70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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女川 (石巻線) 1972

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小牛田から石巻まで、鳥谷坂の一箇所を除き大崎平野に点在する丘陵地を避けて建設された石巻線だけれど、1939年10月7日の女川までの延長に際しては、北上高地がその最南端で牡鹿半島に収束する低い海岸丘陵を越える線形が選ばれ、20パーミルの勾配が介在していた。陸前稲井の先の大和田トンネル(623M)と女川手前の女川トンネル(640M)の前後区間である。
この延長以前からこの区間に存在し、代替にて廃止された金華山軌道は北上川河口に近い石巻湊を起点として女川街道沿いに万石浦北岸に出て、浦宿からも丘陵の谷を抜けて鷲ノ神に達し、そこに女川駅を設けていた。石巻線の延長線は万石浦沿いをトレースする区間こそ、ほぼ金華山軌道の経路を踏襲しながら、その両端で峠越えを選ばざるを得なかったのは、それぞれ既存市街地の通過となって用地確保が困難であったためであろう。
1939年当時、女川の市街地は鷲ノ神地区に発達し、現在の女川地区は役場に学校が設けられた程度の新興地区だったから、女川駅は必然的にここに置かれることとなり経路上に女川トンネルを要したのだった。

駅前広場の左の道を線路沿いに辿れば、それはやがて小道となって斜面に取り付き、周辺から18パーミルを登る曲線が見下ろせた。石巻線は大崎平野の平坦線でもC11には重たい貨物にそこそこ力行してくれたけれど、本格的に煙を期待するならこのポジションが好ましく、幾度か立った場所だった。仙石線支線の釜発着列車が上りの逆向き運転に対して、転車台の在る女川発着は常に正向運転も有り難かった。

列車は868列車、女川港からの小牛田行き。
施工基面高で10メートル程の列車位置あたりまで、過日の災禍は押し寄せた。

[Data] NikonF+P-AutoNikkor50mm/F2 1/125sec@f5.6 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR4 on Mac.
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深浦 (五能線) 1984

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道内版にも何度か書いているけれど、近年に酒蔵の数は減り続けている。1940年頃には7千場余りを数えたそれは、アジア太平洋戦争戦時下の統制にて約半数まで減らし、戦後の1955年に4021場まで回復するものの、以降には減ずるばかりとなっている。偏に酒の消費量の低迷によるもので、60から70年代には合同や合併にて凌いだものだったが、80年代からこの方には廃業が続いて、国税庁による2009年度のデータでは1642場とある。これも酒造免許を有する酒造場を計上した数で、休醸蔵や醸造を他に委託した蔵元を含んでおり、実際の稼働蔵は1302場であった。

津島美知子は1978年に発表した『回想の太宰治』で、疎開先の甲府も空襲で追われ故郷金木へと向かう太宰一家の旅を振り返っている。甲府を出て2日後、上手くすれば当日中に五所川原に着けそうな奥羽線の車中で、乳飲み子も抱えて疲労も頂点に達した美知子を他所に太宰はその日の深浦泊まりを決めてしまう。それは、美味い酒を求めてのことと、美知子は書いている。
結局のところ時局柄それは果たせなかったのだが、前年に『津軽』の取材でここを訪れていた彼を再び誘った酒は、何と云う蔵元の酒だったのだろうか。生半可な知識では調べ得なかったけれど、そこの地酒に違いないだろう。
何れにしろ戦後には失われ、以後の深浦は蔵の無い街である。

酒造場の廃業の続く一方で、酒蔵を喪失した土地での地酒復活の動きがある。中には休醸中の蔵を復活するケースもあるのだが、多くは地元産の米、場合によっては水までも稼働中の蔵に持込んで醸造を委託し、それを地酒と称するものである。
これには、酒の造りは何処へでも移出/移入可能な原料米ばかりでなく、そこに湧く水に土地の気候に人の暮らしの風土の集大成と思っている酒呑みは、少しばかり困っている。
今、深浦では、その産米を白神山地の湧水で弘前市所在の六花酒造が仕込んだ「白神の詩」なる純米酒が売られている。呑んでみれば、それは酸度がやや高めに出る「じょっぱり」に代表される六花酒造の酒である。少なくとも海辺の磯ではなくて、酒呑みは困惑してしまうのだった。

ここでのポジションとなれば、やはりこの行合崎手前の岩礁海岸だろう。上を往く国道からは勿論、線路端でも、海岸まで降りても、岩礁によじ登っても撮ってみたけれど、まとめ難い手強いロケーションでもあった。
列車は1736D、東能代行き。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.8S 1/250sec@f8 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

