70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

今川信号場-越後寒川 (羽越本線) 1971 

imagaea_03-Edit.jpg

北海道連絡特急<はつかり>の姿は、水戸の祖父祖母の家に帰省した折に市民プールから見下ろせた常磐線の築堤際に立って眺めていた。151系電車の流れで高運転台を採用した特急列車らしいフォルムのキハ81には憧れたものだった。道内の<おおぞら>がこれで無いのを恨めしくも思ったりしていた。
勿論、ハーフ判の写真機は手にしていたのだけれど、拙過ぎてとてもここに掲示出来るようなカットは無い。

東北本線盛岡以北の電気運転化にともない1968年9月9日の上りを最後に<はつかり>運用を離脱したキハ81の6両は、同日の下りより上野-秋田間特急<つばさ>に運用されることになった。この姿は一度だけ福島駅で見かけてはいたが、被写体として再会するのは羽越本線の蒸機を撮るようになった71年以降で、上越国境を越えて同線を運転していた<いなほ>だった。
1969年10月1日改正における設定に際して秋田機関区に転じた20両は、キサシ80を動力車化したキシ80 900番台の2両を含み、1両の2次形キシ80を除けば全て1次特急形で占められていた。2次形とは一部仕様が異なり、扱いの統一を図ったものだろう。72年3月改正での所定編成の7両から9両への増結の際にも、<つばさ>転用時に余剰となりキロ80からキハ82/キハ80 900番台に改造されて向日町所や鹿児島所に転じていた1次形が呼び戻されている。

残念であったのは、<つばさ>の福米間機関車牽引の関係上撤去されていたキハ81全頭部の連結器カヴァが、<いなほ>運用となっても復帰しなかったことである。連結器の露出した姿は、丸みのあるそのデザイン上からは画龍天晴を欠くものであった。これは和歌山機関区で<くろしお>運用を経て交通科学館に保存された今も同様である。
尾久客車区で処分したとも思えず、紛失ではないだろうか。先頃廃止を目前にした梅田駅の倉庫から古い時代の用具やら資料の発掘されたように、尾久区の開かずの資材庫の片隅に埋もれている可能性も高い。その際には、ぜひ大阪のキハ813に復活させたいものである。

宝来山トンネルと脇川トンネルの中間地点。標高88メートルの蓬莱山は変わらないけれど、そこを往く国道はご覧のとおりの泥道だった。
羽越本線は晩秋ともなれば時雨の日が続く。それに濡れる鉄道線路は、そこには似つかわしい景観に違いない。

[Data] NikonF+P-AutoNikkor50mm/F2 1/125sec@f4 Y48 filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR4 on Mac.
スポンサーサイト

前谷地 (石巻線) 1973

maeyachi_01-Edit.jpg

小牛田で東北本線より分岐して大崎平野を東に向かう石巻線は平坦線のイメージで、事実その通りなのだが、前谷地の手前に横たわる低い丘陵を江合川に沿って迂回すること無く直進し、そこに延長133メートルの鳥谷坂トンネルが穿たれた。石巻までの区間で唯一の隧道である。付近の第二出来川橋梁への盛土区間と一体化して、僅かな距離ながら10パーミル勾配をともない上下列車とも力行運転が見られた。
付近の集落は風を避けると言うことなのか、この低い丘陵に寄り添うように存在して前谷地側も涌谷側もトンネル近くまで農家が迫り、そのロケーションは決して良くは無いのだけれど、変化に乏しいこの線区にあってはそれなりのポイントだったのである。
前谷地を降りれば、遮るものの無い1.5キロ程先に認められるのだが、撮影地点は国道108号線が跨線橋で越えていた涌谷側にあり、駅前からそこまでを迂回して歩いたものだった。ここでは白煙を期待してか、栗駒下しの冷たい中、農道の霜柱をサクサク踏みながら歩いた記憶ばかりが残る。

写真は、鳥谷坂トンネルを出る1890列車。
ここで上りが機関車の正向き運転となるのは女川港発列車に限られ、それの冬期に唯一日中運転となる貴重な被写体であった。
トンネルポータル近くのみに画角を絞れば深山の趣にも見えるけれど、両側すぐに農家敷地が迫っている。

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor50mm/F2 1/500sec@f4 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

