70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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碇ヶ関 (奥羽本線) 1983

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津軽平野が南に尽きる大鰐からの矢立峠への平川流域は温泉地帯である。温泉好きとしては、その中の幾つかには泊まっている。勿論矢立峠を含むこの区間での撮影に併せてのことである。
古くは、1969年の親父に連れられての道南旅行の際、青函を越えて足を延ばして相乗温泉に宿泊したことがある。情報の乏しい時代ゆえ、札幌からの予約で峠近くの山峡の宿を想像していたそこの、温泉プールを筆頭にしたレジャー施設には親子ともども面食らった覚えが在る。それでも、峠に向かう前補機、後補機の蒸機の谷間に響き渡る轟音には驚き、床に入っても胸の高鳴ったものだった。その翌日の撮影は、決して鉄道屋ではなかった親父の何万と云うカットの何処かに埋もれているはずだが、まだ辿り着けていない。
湯の沢温泉には、それから随分と後に津軽湯の沢駅で雨に降られた際、思いついて駅前から電話を入れると迎えに来てくれると云うので泊まりを決めたことがある。この平川支流の湯の沢を遡れば、その沢沿いに3軒の宿が在ったのだが、この時泊まった「湯の沢山荘」はとっくに廃業してしまい、最後まで残った一番奥の(これが本来の湯の沢温泉)「秋元温泉旅館」も2102年秋に休業(実質的廃業)して、失われた温泉地となった。
ここが何れも後継者に恵まれずに廃業に至ったのに対して、秋田側の日景温泉は娘さんがこれを継いで現在も盛業中である。大湯沢を遡った谷間の1軒宿だけれど規模は大きく、旅館部の本館を始め湯治部の建物が散在していた。温泉は勿論、その古い木造の落ち着いた佇まいに、渡道の予定を遅らせて二泊をここで過ごしたものだった。
若くして亡くなった大館出身の友人が、その病の原因も突き止められぬ頃に医者の勧めで療養していた地でもあり、湯治のじさまばさまに囲まれての生活を見舞った思い出もある。

かつて補機の解結駅だった碇ヶ関も温泉地である。1895年10月21日に青森からの終端駅として開業した停車場が集落の手前に置かれた関係で少し歩かされるのだが、平川を渡ったそこには小さいながら温泉街が形成されていた。
翌朝、その日は津軽湯の沢までゆっくり歩くつもりでいたので、まずは車窓からも見えた大山祇神社へ向かい、線増工事で生じた切取りの小山から民家の裏庭を見下ろした。
8502のスジでやって来たのは、12系による創価臨。宗教的な事由なのか、暑い日にかかわらず冷房を使用していない。

[Data] NikonF3P+AiNikkor28mm/F2.8S 1/250sec@f8 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.
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福来信号場-焼石 (高山本線) 1988

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国鉄が高山本線の「総合輸送改善計画」を発表したのは1967年のことだった。当時の中部支社によるプレスリリースには「現在の単線鉄道を前提としつつ、その単線鉄道に近代的な技術・施策を総合的かつ集中的に施行し、単線鉄道の抜本的な衣替えをはかることによって複線鉄道に近い効果を発揮させるようとする線区総合輸送改善計画」と在る。
同文書は計画に至った事由を、旅客・貨物ともに1950年代後半以来の輸送量の伸びが、同規模の亜幹線である磐越西線や日豊本線に比して遥かに大きく、沿線に高山や下呂のごとき観光地を擁し、北陸と東海地区とを短絡する重要線区にあっては現状設備では今後の輸送需要に応えられないためとしている。
計画は、設備面で内燃車投入による全線での完全無煙化、線路容量を上げる信号場や既設停車場への行違設備追設、そして全線へのCTC制御方式の導入の各施策により、列車増発に到達時分の短縮を図り、併せて線区営業体制を強化して、総合的な線区の体質改善を行うものと説明されていた。
けれど、この1960年代後半は米原経由で東海地区と富山方面を結ぶ北陸本線は各所で勾配改良に線増が進められ、電気運転も糸魚川まで達していた時期である。早晩に貨物需要の転移は予期されたし、観光需要も飛騨古川以南区間に留まることも予想の範囲に在っただろう。
高山本線「総合輸送改善計画」が国鉄部内においてモデルケースとされたのは、CTC制御導入による省力化を中心とした経営改善効果であり、それがこの計画の本質であった。線区営業体制「強化」とされたのは、国鉄に対してであり、貨物扱い駅の集約化や多くの駅での駅員無配置化を伴っていた。
列車運転とその管理の近代化の手段として1958年5月に伊東線で試行され、1962年に横浜線へ本格導入されたCTC制御方式は、この高山本線でその本来目的とは異なる「成果」を踏まえて、以後国鉄はこれを線区経営改善の道具として全国的に活用することになる。