飛水峡信号場-白川口 (高山本線) 1981

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近年、鉄道屋の撮る写真に写り込むものに陸上移動局との通信に用いられる基地局の鉄塔がある。陸上移動局の大半を占める携帯電話端末の爆発的普及以降、それは最早日本の景観のひとつと云えようが、例えば山間の鄙びた集落に建つ姿は避けたい光景だ。
同様の存在は、古くは高圧送電線の鉄塔であった。積極的に画角に取り込んだこともあるが、谷を越える送電線に山上の鉄塔を、どうしても避け得なくて撮影を諦めた覚えも在る。
反面、山中の鉄塔は、そこに至る保守用通路の存在も意味しており、斜面の移動にそれを辿ったことは幾度もある。

最近のこと、電力各社は「テロ対策」の名目で送電線位置情報の国土地理院への提供を停止しており、その記号は最新の地形図から消えている。衛星写真にも明確な存在が国土の基本地図に反映されないのは、何やら戦前の情報統制の時代を思わせ、一方で電力設備系統図で存在を公表していながらの、その姿勢を危惧する。
高圧送電線は電源地帯と大消費地側をダイレクトに結ぶもので、電力各社は、近年に系統安定度の確保や供給信頼性の向上からそれの多重化を進めた。
中部電力も浜岡原子力発電所からの迂回線として、愛知県豊田市所在の愛知変電所と岐阜県郡上市美並にある岐阜開閉所の間に500kV送電の幹線路-愛岐幹線を1970年代末までに完成させ、愛知県御嵩町から岐阜県恵那市域を経由したそれは、郡上市に向けて七宗町(ひちそうと読む)の山林上空を通過していた。

美濃太田からの飛騨川の谷は次第に狭まって上麻生からは遂に峡谷となり、高山本線は、ここから笹津までが中部地方山間部の長い横断区間になる。
上麻生と次駅白川口の間は、早速に飛水峡信号場を置いて10キロ弱の駅間があり、撮影にはひたすら歩くことになるのだが、上手くしたもので白川町と境を接する柿ケ野集落までは七宗町の町営バス川並線が国道41号線上に運行されている。これを終点まで乗り、集落を巻くように尾根に続く道を辿れば、それは愛岐幹線の送電線鉄塔建設に際して整備された道であり、その一基の根元に往き着く。
そこからは、飛水峡沿いに続く線路を見渡せた。これは送電線の恩恵の方のひとつである。
列車は、80系気動車による1035D<ひだ5号>。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor105mm/F1.8S  1/250sec@f8  Y52 filter  Tri-X(ISO320)  Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

川渡 (陸羽東線) 1972

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陸羽東線は堺田の前後に連続した18パーミル勾配に重量貨物列車には補機を要し、その解結駅の川渡には機関車駐泊所が設けられていた。この施設が何時置かれたものかは調べ得なかったが、おそらくは、この線が1914年4月19日に岩出山からここまで延長された際と思われ、終端駅設備であると同時に将来の新庄への全通時の補機運用拠点化を見越したものであったろう。
以来、日本海岸と結ぶ物資輸送の補機仕業に貢献したに違いないのだが、この1971年10月1日改正ダイヤでは、ここから補機を運用するのは昼間の1793列車のみであり、給炭/給水施設に転車台は稼働していたものの、駐泊庫は既に保線車両の収容に転用されていた。なお、この施設は小牛田機関区の分所ではなく駅に所属するものである。
当時のダイヤにおいて、小牛田-新庄間を通過していた下り貨物列車は4本が設定されていたのだが、その内の1本を堺田まで2本に分割した運転が興味深い。補機に要員運用の削減を意図したものである。
小牛田を早朝5時45分に出発した1791列車は川渡から765列車に継送されて堺田に10時11分に到着する。これを小牛田から牽いて来た機関車は切り離され川渡へ戻り、この日の1793列車の補機運用に就くのである。一方、貨車編成は日中を堺田にて留置され、小牛田を14時15分に出た1795列車の前位に連結されて新庄に21時に到着した。1791に連結された貨車は線内通過に実に15時間余りを要するのだが、これにて1791/1795は補機が不要となり、それだけ要員も削減されていたのである。
このような、重量貨物列車を分割して勾配の頂上まで運転し前途を併合する輸送方式は、機材に要員も不足した戦時下を中心に全国の各線で行われていたものと思われ、ここに見られたのはその名残であろう。戦後には陸上輸送をほぼ独占していた国鉄の「殿様」商売の残滓でもある。

川渡の転車台は、給炭場の奥に林を切り開いて設置され、それに囲まれるようなロケーションにあった。
1793列車の補機仕業を終えて単行768列車で川渡に戻った機関車は、小牛田向きに転向の後に給炭・給水を受け単行770列車にて機関区へと帰る。