深浦 (五能線) 1980

fukaura_01-Edit.jpg

深浦の入江は日本海に対して見事な半円形を描いて陥入しており、確かに天然の良港に違いない。17世紀以降に北回り廻船航路の寄港地となり、その入江沿いに街並が発展した。
1934年12月13日に大戸瀬からここへ達した五所川原線は、その集落のかなり手前に駅を置いた。今でこそ周辺に市街地の形成されているが、当時には寒村の駅だったに違いない。背後に丘陵の迫る入江沿いにはそれを設置する用地の確保は困難だったのだろう。1936年7月30日の五能線全通にかかわる陸奥岩崎からの延長線は既存集落を避けて後背の丘陵を幾つかの隧道にて迂回して深浦駅に接続した。

蒸機の時代にはトンネルの合間から趣の在る街並が垣間見えて惹かれもしたのだけれど、そこに降りれば広戸方の岩礁ばかりで、実際にそこへと向かうの70年代も末になってのことだった。その頃ともなれば家並みの細道だった名ばかりの国道も拡幅整備され、移転家屋はビルにも建替えられて情緒の失われていたのには、手遅れを些か悔やみもしたものだ。
北前船の時代が去って以来、ここは漁師町となり港には岸壁や関連施設が整備されたのだが、小さな漁船はそこに繋留されるで無く、傾斜の在る浜に向いて建てられた番屋の前にその都度引揚げられるのだった。浜に揚がり切らない船も舳先だけを乗り上げて固定されていた。代々に引き継がれた西風に押し寄せる荒波への対処なのか、湾口に防波堤のある現代ならば不要な作業とも思えるのだが、これがここの漁師の、この土地の記憶と云うものなのだろう。

背後の切り立った雍壁を金屏風に見立てれば、そこは港の飾り舞台である。
演ずるはキハ22とキハ12の2両編成。1729Dの弘前行き。首都圏色の進出が残念な頃だ。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor105mm/F1.8S  1/250sec@f5.6  Non filter  Tri-X(ISO320)  Edit by CaptureOne5 on Mac.

南木曽-田立 (中央本線) 1972

tadachi_01-Edit.jpg

信州を嘗めてはいけなかったのだ。
北海道に暮らしていた身としては9月末の長野県下など、秋のほんの入口程度の認識しかなかったのである。
暑さの残る上野から乗った夜行<妙高>を降りた早朝の長野で、その寒さに震え上がることになってしまった。それは勿論軽装に過ぎたせいで、北海道の遥か南がこれほどとは露にも思わなかったのである。待合室に見つけた味噌汁屋のなめこ汁で、ようやく一息ついたのを忘れられない。
この72年の信州旅行は翌年夏に電化開業を控えた篠ノ井・中央西線の撮影であり、<アルプス>で塩尻に向かわなかったのは未乗だった横軽間の通過体験のためであった。空いた車内でジュースの空き缶を転がして見た覚えが在る。
勿論、信州一般用均一周遊券を手にしており、名古屋-長野間に運転していた夜行の<きそ>を宿代わりにする算段だったのだが、周遊区域端の中津川が深夜・早暁とあっては使い勝っての悪く、結局は塩尻や松本での駅寝で過ごすことになった。

電化開業の10ヶ月前ともなれば、電化柱はほぼ全線に渡って建植され、架線の吊架済みの区間も存在したのだが、別線による新線切替が予定されていた南木曽から田立の区間は現状を維持しており、勢い鉄道屋を集めることになっていた。とは云え、昨今の鉄道沿線の騒ぎとは異なり、一日を過ごしてもせいぜい一人二人に出会う程度ではあった。

ここでの定番は関西電力読書発電所近傍に存在した第五木曽川橋梁で、1907年アメリカンブリッジ製ピン結合の300フィート型下路式ペチットトラスの豪快な橋梁であった。勿論ここの開通時から存在して、当時としては破格の大型橋梁である。
橋梁上を往くのは873列車、稲沢操車場から塩尻までの線内貨物である。荷は軽くて補機は無い。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2 1/500sec@f4 Y48filter  NeopanSSS  Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

[番外編] Website 開設しました

welcom_page.jpg

2011年の11月から"Monochromeの北海道 1966-1996"を、それの内地版の"Monochrome Days 70s/80s"を2012年12月から書き始めて、記事数は双方で500本に迫ろうとしています。古い写真に拙い文言におつき合い下さいまして、ありがとうございます。