計画は1967年度を初年度とした3年計画であり、飛水峡、福来の信号場の新設、千里への交換設備設置、白川口と飛騨古川での本線有効長延長に各急行列車停車駅での乗降場有効長の延伸が進み、先行した高山-猪谷間の無煙化も1968年1月21日を以て達成して迎えた、1968年10月1日のダイヤ改正が計画半ばでの第一次輸送改善とされて、高山以南区間での一定の無煙化とCTC制御の本格運用により特急列車を含む優等列車増発に所要時分短縮が実現した。
けれど、これにて十分に「成果」の確かめられたものか、工期の関係からの高山以北区間でのCTC制御運用を1969年9月30日として計画は縮小されてしまい、当初計画の焼石-少ケ野間と飛騨小坂-渚間、坂上-打保間の信号場に飛騨宮田への交換設備配置、坂上と笹津での本線有効長延長は実現せずに終わっている。

写真は、下原ダムの堰止め湖岸での871列車。飛騨一ノ宮構内に在ったセメントデポへの列車である。
全線を通す貨物列車は1984年2月改正で廃止されており、中間区間には、このセメント列車と上枝への石油輸送列車だけが残されていた。

[Data] NikonF4s+AiNikkor50mm/F1.4S 1/250sec@f8 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

小波渡 (羽越本線) 1972

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北陸本線・信越本線とともに日本海縦貫線を構成していながら、それの線増計画が第二次五カ年計画から着手された前者に対して、1965年度を初年度とした第三次長期計画に組み込まれたがゆえに、隘路区間からの部分線増に終始し現状の固定されたのが羽越本線である。ご承知のとおり、それは単複を表示する地図表において、図示する縮尺が合わずに本線のみが別表示される。
計画自体が資金面にて行き詰まり1968年10月の白紙改正を成果として中止され、ここには多くの未着工区間が残されたのである。
その後には、1969年に日本海縦貫線の動力を統一化すべく無煙化には電気運転が選択され、1972年8月5日にそれは開始されるのだが、線増工事は輸送計画上から必要とする区間に限られて散発的に継続されたものの、国鉄財政の悪化から1983年に全ての計画が凍結され、1978年9月26日に使用開始の小波渡-三瀬間を最後に現状となっている。

この線区での線増は、通常の腹付け工事以外では、海岸線の断崖下の区間など災害対策から山側への隧道を伴う複線別線建設ばかりでなく海岸線廻り線を現状としての単線別線線増の選択された区間も多い。防災上に懸念の低ければ資金上から採用された線形であろう。また、複線路盤の別線を置きながら既設単線を単線のままに切替えた区間も存在する。これは、防災を優先させた措置であった。
さらには、小岩川-あつみ温泉間のごとく、住吉山トンネル(1395M)と宮名トンネル(1805M)の2本の隧道が1984年3月の竣工以来未供用にて放置されている事例もある。

この1971年当時は、第三次長期計画で着工された区間は一通り複線使用が開始されて、電気運転化工事のすすめられていた時代である。ここ小波渡から三瀬への区間に八森山トンネル通過の別線の建設されるのは後年のことで、海際の断崖区間に電化柱の建植が進められていた。
第二笠取トンネルへ歩いて山側の崖をよじ登りポジションを確保すれば、波渡崎と北西風に荒れる堅苔沢の海が背景に広がる。機関車は10‰の勾配に力行してくれた。
列車は1983列車。
北西の強風に長時間煽られた海面は、まるで洗剤を撒いたように泡立つ。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2 1/250sec@f4 Y48filter  NeopanSSS  Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

楢原 (会津線) 1972

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会津線は、その核心区間とも云える桑原から湯野上の先までの大川(阿賀川)の峡谷区間を抜けると、田島盆地へと続く広い谷に出る。大川はそこにも渓谷を刻んで流れているから、平地は河岸段丘面である。
弥五島から楢原へも、その段丘面上を通過するものの、途中にて大川の攻撃斜面側の断崖を橋梁に橋坂トンネルを穿っての線形となっていた。大川屈曲部への二度の架橋よりも隧道が有利との選択なのだろう。比戸岩と呼ばれる断崖は、会津滝ノ原までの前途に、加藤谷川橋梁に山王川のコンクリートアーチ橋程度しか見るべき構造物の無い中では、それなりのポイントになっていた。当時には、河岸の木々の樹高も低くて国道から畦道を辿れば対岸を容易に見通せたのだった。