[Data] NikonF+P-AutoNikkor50mm/F2 1/125sec@f4 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

宇田郷 (山陰本線) 1974

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惣郷川橋梁(191M)は、山陰本線西部区間のハイライトに違いなく、北浦海岸での鉄道撮影の古からの核心でもある。(だから、そう以前からのことでは無い)
その現在の山陰本線を形成する最後の開通区間に位置する歴史的意義や、土木技術遺産としての価値などは、既に多くの専門家による論説があり、ここには繰返さない。
けれど、1000メートルを越える隧道の建設に工期や技術的な困難の無くなったこの時代に、事実山塊が海に迫るこの区間でも大仮峠は2215メートルの隧道で越えているにもかかわらず、敢えて海岸線にこれだけの橋梁を出現させた線路選定は興味深い。当初計画の隧道を伴う100メートルの鋼橋での内陸迂回を覆したのは合理的選定と云うより、塩害に対するコンクリート橋建設技術確認のモデルを要した結果ではなかろうか。

益田からの気動車で降り立った宇田郷の駅周辺には、見事に何も無いのが印象に残る。駅員に聞けば、周囲に散在する集落からの利用に利便のある位置、との話ではあったが、ならばより上り方に選定すべきで、こちらは宇田浦集落背後位置では宇田川の橋梁を含んで、その想定最大流量時の桁下確保に要する構内嵩上げを回避したのが正解であろう。

ここには、この当時ダイヤで太陽が海側に傾く16時から17時の間に3本の蒸機列車の運転があり、初めての山陰線撮影にそれを組み込んでいた。先輩諸氏による作品でおよその見当はついていたのだけれど、ロケーションで見てみれば海浜際をコンクリートラーメン橋が通過しているに過ぎず、期待していた北側の切取り法面上部も樹木に隠されて登れそうになく落胆した覚えがある。
それでも、惣郷集落から川沿いに橋梁を見遣れば風情の松林の向こうに漁師小屋が点在して、その傍らで列車を待ったのだった。

優等列車もなく、単行から2両連結程度の気動車列車の走るばかりとなったここに、再び立つことは無いだろう。
列車は828列車、米子行き。終着は深夜に及んで、ここはその行程半ばにも至らない。

[Data] NikonF2A+AutoNikkor50mm/F2 1/250sec@f8 Y52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.
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日田 (久大本線) 1986

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この1987年当時、博多から大分まで小倉経由での198.5キロは、直通の特急<にちりん>で3時間を切るくらいだった。対して88.3キロの、久留米からなら50キロ足らずの日田も大分県とは、福岡と大分は隣接県だし地図を見れば一目瞭然なのだけれど、福岡に仮住まいの北の人間は何処か不思議な感覚に囚われたものだった。(付記すれば、佐賀市が福岡県内で無いのにも同じ感覚を抱いていた)
とは云え、筑紫平野が東に尽きて筑後川が三隅川と名を変える地峡部を越えた盆地の風景には、それも納得するものだった。17世紀より天領として繁栄したここには、花月川から三隅川にかけての旧市街地の随所に風韻のある街並を残しており、同じく天領だった飛騨高山にも通ずるのだが、決定的な相違はその100メートル程度と低い盆地の標高にあって、それがここに流れ込む水流の穏やかな水郷の風情を加えていた。

かつて、多くの造り酒屋が所在したに違いないこの盆地に、この頃に(現在も)残ったのは花月川河畔のクンチョウ酒造だけだった。噂には聞いていた蔵ではあるものの、年間三千石程と思われる生産からは東京では勿論、博多でも酒販店を探すことになる酒である。
久大本線は日帰り圏内にあったけれど、機関車列車の始発から撮ろうと思えば宿泊を要して、大抵は日田駅前のビジネスホテルを宿にしていたから、薫長の純米酒を買い込み、日田駅弁の美咲屋の鮎すしを肴に一杯やるのが楽しみでもあった。それは芯の通った太い味わいと記憶する。

そして、その前の一仕事が日田下り方の跨線道路橋から629列車の夜撮だった。
大分運転所[分1]運用の3両組成によるこの列車は、ここまで併結の門司港客貨車区鳥栖運用[門41]運用の2両の解放作業で停車時分が長く、じっくりとバルブが切れた。そろそろ少なくなりつつ在った蒸気暖房の吐息が夜目にもきれいな11月の夜だ。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S Bulb@f8 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