予てから計画の、それらのアーカイブ先としてのWebsiteを開設いたしました。
まだ、ほんの一部しか移植作業は済んでおりませんが、記述時の事実誤認やその後に判明した事柄など、必要とあれば加筆・訂正しながら進めています。
加えて、FC2のサーバを通すと写真のコントラストとシャープネスが落ちる傾向に対して、それを過剰としていたデータの修正をカットごとに行っています。言わば写真はリマスター版です。

アーカイブは撮影年別ですが、機能上検索と並べ替えが出来ないのでテーマ別のギャラリーを併設しました。
ここには、このブログでは発表していないカットも含みます。
また、このブログでは取り上げていない、撮影の周辺の事柄も書いています。

Update がどの程度の進行になるか分かりませんけれど、それはここでもお知らせするつもりでおります。
御立ち寄り戴けますと幸いです。

カメラ 万年筆 - As the years go passing by

ブログ版の "Monochromeの北海道 1966-1996" "Monochrome Days 70s/80s"とも、まだまだ続きます。
ともに、よろしくご声援下さいませ。

白川口 (高山本線) 1985

shirakawaguchi_01-Edit.jpg

上麻生や白川口あたりは岐阜から1時間ばかりで到達出来たから、高山線で数日を過ごすスケジュールの初日には良く降りていた。白川口は飛騨川を上流側に辿る第一飛騨川橋梁への下車駅でもある。

白川町の小さな中心市街地は駅から吊り橋を渡った対岸となり、そこには白川温泉が在った。源泉は冷泉で加熱を要するのだが、かつては名古屋方面から下呂より近いこともあって戦前期より60年代まで賑わったと聞いた。この頃でも5・6軒の旅館が川沿いに並んでいたものの、温泉街入口の歓迎アーチも色褪せて寂れた印象ではあった。それでも温泉好きとしては一軒に泊まりもしていて、それは項を改めたいと思う。
駅前にもかつては土産物店が並んだであろう名残が見えて、食堂に入れば店奥は飛騨川を展望するように造りなのだった。

上麻生からの飛騨川は飛水峡と呼ばれる峡谷を刻むが、それも中部電力の上麻生ダムまでで、ここから白川口までの高山本線は堰止められた湖岸を往くことになった。湖水から立ち昇るような水蒸気に包まれれば幽玄の趣でもあろうが、そうでなければ、ポイントはこの水資源開発公団による木曽川用水の取水施設くらいのものだった。
濃尾平野一円への灌漑を目的とした木曽川用水は、飛騨金山で飛騨川(益田川)に注ぐ馬瀬川に設置した岩屋ダムを水源としながら、既存の上麻生ダムを貯水池に利用して取水口をここに設けた。その間の導水路を省略した合理的設計と云うのだろうか。
施錠されている対岸取水施設への吊り橋通路からの撮影を希望して、水資源開発公団の中部支社に立入りを請うたことが在るのだが、丁重に断られてしまった。

対岸を往く列車は、1038D<ひだ8号>。日没も近く露出は苦しい。
このようなルーラル線区に在っても、キハ80系列の編成は優美と感ずる瞬間だった。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.8S 1/125sec@f2 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

梅ケ谷 (紀勢本線) 1982

umegadani_01-Edit.jpg

紀勢本線に向かうには、いつもの大垣夜行を名古屋に降りれば良いのだけれど、その東線側の核心区間までは100キロを越える距離が在り、近鉄の急行電車から松阪で気動車列車に乗継いで紀伊長島まで約3時間を要した。それでも伊勢線を経由する急行<紀州1号>は名古屋を8時30分だから、それよりは先着出来るのだった。
ここにもキハ80系列による特急列車の運転があったものの、この距離が災いして訪問は数回で終わってしまった。

この線区は、建設線名の紀勢東線西線とも1920年代以降の開通で、戦時による中断を挟んでの尾鷲-熊野市間に至っては1950年代にまでずれ込んだのだった。1959年7月15日の三木里-新鹿間の開業による全通は、これにて日本列島外郭の地方幹線網整備の完了をも意味していた。
それから6年後の1961年、ここにはそれら線区の優等列車網の一環として特急列車の設定が計画され、この際に、その設定上から11K500Mの線区最長停車場間距離の在った荷坂峠区間の大内山-紀伊長島間に交換設備を要して設置されたのが梅ケ谷信号場である。同年2月27日に運用を開始したここには地元大内村(当時)より駅設置の陳情もあったことから、国鉄もこれを受け入れ乗降場を設備して同年の11月1日を以て駅とされた。当時には連動閉塞施行につき運転要員が配置されていたが、格上げに際しても旅客要員は置かれず無人駅だった。1983年12月21日の亀山-新宮間のCTC制御導入によりその運転要員も引上げられている。

