70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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北鉄金沢 (北陸鉄道・浅野川線) 1985

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コンサートツアーに出たバンドを地方に追いかける取材などで、何故か指定されることの多かったのが金沢公演だった。アーティスト側の要請もあったろうが、大抵は同行する編集者が決めていたから出張ついでの土地の食べ物に惹かれての彼らのリクエストに違いないと、毎度ご相伴に預かりながら思ったものだった。お陰さまで、香林坊や片町界隈の呑み屋には随分詳しくなった。
金沢駅へ降りる度に鉄道屋として気になっていたのは駅前広場の片隅から出ていた浅野川線で、その行き先の内灘も、東京都下の砂川闘争に並ぶ戦後の町ぐるみの反戦運動の地としてテキストには必ず登場して記憶にあった。

高山線からの帰り道に前日を金沢泊まりにしてロケハンに乗った浅野川線は、金沢の都市近郊路線ながら市街地とは反対側に伸びていて、2キロほど先の磯部を過ぎれば田圃の中を淡々と走り、小さな集落毎の駅に停まっては20分足らずで終点内灘に着いてしまった。この間のポイントと云えば内灘手前の大野川に架けられた橋梁程度で、500メートルから1キロ程度の間隔で置かれた駅も特徴に乏しく些か拍子抜けした覚えが在る。
ただ、七ツ屋に在った車庫で眺めた車両は、戦後の全金属製車体の新製車が大半なのだけれど、かつて石川平野に数多くの路線を持っていた北陸鉄道の廃止線から集められただけに、同一事業者内の統一感もありながら1両とて同形態の存在せず、飽くことのなかった。しかも、後に調べてみればここへの入線に際して台車を履き替えたり、廃車発生品の制御機器を搭載したりの改造も多かったようだ。

写真は、北鉄金沢を発車して往く内灘行き急行列車。モハ3300型の3301で、元はと云えば1958年に軌道線の金石線へ新製投入された車両であった。これもここでは1形式1両である。
結局のところ、この線区で最も興味惹かれたのは、この金沢側のターミナル駅だった。木造モルタル(と思える)駅舎がひっそりと建ち、その狭い構内と乗降場の置かれた路地裏か民家の軒先のような有様は、とても国鉄大駅の目と鼻の先に存在するとは思えない、まるで過去への入口のような場所に思えた。
かつて乗降場の外れから分岐した国鉄への連絡線が存在し、この頃にはその路盤跡を辿ることが出来た。

[Data] NikonF3P+AiNikkor28mm/F2.8S 1/125sec@f5.6-8 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.
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湯野上 (会津線) 1972

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会津線撮影の核心は、桑原-湯野上間に存在した第一/第二/第三の大川橋梁に違いなかった。ともに大川対岸の斜面中腹を通過していた国道121号線から手軽に俯瞰が楽しめ、桑原に降りて第一橋梁に平行する吊り橋を渡り、山道を延々と国道まで登ったものだった。けれど、広い谷をガーダ桁11連で渡り俯瞰すれば凡庸になりがちだったのが第一橋梁であり、第二橋梁は切り立った峡谷を跨いで国道からの画角に限られてもいて、結局のところ湯野上にも近い第三橋梁を最も多く被写体にしていたと思う。ここは国道側からの遠景と近景に加え、その対岸からの画角も取れたからである。

この内、第一第二大川橋梁は、1971年に下郷町小沼崎地内にて着工された建設省直轄の大川ダムの堪水線内となり1980年11月29日を以て失われた。今、芦ノ牧温泉南駅近く、ダム湖を越える県道大川湖面橋直下に第一橋梁が沈み、トラスの撤去された第二橋梁の遺構を国道から眺められる。
第三橋梁は健在なのだが、ダム堪水時の洪水水位を考慮した施工基面の嵩上げを要して、既存橋脚を改修の上でガーダ桁、トラス桁とも架け替えられている。1991年にここを再訪した際には、同位置で同形態桁への取替にて気がつかなかったのだが、後に写真を比較してこれを知った。

写真は、雨の第三大川橋梁を往く臨8393列車。臨貨なのだが、ほぼ連日運転されていたと記憶する。
この位置からだと、直下にあった東北電力の発電用取水施設が良い前景になってくれた。この施設も大川ダムの堪水域に入って機能の果たせなくなり、小さなダム堰堤ともども完全に撤去されている。
ここに限らぬず、峡谷の景観は雨天に趣があった。

[Data] NikonF+P-AutoNikkor50mm/F2  1/500sec@f2.8 Y48filter  NeopanSSS  Edit by CaptureOne5 on Mac.