阿木-飯羽間 (明知線) 1972

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鉄道省が1932年に、国有鉄道簡易線建設規程(1932年5月27日鉄道省令第8号)を制定して、それまでの国有鉄道建設規程(1929年7月15日鉄道省令第2号)に規定の甲乙丙各線の線路種別に簡易線規格を追加したのは、ニューヨーク証券取引所における1929年10月24日からの株式の大暴落を引き金に世界的に波及した経済不況を背景としている。これによる客貨の減少に加えて、自動車運送の普及による輸送量の低下が営業収入減をもたらし、幹線網は完成してルーラル地域が中心となっていた新線建設や既設線の改良・保守計画を見直さざるを得なくなったのである。それまでの建設規程によらない簡易線規格を設けることにより、丙線で計画されていた新線を簡易線として建設費を低廉化した他、同時に国有鉄道建設規程も荷重制限の規格基準を緩和する改正(1932年5月27日鉄道省令第7号による)を行い既設線の線路種別の格下げも可能として保守経費の低減をも図ったものである。

この施策により、鉄道省はおよそ3000万円(当時)の予算を圧縮したとされており、これを転用して1930年代から製作の開始されたのが、それら丙線や簡易線での運転を用途としたC10に始まるタンク式機関車の一群なのである。それまで、許容軸重が13tと規定の丙線規格に適合する機関車は古典機関車の淘汰以来存在せず、速度制限を課して9600や8620が入線していた事情があり、早急に代替機の要求されていたのである。また、不況期の増収策に都市近郊での快速列車の頻発運転用としての需要も存在していた。試作的要素の在ったC10を引き継いでK-13の丙線用に量産されたのがC11であり、簡易線向けにK-11で製作されたのがC12である。

1933年から翌年にかけて全通した明知線は、丙線規格での計画を制定されたばかりの簡易線に変更して建設され、岐阜県恵那地方の山間に散在する小さな盆地を連絡する経路から、随所に簡易線に許容された35パーミルに近い30から33パーミル勾配が連続していた。丙線としてならば、想定される需要からそれらの特認無くして建設の困難であったと思われる。その設計荷重にて開通当初よりC12が投入された模様だが、その輸入古典機関車と同等の火床面積に軽い軸重には過酷な仕業であったに違いない。牽引定数も相当に制限を受けたと思われ、輸送量の減少していたこの当時でも、ここの貨物列車は午前と午後の2往復設定があった。

中津川市と岩村町(現恵那市)を隔てる低い丘陵の鞍部を越えるこの区間も、その中間のここまで阿木から32パーミルが連続していた。C12の貨物列車はそれこそ止まりそうな速度で登って来る。
モノクロブログに、この頃までモノクロと併用していたカラーネガでの撮影をご容赦頂きたい。

=参考文献=
土木学会誌 第25巻第5号 (1939年5月) - 土木図書館ディジタルアーカイブ収蔵資料
C56/C12形機関車明細図 鉄道史料保存会 (1991年)

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2 1/125sec@f5.6 Non filter  SakuraColor100  Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

下呂 (高山本線) 1987

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下呂は周知の温泉地である。源泉は温泉街を貫流する益田川(飛騨川)の河川敷に散在しており、1974年以降その動力揚湯は集中管理されている。2004年の成分分析表によれば、源泉温度55℃のアルカリ単純泉とある。
汲み上げ施設は源泉塔と呼ばれており、石灯籠風に装飾がなされている。これが無機質に点在すれば墓石のごとくで観光地には、確かに相応しくない。

下呂駅は益田川右岸に所在して、左岸に開けた旧来の温泉街とは下呂大橋が連絡しており、そこから見下ろす右岸の河川敷には噴泉地と名付けられた露天風呂がある。現在では、湯舟も拡張されて岩風呂風の造りに改築されているのだが、この頃まではその名の通り源泉の自噴した湯壷だった。川が増水すれば水没したから水苔の石造りだが、撮影の合間に川で泳ぎもしていた身には気にもならなかった。振り返れば第6益田川橋梁を往く列車も望めたそこは、脱衣所の設備の在るで無く、屋根の掛るで無く周囲からは丸見えなのだけれど、温泉に違いないし当然無料であったから18きっぷ利用の撮影で上り大垣夜行で帰る時など、ここで汗を流したりしていた。夏なら夜風の心地よかったものである。そんな露天風呂だから入浴する物好きなど少なそうに思えたのだが、大抵は先客が居た。
近年、時代の流れと云うものか水着着用が義務付けられ、以来入っていない。

写真は、第6益田川で左岸に移った高山本線が下呂の街外れで右岸に復帰する第7益田川橋梁上の26D<ひだ6号>。
この線区には珍く開けた谷に架橋されて229Mの延長が在り、6両編成が余裕で載る。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec@f4 Fuji SC42filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS4 on Mac.
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