この当時に、既に会津滝ノ原での貨物扱いは廃止されて、貨物列車は会津田島までの2往復が設定されていた。全線での牽引定数18(180t)に対して、桑原-湯野上間に存在した20‰勾配に上り列車での後補機運用も組まれていたのだが、輸送量が低下していた時代ゆえ施行を実見したことはない。
朝の下りの1391と、それが夜間に上る1392はトキやトムの無蓋車中心の組成にて、田島への貨車には違いないが、夜間にかかる1392を見ていないものだから上下のどちらが積車か、果たして積荷は何であったかは分からぬままである。下りのそれはシートが掛けられていたから、これが積車かも知れないけれど、そうとすれば積荷の嵩高は無蓋車の車高を超えぬものである。
1393と1390は昼間に湯野上で交換するダイヤとされ、これらは無蓋車を改造した木材チップ専用車中心の組成にて、これは勿論上りが積車であった。

写真は、第一橋坂橋梁(39M)上の1391列車。
機関車次位に緩急車を置いて、一般貨車組成の後位側に無蓋車が組成されていたこの列車では、車高の低いそれが続くのが写真的には気に入らず、ロングショットでなければ意図的に画角から外していた。
橋梁下の廃道は国道121号線の旧道である。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor135mm/F2.8 1/500sec@f4 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

下小川-西金 (水郡線) 1981

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久慈川は茨城・栃木・福島県が境を接する八溝山を水源に棚倉盆地へ向けて北東へ下った後に八溝山地と阿武隈高地間を南流する河川である。その中流域の矢祭山付近から常陸大宮付近までは山地狭窄部に陥入・蛇行を繰返す峡谷をなしており、奥久慈渓谷と呼ばれている。

ここは清流としても知られ、内水面漁業における鮎の漁獲は那珂川の年間880tには及ばないが、395tは全国で第三位の漁獲量である。(2004年農林水産省漁業・養殖業生産統計年鑑による)
水が良ければ、流域はその伏流水を利用した酒造地帯でもあり、奥久慈地域では山地を隔てて同じく南流する支流である山田川や里川の流域も加えて、この1980年当時には12もの酒造場が稼働していた。(福島県側の3場を含む)
何れも年間の石高は最大の大子町の家久長本店でも2000石程、後は1000石に満たない小蔵ではあるけれど、それぞれに味わい在る酒を造って来た。
袋田の滝を上流の大野川に辿ると大子町内大野に珂北酒造がある。石高は500石に達しないと思われる小蔵で、それこそ現地に向かわなければ入手困難な酒である。その「常陽旭桜」は蔵付酵母で発酵する。
蒸米と麹に水を加えて酵母を培養する酒母の工程においては、生酛にせよ山卸廃止酛にせよ、何処からともなく進入する野生酵母に対しては、日本醸造協会の頒布する優良な清酒酵母を大量投与してこれを淘汰するのだが、1896年に前身の斉藤酒造店の創業以来のこの蔵には酒造に適した酵母が棲み付いて、酛摺りの酒母に入り込むのである。
野生酵母の類いは、醸造が科学的に説明される前の時代には腐造を引き起こす元凶であり、仕込みに年間の収益を注ぎ込む酒造家には恐れられた事態であった。蔵に住む野生酵母が酒造に適していたとは、誠に幸運と云わざるを得ない。
蔵元は「(野生酵母ゆえ)酸が出てしまう」と云うが、その酸度1.5ないし1.6がここの酒の特徴でもある。飯米を用い65%に抑えた精米にて引き出した米の甘みとの整合に利の在る純米酒が旨い。

2013年の現在、塙町の家満寿美、旧里美村の東魁酒造、常陸太田市の平山酒造は廃業してしまっている。それでも、奥久慈地域での9場の稼働は、酒の置かれた現状を思えば酒呑みには有り難いことこの上ない。

