48filter  NeopanSSS  Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

琴塚 (名古屋鉄道・美濃町線) 1984

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私鉄路線に関わる資料をほとんど持っていないものだから、この名古屋鉄道美濃町線の野一色から日野橋を経て下芥見への区間が、1911年の美濃電気軌道による開通以来の新設軌道だったのか、後に県道92号線となる道路上への敷設(即ち併用軌道)が、それの拡幅等の事由にて独立の軌道敷にパーティションされたものかは調べ得なかった。
県道と路盤を共有しているに違いは無いゆえ併用軌道とも思えるのだが、北一色-野一色間には併用・新設軌道の境界標が建植されていて、ここは書類上は新設軌道なのだった。但し、軌道法では併用軌道以外の線路を新規敷設、既設の如何を問わずに「新設軌道」と呼ぶ。

沿革はともあれ、専用の交通路を確保しながらも延々と道路と併行する例を他に知らず、美濃町線ならではの景観ではあった。1975年6月25日の田神線の新設により新岐阜発着が本線系統となって以来、徹明町からの系統は日野橋折返しともなっていたから、その意味でも岐阜市内線の延長のような区間でもあり、この当時には路面電車型低床車体のモ580や590型に札幌市交通局から転籍の連接車モ870型も日野橋以遠区間には運用されなかった。
独立の交通路とは云っても道路の一部には違いなく、民家の軒先に軌道の敷設され、それを掠めて電車の走り去る光景も独特の鉄道風景であり、この線区への何度かの訪問はそれに惹かれてのことである。前にも書いたけれど、それは廃線に間に合わなかった花巻電鉄線や福島交通軌道線の、その写真に見るばかりだった光景のささやかな追体験にもなっていた。

沿線に多数の宅地開発地に複数の大規模団地が立地するなどの沿線人口を抱え、かつ新岐阜への直通の利便性を保持していたゆえ、この日野橋付近に郊外ターミナルを設けての団地バス路線再編成などが考えられたはずだが、永年にわたる利用者の漸減を事由とした2004年度限りでの廃線は、同じ名鉄資本下にかかわらず基幹路線の県道92号線路線に固執する岐阜バスの企業エゴを背景に行政との取引に出た名鉄経営陣に対し、岐阜市当局が適切な交通ヴィジョンを示した上でのインフラ補助を含む指導力を発揮出来なかった結果であろう。
そこには、東海地区に特に顕著な自動車交通優先思想を思う。行政もさることながら、沿線住民は県道の渋滞に左右されず早く快適で定時性を保った交通機関を永久に失うのだが、その廃止提案に対する反対運動は実に盛り上がりを欠くものであった。

写真は、琴塚停留所に接近するモ870の徹明町行き。2000年に複電圧対応改造を受けるまでは徹明町-日野橋間系統に専用されていた。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/125sec@f5.6 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

西岩出山 (陸羽東線) 1973

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従来駅名に温泉地の下車駅を強調して「温泉」を付加する駅名改称はまだしも、由緒在る地名に基づく駅名を行政があっさりと捨て去る事例は後を絶たない。
合併などにより改名した自治体名に合致させる事例が多いのだろうが、その場合の大半の自治体名称は歴史に基づかない「創作」名である。中央本線の平安期からの地名を取った初鹿野を、成立した大和町がわざわざ旧國名を冠してまで甲斐大和を名乗るには愕然としたものだ。温泉駅の前例を盾としたものだろうが、同じ中央線の勝沼は今や勝沼ぶどう郷と云う。駅名は地元自治体のおもちゃでは無かろうに。2次交通の開設も無いのに下車駅を名乗らせた山陰本線の出雲大社口は非難を浴びて神西に戻すかと思いきや、名残惜しそうに出雲を付した出雲神西としている。
ついでに言及すれば、第3セクタ鉄道など鉄道側での駅名遊びも愚の骨頂であり、愛称ならともかく小石浜を恋し浜などと公示までした三陸鉄道には呆れ果てた。鉄道業は基本的に輸送業である。

その点、岩出山町の請願により1964年2月1日に国鉄が西岩出山として設置した駅員無配置駅を、陸羽東線の観光路線化を目論んだ東日本旅客鉃道仙台支社と沿線自治体との協議に乗じて、現地の旧字名である上野目への改称を果たした大崎市(旧岩出山町)の動きは近年の自治体としては希有な例と云えよう。
目地名は全国に散在するが、広義の仙台平野には事例が多い。それは境目の目、すなわち土地所有や利用。地形の変化点に由来すると云われている。

駅は田園地帯の直中に在って、設置当時の短いコンクリートブロック積みの乗降場に、簡易構造での延長部から成っていたけれど、それでも長い編成の気動車列車はホームを外れて停まり扉から飛び降りた覚えが在る。
ここから少しばかり岩出山方向に歩くと第一荒雄川橋梁(438M)が架橋されていた。

1973年の夏には排雪用内燃機関車を転用して暫定的に無煙化されたのだが、冬を前にして全運用に蒸機が復活との報に夜行<いわて>を小牛田に降りたのだった。この日は、午後の貨物列車を撮るのが定番だったここに、始発で向かった。

列車は1791列車。川渡止まりだけれど、財源は765・1795と継送されて新庄まで往く。
この長い橋梁は、大半は氾濫原を渡り左岸に沿う水流は画角に入らない。鉄道院が1914年4月19日の陸羽線としての開通時に架橋した橋梁である。

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor50mm/F2 1/250sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