常陸岡田 (日立電鉄・日立電鉄線) 1975

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札幌から両親の故郷である水戸まで帰省旅行をしていた頃、青森からの夜行急行が大甕を日立電鉄の電車を横目に通過すると、海側車窓に太平洋が広がり、久慈浜の街中に緩い曲線を描くその線路を見下ろせた。朝日の逆光の中に見たその光景が印象に残って、後にそこを撮りに往くのだけれど、既に住宅の建て込んで常磐線の盛土に立っても記憶に在る光景には出会えないのだった。
この久慈浜以北の海線区間はロケハンを繰返しても程よい画角は見つからず、日立電鉄での撮影は以西の里線区間に向かうことになった。帝都高速度交通営団からの譲受車の入る前までに限られるものの、ここへは忘れた頃に足を運んでいた。

この常北地域と呼ばれる一帯は、八溝山地の南に尽きて、そこからの里川や源氏川、山田川などの水流が久慈川へと注ぐ農村地帯である。そしてそれらの谷には酒造場が散在している。
酒呑みでなければ意外かも知れないが、茨城県は酒造県なのである。この久慈川・那珂川流域と石岡地区に水戸線沿線筑波山水系を中心に、2012年現在でも49の酒造免許場が数えられる。(但し、全てが稼働場とは限らない)
里川流域の常北地域には5場が在って、この常陸岡田と隣駅小沢の程近くにも酒銘「松盛(まつざかり)」の蔵元、岡部合名会社が田圃に囲まれていた。
この蔵には当たり前に美味い兵庫産の山田錦による大吟醸もあるけれど、やはり周辺にて収穫の日本晴に美山錦が使われる純米酒や純米吟醸が面白く、特に精米歩合を敢えて70%に抑えたと思える純米酒は、まったりとした中にも滑らかさが感じられ田園地帯の酒らしい。

勿論これは後年の話で、この頃には田圃の中に高い煙突を見て酒蔵の存在を意識していただけではある。当時に遠目にも目立つそれを持っていたのは酒屋ぐらいであった。
写真は、常北太田へ向かう夕方の通勤列車。後追いである。
手前方は元を辿れば小田急のデハ1100型のモハ1000型1001と見える。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F1.8S 1/125sec.@f4 Y48 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

浦宿 (石巻線) 1973

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余談から書いてしまうが、東北地域の人々は鉄道好きである。福岡に仮住まいの頃、仕事仲間を始めとした当地の人間と話していて、その感を強くした。
九州人はヒコーキ好きなのである。首都圏から遠く、当時に新幹線で7時間の東京との往来が航空機が自然であるせいか、新幹線にて3時間40分の関西方面出張も原則空路、時間当り1本の設定は在った特急で約4時間の鹿児島も同様なのだった。比較例として適切かどうか分からないのだが、同じく約4時間の行程であった上野-仙台間は、頻発運転していた東北線特急群が圧倒的なシェアを占めていたはずである。約6時間の博多-宮崎と上野-盛岡を見ても、九州人は既に鉄道を見捨てていたように思う。対して、8時間を越えていた青森に秋田へさえも週末の特急券などは入手難が続いていたのが東北地域である。現在、所要3時間30分の<こまち>が航空機と互角に戦えるのも、東北人の鉄道への愛着ゆえに思える。東日本旅客鉄道が<はやぶさ>に投資するインセンティブでもある。

60年代から70年代前半にかけて、東北地域には本線上区間へはもとより、支線区へも上野からの多層建て気動車による直通列車が設定されていた。陸羽東線の鳴子や大船渡線盛、山田線宮古、八戸線久慈までに花輪線、陸羽西線内などである。異列車併結区間での列車内乗換を可とすれば、五能線陸奥岩崎までも加わる時期さえあった。
旧盆・年末始時期の東北方面列車の寝台車や食堂車を座席車に差替える輸送力列車化や、上野駅に出現する列車待ちのテント村、列車は捌けても乗客を収容出来ずに品川を発駅とした措置など今や昔語りであるが、この時期には定期列車では直通の無い石巻線女川着発の列車も設定されていたのである。以前にも少し触れた<おしか>である。

1970年以前は知らぬのだが、この臨時急行は上りのみの設定で、小牛田から上野までは本線系統列車に併結され、それは石越始発の8106<まつしま53号>だったり常磐線を回る9210<そうま51号>だったりした。
この73年冬臨期の運転では8106への併結にて、女川を11時40分に出て上野まで9時間余りを要し、石巻線内小牛田までの1時間30分は同区間の普通列車よりも遅かった。通過駅の有るゆえの急行設定とは思われるのだが、それはホーム有効長の短い駅員無配置駅に停車しないだけだから、当時の国鉄の殿様商売振りが伺える。全席指定にて座席の確保が確実で直通であることがサーヴィスだったのである。
なお、下りは夜行の9107<まつしま55号>の仙台止まりで設定され、その編成を石越・女川へと回送して上りに充当していた。尾久客車区による1組編成使用の臨運用である。

写真は、万石浦沿いを往く<おしか>編成の女川への送込み回送、回9817列車。
波動輸送用12系客車478両が配備された後なのだが、この列車に運用されることは無かった。それでも、(1両の近代化工事未施工のオハ35を除けば)捻出された「急行」用客車の堂々足る急行編成である。かつての臨時急行のようにスハ32やオハ61までもが組成されるではない。

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor50mm/F2 1/500sec@f8 Y52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