写真は、国道118号線大内野橋からの4311D<奥久慈1号>。後追いである。
上野から1411D<ときわ7号>に水戸まで併結され、常陸大子からは普通333Dとなって郡山まで直通していた。<ときわ7号>は水戸止まりだったから、実質的には<奥久慈>の水戸回転編成とも云えた。
当時の水戸機関区の急行用気動車には非冷房車も残存して、それの混用時には冷房搭載車でも使用しないのが通例であった。
奥久慈に定番の水の風景。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor105mm/F1.8S  1/125sec@f8  Y52 filter  Tri-X(ISO320)  Edit by CaptureOne5 on Mac.
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面白山信号場-山寺 (仙山線) 1980

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仙台からの仙山線始発は7時近くで遅く、紅葉川の渓谷区間で朝から撮ろうとすれば早朝の山形に降り立つ必要があった。北海道への周遊券でその経路とするには、福島から仙台までの羽前千歳経由乗車券の別途購入を要したけれど、行きがけの駄賃には釣り銭の出る気がしていたものだ。
この線区は仙台と山形の都市間連絡線ばかりでなく、その先の新潟や酒田とも結ぶ地域幹線としても機能していたから、長編成の気動車急行に455系の電車急行、ED78の牽く旅客に貨物、さらには気動車の普通列車も通過してルーラル線区らしからぬ存在だったのである。

山寺から面白山乗降場へは、今、山形市道所部紅葉川線となっている紅葉川林道を歩いていた。千手院観音の大屋根を戴く集落の佇まいを遠目に眺められたからだが、所部集落を過ぎて棚田を登った先で所部沢を上流へ迂回して、鉄道撮影の目的には余計に歩かされた。
山道へ急いで、その千手院前を通過する紅葉川右岸を選べば、通り過ぎるには惜しい集落風景を歩いて、これも棚田脇を登ると山峡に入り、天童高原への林道を分けて第二紅葉川橋梁下を通り紅葉川林道に合流していた。この先で、林道は再び分岐するのだけれど、一方は渓谷の水流へと降りる道で鉄道屋には無縁だった。
この紅葉川林道は、その随所から仙山線の線路を眺められ、朝に山寺を降りて午前中を里の区間で午後から山峡に入って夕方に面白山に至るか、あるいはその逆経路で一日を過ごすのを定番にしていた。新緑と深緑に、紅葉黄葉の頃、何処からとも無く沁み出す清水に濡れた林道を踏み締めながら歩く凛とした空気感は忘れられない。

第一紅葉川橋梁を見下ろす尾根のあたりから上流側を眺めると、深山の趣の線路が見通せた。
実際に渓谷の深山に違いなく、盛夏に砂防ダムの水流を見るこの画角は、水の風景である。
列車は827列車、山形行き。軽軸重に交流回生制動のED78は、この線区の運転用に新製された機関車である。

[Data] NikonF3HP+AiNikkorED180mm/F2.84S 1/250sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

大湊運転区 (大湊線) 1973

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現在も、大湊線営業所が置かれるように、大湊はこの線が大湊軽便線として1921年9月25日に全通して以来の拠点である。開業と同時に機関車の給炭/給水などの駐泊施設が設置され、それは1939年12月6日には大湊機関区となって、本線上の野辺地に逆に支区が開かれた。

大湊線は、戦後復興する国鉄路線の中に在って既に非採算線区に位置づけられたらしく、1956年10月1日から仙石線にて試行し経営改善効果の認められた「管理所」方式の導入が図られ、1958年10月20日付にて1939年に開業していた大畑線を含めて線区内の駅や機関区、車掌区に保線区などの現業機関を統合した大湊・大畑線管理所が大湊に置かれた。
その上で、所長に鉄道管理局長権限を大幅に委譲し、あたかも独立線区のように総合的に現業管理を行わせるのは現在の地域鉄道部や営業所と同じ発想である。以来四半世紀に渡ってこの管理機構は存続したから一定の経営効果のあったものなのだろうが、増収が目的ではなかったから経営合理化を極限に達成してしまえば存在意義のなくなって、1972年10月20日付にて廃止されたのだった。
その際に運転検修区所は機関区では無く、大湊運転区として再設置され、この1973年当時にはC11の3両に、キハ22-7両、キハユニ26-3両の営業車両と救援車オエ61が配置されていた。
運転区に統合されたとは云え、施設の配置は引き継がれたから、転車台と小さな扇形庫の機関庫は場内信号機手前の本線脇に、2線の庫内線を持つ木造の検修庫と庫外線の2線に洗浄線1線を有する気動車区所が乗降場を通り過ぎた構内の奥に置かれていた。検修庫には貨車も停められており、施設自体が客貨車区からの転用だったのだろう。機関車への給炭・給水の設備は機関庫から構内を横切る小荒川を挟んだ乗降場脇に在った。