富山駅前 (富山地方鉄道・富山市内軌道線) 1985

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電気車両は苦手で、路面電車にとりわけ詳しい訳ではない。なので、それを目的に旅に出たこともない。けれど、行く先やその近隣に路面電車が走っていればスケジュールを振っていた。それを撮るのが好きだったのだ。
道内版のほうにも書いたことがあるが、路面電車の撮影は列車ダイヤに規定されることが無い。いつもの人里離れたようなロケーションと異なり、軽量化した機材で店を冷やかしたり喫茶店で一休みしながら街中を歩き回り、気に入ったポイントを見つけたら、長くても10分も待てば被写体がやって来る。撮影チャンスが多いから光線が気に入らぬなら光が回るまで待てば良い。気楽に散歩気分で撮れるところが、緊迫感を強いられるいつもの撮影の息抜きになったのだった。
高山本線への旅では、その南側で名鉄美濃町線を、北端ではこの富山地鉄市内線を一体に撮っていた。

この頃は、70年代の東部線(一部)と西部線の廃止にて環状運転を失っていたこの軌道線が、西町から不二越駅前までの東部線(の残り)と山室線も廃止して、南富山駅前-大学前間6.4キロの単一経路にまで縮小された時期である。それでも、ふたつの運転系統は、ほぼ全日に渡り8分ヘッドでの運行とされ、全線運転の系統と富山駅前折返しの系統が重なる同停留所から南富山駅前の区間では4分毎の運行にて都市内の基幹交通として十分に機能しており、山室線廃止前のデータではあるが、1982年度の一日あたりの輸送量は23800人であった。(日本の路面電車ハンドブック1984年版による)
その後に輸送量は市街地人口の減少と軌を一にして漸減傾向にあったようだが、この運行頻度は維持されて、1997年3月には、県庁前に渡り線を新設して富山駅前折返しの系統をここまで0.6キロを延長する改善も行われた。

2000年代以降の、社会構造の変化にともなう都市の衰退に危機感を抱いた富山市当局の政策の大転換による、この軌道線の新線開業を含む再生についてはWeb上にも論考が多数発表され、ここに繰返さない。ひとつだけ付言させていただけば、それは、そこの軌条の存在が、経路が目に見えると云う鉄道が民心に与える「安堵感」が再評価された結果と思える。街に電車が、列車が走れば「安定感」も生まれるものである。新幹線駅の南北駅前広場の中央を、敢えて線路を通過させる将来計画も、それを考慮したものだろう。
同様の都市問題を抱えながらの、堺市や宇都宮市、まして撤去を執拗に求める福井市の沿線商店主や住民の対応は理解に苦しむ。

西町・総曲輪の商業地区から駅前を経ての官庁・業務地域、古い街並を抜けての富山大橋と変化も楽しい路線ではあったものの、車両は全て単一形式で面白みには欠けた。
乗っているのも、行き違うのもデ7000形。ただし、この前年には路面電車には稀少例だった冷房搭載車が出現していた。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.8S 1/125sec@f8 Fuji SC48 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

江津本町 (三江北線) 1974

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三江線が口羽に達して全通するのは翌年のことで、この1974年には浜原までの三江北線の時代である。加えて、1972年7月の集中豪雨による第一江川橋梁の流失などにて明塚-浜原間不通となっており、ようやく国道が復旧して代行輸送が始まっていた頃である。余談ながら、それまでは第一江川橋梁手前に野井仮乗降場を設けて前途を渡船連絡とし、旅客列車は同駅折返しで運転していた。この仮乗降場は明塚の5キロ程先なのだが、運転、営業上とも明塚駅構内扱いであった。
まだ蒸機の、それも残り少なくなったC56の牽いていた貨物列車は石見川本着発として、本来の1391・1392を朝の下りは江津を50分程繰り下げ、夜の上りは石見川本を2時間繰り上げた変1391・変1392列車にて運行していた。
この年に幾度か通った西山陰への旅では、当然にこの線の撮影を目論んだけれど、この当時ゆえに事前情報も乏しく全線をロケハンするにも列車も少ないとあっては、早速に江川沿いである僅か1キロ先の江津本町あたりでお茶を濁したのだった。
この日は、前夜に米子から下り夜行<さんべ>の客となって深夜の江崎に下車、20分後の上り<さんべ>に乗換えて4時過ぎに江津へ降りたと記録にある。
そこが石見國江津の本来の街なのかは知らぬのだが、山陰本線の江津から丘陵をひとつ隔てた川沿いの谷に屋根の低い石州瓦の趣在る街並が形成されて、三江北線はそこを築堤と第一/第二の江津橋梁で通過していた。江川を渡らない橋梁である。ちなみに、この区間の開通の28年後に設けられた江津本町駅は、この市街地をさらに江津トンネルで抜けた位置に設けられ不便であった。
今は廃橋になった江津橋を渡ると順光を受けてしまうゆえ、民家の背後に足場を見つけて登った。

列車は、石見川本への変1391列車。
列車の仕立ては浜田で行われ、江津までは山陰本線を運転する。江津も含めて三江北線は線内に転車台を持たないから、C56は浜田から逆向運転であった。帰路の変更1392列車はその逆である。1930年代に国有鉄道建設規程(1929年7月15日鉄道省令第2号)の特認、後に国有鉄道簡易線建設規程(1932年5月27日鉄道省令第8号)に準拠して建設されたこの線区は、その想定需要に始めからC12なりC56の運用を前提に転車台設備を省略したものだろう。この場合、主に勾配を上る側の列車が逆向き牽引となっていた。
ここのC56は、1974年12月29日の浜原までの復旧を待たずにDD16に置替られたと聞く。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4 1/250sec.@f8 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

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