この1982年頃、ここの職員もしくは近所の住民に風雅な人物が居たのだろう。撮影に上った乗降場上面には竜安寺の石庭よろしく丁寧な箒目が入れられ、そこを歩くのが憚られる程だった。植栽の回りには自然石を配置する演出もある。
列車は、荷坂トンネルから構内に進入する130列車亀山行き、待機するのは129列車の新宮行きである。

[Data] NikonF3P+AiNikkor28mm/F2.8S 1/250sec@f5.6 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

福来信号場-焼石 (高山本線) 1983

fukurai-SS_01-Edit.jpg

高山本線の高山以南区間には4箇所に信号場が設けられている。
下呂近傍の少ケ野を除けば1967年から68年の設置で、68年10月1日改正における特急を含む優等列車の増発に対応したものである。
信号場は長い既存停車場間の中間地点に設けるのが理想ではあるけれど、用地取得や工事などの諸問題に多々左右される。それを理解しても、ここでは4場ともに9キロから10キロの停車場間に対して偏った位置での設置が共通している。少ケ野は狭隘な下呂構内での貨物扱いを分離した貨物駅が、その扱の廃止により信号場として残存したもので停車場間の1.7キロもそれ故と知れる(*)。
他の飛水峡、鷲原、福来の何れもの上り方停車場より3キロ程の位置は偶然であろうが、ダイヤ作成上には些かの配慮を生じたものと思う。それでも高山本線程度の列車回数であれば十分に機能するとの判断なのだろう。当時に多く設定の在った貨物列車の速度からは、勾配の下側に偏るのは寧ろ好都合であったのかも知れない。
(*) - 1937年の開設時より下呂の構外貨物施設であった。営業上には同駅の構内扱いにてキロを設定しなかったのだろう。

飛騨金山から焼石の9K400Mは、その大半が益田川の狭谷沿いに路盤を設けている。中間地点は下川渡トンネルの前後なのだが、そこでの工事経費や工期を勘案して峡谷入口にあたる野首集落に福来信号場が置かれた。福来の名称はここの大字地名を取ったものである。高山以南区間のCTC制御施行に際しての1968年9月28日の使用開始なので当初より要員配置は無い。
ここで益田川に注ぐ福来川の谷あいも含めれば周辺にはそれなりの居住人口のあるゆえ、駅としての設置を旧金山町が要請しなかったものか、とも思う。国鉄岐阜工事局50年史にはそこまでの言及は無く、「金山町誌」(1975年金山町・注-史とはされていない)は未見なのだが、福来地区よりも居住者の多い対岸の中切集落からの駅利用に関わる益田川への架橋要求を回避したと云う見方は穿ち過ぎだろうか。もっとも地域移動は道路交通の時代を迎えていたのが正解かもしれない。

列車は714D<のりくら4号>、高山始発の名古屋行きである。
この当時の高山本線は、まだ中部地方横断線と認識されていた時代であり、5往復設定の<のりくら>は4往復が岐阜-富山間を通して運転し、夜行を含む内2往復は金沢発着であった。(他に<ひだ>1往復が同じく金沢発着)
運用は名古屋第一機関区と美濃太田機関区が分担し、双方とも高山線内で岐阜方となる基本編成の4号車はキハ57が所定とされていた。
後方は第一益田川橋梁(135M)。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F2.5S 1/250sec@f8 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

猪苗代 (磐越西線) 1980

inawashiro-Edit.jpg

会津地域への旅には「福島会津磐梯」の特殊用均一周遊券(販売名-ミニ周遊券)を使っていた。自由周遊区間は郡山を入口駅として会津方面には喜多方までと湯野上までしかなかったのだけれど、郡山の3・4番ホームに在った待合室での「駅ネ」には重宝だったからである。冬なら石炭ストーブが良く燃えて、雷が落ちたかのような通過貨物列車の轟音に慣れさえすれば快適な宿に違いなく、最終の普通列車で郡山に向かい、翌朝4時過ぎに上野からやって来る急行<ばんだい>で戻れば良かった。