ここの転車台は、回りを野の花や草に囲まれたロケーションで、輸送現場としての機関庫らしくは無いのだった。
今、東日本旅客鉄道のJR大湊寮の建つ位置である。

[Data] NikonFphotomicFTN+AutoNikkor50mm/F2 1/125sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

八幡神社前 (仙台市交通局軌道線・八幡町線) 1974

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仙台の旧市街地は、ここで青葉山丘陵を流れ出た広瀬川が形成した河岸段丘上に発達し、やがて沖積平野部にあたる奥州街道の宿場町であった長町、石巻街道上の原町と一体化した。
そこに営業した仙台の市内電車の路線はその地形に従い、上町段丘から中町段丘を環状に繋いだ循環線の緩い起伏や、中町段丘から下町段丘へ下る長町線の舟丁あたりの急坂、丘陵地手前まで登った八幡町線の坂道が記憶に残る。長町駅前停留所付近と八幡神社前停留所付近の標高差は50メートル程在った。
60年代後半に身近だったはずの札幌の路面電車にさほどの魅力を覚えなかったのも、70年以降の内地からの道内通いの途上に幾度か仙台に降りたのも、その縦断線形による趣だったと思える。

1920年代からの仙台市当局による市内軌道線の建設は、各所で市街地の整備を目的に道路新設・拡幅と一体で行われたのに特徴を見いだせる。この八幡町線も1940年12月28日の八幡町一丁目停留所(廃止時八幡一丁目)までの開業時には、それの通過する北4番丁通りを北3番丁から通じていた作並街道(現国道48号線)まで延伸しての敷設と聞く。八幡小学校下のカーブがその名残である。
循環線の大学病院前で分岐して八幡神社前まで僅か1.5キロの路線なのだが、市街地北東の丘陵斜面中腹を横切り、起伏を繰返しながら約10メートルを登る路線であった。
沿線には広瀬川へと続く傾斜が続いていて、その坂道を上れば発電所の在った三居沢の方角も眺望出来たのだが、それを電車と捉えるには周囲の住宅が邪魔をした。
この斜面には良水が湧いて、惜しくも廃業してしまったけれど、風雅な木戸をくぐる「天賞」の蔵はこの沿線に在った。市内電車の廃止されてから大分経ってからそこを訪ねて、電車を撮った場所と気がついた。

この坂を登り切れば龍寳寺の釈迦堂に往き着く。
探してみたけれど、市内電車を見下ろせるのはこの位置だけだった。日射の低い、冬の午後である。

[Data] NikonF2A+AutoNikkor180mm/F2.8 1/500sec@f5.6 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by CaptureOne5 on Mac.

黒沢 (北上線) 1975

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北上線は、奥羽地域の中心都市である仙台と同地域日本海岸の秋田とを結び、特急列車も運転される主要経路であった。その営業キロ程の267.2キロは仙台-盛岡間東北本線上を起点とする4本の横断線経由の中で最短距離であり、それらに設定されていた同区間直通急行列車でも陸羽東線や田沢湖線経由の5時間を越える所要時分に対して1時間を短縮しており、特急に至っては東北線内での120km/h運転により3時間50分台を実現していた。両地区間の貨物輸送においても多くの列車が通過した重要線区に違いなかった。

現状での同線の零落は82年11月15日に盛岡までの全面開業を迎えた東北新幹線からの秋田への接続線とされなかったことによる。距離・所要時分とも優位であったにも拘わらずの田沢湖線の選択は、60年代の建設であった同線の県境区間に介在する長大トンネルが電化断面を採用しており、盤下げを要する隧道延長の短かいことが事由とされたのだが、盛岡までの新幹線乗車による料金面や北上線に比して43.6キロを増加する運賃などの収入増が勘案されたのも違いあるまい。
電化接続線が標準軌直通線に進展した今、北上線経由であれば東京-秋田間所要時分がより短縮されたのは確かであり、長期的視野では如何な選択だったのだろうか。

仙台-秋田間を最初に直通した優等列車は、1959年12月1日に設定され、翌60年3月15日より定期列車となった準急<たざわ>であり、それの陸羽東線経由が先行した。
北上線(当時には横黒線)経由での設定は1962年7月15日から運転の急行<あけぼの>だが、所要時分を4時間40分に短縮していたものの、奥羽北線区間の都市間連絡も兼ねた仙台-青森間設定のため仙台-秋田間の用務旅客には相応しい時間帯設定ではなかった。<あけぼの>の愛称は66年の横黒線から北上線への線名改称を受けて、68年10月改正にて<きたかみ>に改められる。
その改正以降、同じ東北本線上の仙台と福島、盛岡、青森は特急列車の頻発運転がなされ、山形も奥羽山脈を越えるとは云え仙山/奥羽本線にて60キロばかりの距離にある中で、唯一取り残された秋田との用務向け列車の設定が喫緊の課題であった国鉄仙台駐在理事室は、69年度末から奥羽線<つばさ>に運用していたキハ181系気動車編成の秋田における長時間間合いを活用し、毎日運転の臨時列車ながら1971年3月20日より北上線経由の特急<あおば>の運転を開始する。
そして、翌72年3月15日改正にてそれを定期列車とすると同時に、逆時間帯へ秋田基準の<きたかみ>を増発、北上線経由優等列車を3往復としたのだった。

<きたかみ>は、西日本地区に対して非冷房車ばかりだった奥羽地域の気動車急行の中で、優先して冷房化が進められた秋田鉄道管理局の看板急行であった(*)。けれど、それの間合い運用では決して冷房を使用しない「殿様」振りも見せていたのである。
写真は、通票授受に速度を落として通過する702D<きたかみ1号>。
この直後にノッチを投入してエギゾーストとともに加速して往くのは、見ていても乗っていても気動車らしく楽しい瞬間だった。

(*) - その事由は、仙台-青森間列車が秋田以北で全車冷房化のなされた金沢所運用の<しらゆき>と併結したことによる

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8S 1/125sec.@f8 Y48 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

越後金丸 (米坂線) 1971

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1967年8月28日、この日早朝から新潟県下越地方および山形県中南部に降り始めた雨は、山形県小国町の24時間雨量で532ミリ、その雨域中心であった新潟県関川村では29日昼頃までの30時間雨量が700ミリを越えるなど記録的な豪雨となり、飯豊山系を水源とする三面川、荒川、胎内川の流域に甚大な被害を及ぼした。後に「羽越水害」と呼ばれる災禍である。これにて、荒川に沿って敷設された米坂線もまた壊滅的に被災したのだった。
主なものだけでも、大石川橋梁と第三から第五までの荒川橋梁で橋桁が流失し、それを免れた橋梁でも橋台や橋脚基部に洗掘を生じた他、法面に築堤の崩壊、道床消失や土砂流入箇所は数えきれぬ程であった。水没した小国駅構内に流木と共に浮かぶ貨車のニュースフィルム映像に衝撃を覚えた記憶がある。
この事態に国鉄は鋭意復旧に励み、米坂線は10ヶ月後の68年6月28日に全線で列車運行を再開した。

これを思えば、被災規模は容易に比較出来ぬし、復旧における思想も当時と現在では異なることを承知しても、同様に山間部に位置して近年に災害による長期不通を生じた大糸線や高山線、越美北線、美祢線などで復旧に要した、1年超や3年近くの期間は異例に長い。復旧費用を圧縮しつつの経過と推定され、資本の論理と思い当たる。名松線は紆余曲折の末、復旧が表明されたものの未だに着手されず、只見線では当該区間の廃線を前提に世論誘導を謀る始末で、基幹輸送機関を民営とした弊害と見て取る。
少々脱線するが、道内で相次いだ車両火災にともなう列車の運休措置についても、本来ならば全国より気動車に限らず予備車を動員して(借り入れて)代替すべき事態であり、観光特急は既定運行など国民を嘗めているとしか思えない。
それの出来ぬ(やらぬ)のも根は同じである。これら事例だけでも、極めて政治的な背景から恣意的に、且つ強引に進められた国鉄の解体政策は誤りと言わざるを得ない。

写真は、越後金丸上り方での164列車。
豪雨にて水量を増した荒川の激流は、この広い谷一杯に広がり全てを押し流した。後方川縁に見える越後金丸駅の如何にも土地には不似合いなコンクリートの駅本屋は建替えによるものである。この際には、それを一部2階建てとして、そこを宿直室兼用の避難所とした。

[Data] NikonF+P-AutoNikkor50mm/F2 1/250sec@f5.6 Non filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

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