福島会津磐梯ミニの発売されての冬だったから71年の2月と思う。その日は早めに郡山に戻るつもりだったのか、20時前の普通列車に乗り、いつものように空いた車内で眠ってしまった。そしてお約束どおりに車掌に起こされ、寝ぼけ眼でデッキを降りてみれば、見慣れた集札口は郡山のそれで無く会津若松なのだった。郡山に到着した上り列車で誰にも気づかれずに列車は下りとして折返したのである。4時間余りを爆睡していたことになる。
貧乏旅行で宿賃などの余分は端から所持していないから、これには困った。駅員氏に「待合室の隅で寝せろ」と申し入れるも見事に断られ、折からの降雪を避けるには駅前の公衆電話ボックス以外に無く、そこで一睡もせずに朝を迎えたのだった。列車内で4時間も寝て決して眠たくはない分、とにかく緩慢にしか進まぬ時間に呆れたことを良く覚えている。
後のようなガラス張りボックスでは無く、クリーム色に塗られた鋼板にHゴム固定の窓付きのそれである。ドアに丸く開けられた取っ手部さえ塞げば、それなりに快適な「居室」ではあった。

写真は、222列車の車内から225列車の新津行きを撮っている。朝焼けの猪苗代である。
機関車はここにしか居なかったED77。
この日、何故か早朝の上りに乗っている。会津若松泊まりにした理由が解らず、宿泊先の記録も見あたらない。まさか公衆電話ボックスじゃないだろう。

[Data] NikonF3P+AiNikkor28mm/F2.8 1/125sec@f8 Nikon Y52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

長町機関区 (東北本線) 1972

nagamachi_base-Edit.jpg

東北線の電化が盛岡に達して常磐線の平以北が非電化当時の長町機関区なら、電機と蒸機が同居していて不思議はない。けれど、これは1972年。機関車は有火のC58 328である。

小牛田機関区にC58が健在であった頃、仙台鉄道管理局はそれに仙台発着の団体臨時列車を牽かせたことが幾度がある。勿論、当時の「SLブーム」に便乗した集客手段であった。
早朝に小牛田を出区して単機回送にて仙台運転所に向かい、ここから仙台構内まで客車を回送。機関車は再び単機にて長町機関区に入って転向の後に仙台へ戻り、団臨を牽いて鳴子なり中山平を目指すのである。帰路は、この逆路を辿って長町機関区には二度出入りすることになっていた。
仙台に波動用12系の配備の無いことから、編成は普通列車用旧型客車の予備車が使われ、それでも近代化工事施工のオハ35や46を優先して組成していた。

5月28日のこの日に運転されたのは募集団臨ではなく、在仙のテレビ/ラジオ放送局、東北放送(TBC)が開局20周年の記念行事として視聴者を抽選により招待したもので、車内からの特番中継放送などもあったようだ。機関車には「SL TBC 20号」のヘッドマークが掲げられていた。
定期列車としては無くなっていた陸羽東線内での客車牽引も魅力ではあったが、それは仙台付近で迎えることにして長町機関区の転車台に載る姿を撮るべく、事前に仙台局の広報課を通じて見学許可を申請していたのである。
余談めくが、この時代に公式ルートで許可を請えば、希望日時の変更を求められることのあるにせよ、個人の資格であれ大抵の場合には認められた。指定日時に事務室を訪ね所定の手続きを済ませれば、黄色いヘルメットなり腕章を貸与され、案内人(構内掛りのことが多かったが助役自らの区所も在った)とともに構内を歩くのである。

この日もヘルメットを被り転車台へと案内されると、まもなくにC58 328が到着して構内手による転向作業がはじまる。すると、その汽笛に近所の住人や通行人が続々と構内踏切を渡って集まってくるのだった。孫を抱いたお年寄りに買物カゴの主婦に、犬を連れた散歩人までいる。構内手と挨拶を交わす人もあるから顔見知りなのだろう。
転向を終えて出区線に移動すれば、皆ぞろぞろと付いて往く。
後に思えば、この機関区周辺の住宅は鉄道官舎で住民は職員家族であったのかも知れない。東北線上の大機関区と云えども代々の自分達の機関区意識であろうか。いずれにせよ国鉄の鷹揚な時代である。付記すれば、この集団に同業の写真屋と思しきはひとりも居なかった。

写真は出入区線で本線転線に待機するC58 328を隣線で入区待ちのED75 86のキャブから見ている。
ヘルメット姿の見学者に、構内機関手が乗せてくれたものである。そして、このまま庫内線まで送って貰った。

[Data] NikonF+P-AutoNikkor50mm/F2  1/250sec@f5.6 Y48filter  NeopanSSS  Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。