裁判所前 (仙台市交通局・循環線) 1972

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北海道の札幌と同じく、東北における仙台も人口や資本の集積で一人勝ちの状況である。市街地の変わり様も激しく、新幹線の車窓に長町の機関区や操車場跡に街路が整備されるのにも、この頃にテレビ塔の建つばかりだった大年寺山の参道沿いに頂上までマンション群の建ち並ぶ様にも驚かされる。駅前に高層ビル群の林立するのも今の仙台である。

青森とのほぼ中間に当たるここには、道内との往来に途中下車して、そこに在った市内電車を撮っていた。前にも書いたけれど、軽装備の機材で市街地を歩き回るそれは、撮影行動の息抜き的な位置づけもあって楽しいものだった。
大学の集中して学生の多い街だったせいなのか、循環線の通る中心部や旧市街地周辺には,東京都心部にもあまり見かけない洒落た喫茶店(今に云うカフェである)が散在していて、そこでの一休みも織込んでの撮影であった。原宿や表参道の裏道にも同じような店の在るには在ったが、むしろそちらの方に洗練一歩手前のイナタさを感じていた。
余談めくが、国分町通りから少し裏に入ったところに、趣味の良いロック音楽を聴かせる「ピーターパン」なるロック喫茶が開店したのもこの頃で、それは道玄坂の「ブラックホーク」より早かったと思う。この店は今も健在である。
その国分町から欅並木の定禅寺通りに出たあたりだったと思うのだが(記憶は定かでない)、地酒の蔵元天賞酒造の直営する居酒屋「天賞」が在って、ここに立ち寄るのも楽しみにしていた。当時に商品として出荷されることの少なかった「濁り酒」を初めて呑んだのもここだったと思う。珍しさも手伝ってぐいぐいと呑んでしまい、危うく<はつかり5号>に乗り損ねそうだった覚えもある。残念なことに、この蔵は数年前に廃場してしまった。

写真は、煉瓦造りの見事な仙台高等裁判所前を通り過ぎる100形電車。
この片平丁から大町そして西公園に至る落ち着いた趣は、循環線で好きな景観だった。

[Data] NikonF+P-AutoNikkor50mm/F2  1/500sec@f5.6  Y48filter  NeopanSSS  Edit by PhptpshopCS3 on Mac.

木与 (山陰本線) 1974

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74年に幾度か通った山陰線の西部である。

この木与から木与トンネルへの築堤区間も地形図上での事前のシミュレイションでは見落とした位置だった。宇田郷をロケハンのつもりで乗った車窓から斜面に続く棚田を見つけて、その翌日に降りた。
それは、畦が等高線を忠実にトレースした見事な棚田で、海岸線に続く緩い傾斜に始まり、急斜面を駆け上がって標高100メートル付近にまで広がるものだった。現状を検索すると圃場整備が行われていて優美に撓る畦は失われたようだ。
木与の集落は、国道191号線沿いに駅周辺からこの棚田下あたりまで続いて、寒村のイメージではない。

山陰本線は宇田郷から国道と共に海岸線沿いに進んでいたのだが、山塊の迫る地形にてトンネルと落石覆が連続していた。ここは1985年6月に第二田部トンネルからの区間を一気に新木与トンネルで貫く新線に切替えられ、木与側抗口(出口)は在来の木与トンネル山側に隣接する位置に在る。

写真は、(旧)木与トンネルへと向かう828列車。下関からの米子行きである。
山陰地方は、その地理的な位置から海面を背景に逆光位置の取れるのは夕刻に限られ、その時間帯に上る828列車は良い被写体だったのである。
この地域らしい石州瓦の集落に、後方には鳴き砂の清水浜が見え、重なり合う岬の山々は遠岳山と日の丸画角ではある。この風景のたおやかさは羽越線と同じ日本海岸とは思えない。少なくとも北の人間にはそう見えた。

ところで、この当時の木与駅構内の斜面法面を固めた擁壁には「木与信合場」とペンキで大書きされていた。「合」の誤字はご愛嬌としても、ここが信号場であったとする資料は見ていない。1931年11月15日の美禰線(当時)の東萩から宇田郷への延長の際に、当初よりその途中「駅」として開業しており、謎である。

[Data] NikonF2A+AutoNikkor105mm/F2.5 1/500sec@f5.6 O56filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

鵯島信号所 (富山地方鉄道・軌道線[呉羽線]) 1984

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道内版 姫川信号場 (函館本線) 1983 の続きである。

上記で述べた普通鉄道構造規則、そして2002年3月31日を以てそれに代えて施行の「鉄道に関する技術上の基準を定める省令」(2001年12月25日国土交通省令第151号)では「信号場」に統一されて消滅した「信号所」なのだが、道路への敷設を原則とする鉄道、即ち「軌道法」に準拠して開業した路線上に生き残っている。
この軌道法(1921年4月14日法律第76号)にも、軌道建設規程(1923年12月29日内務・鉄道両省令)にも「信号所」の文言は無い。けれど、軌道法施行規則(1923年12月20日内務・鉄道両省令)の第12条2項9号に「信号所ノ新設又ハ位置変更」と在って、鉄道線での「信号場」相当施設を軌道線では、「信号所」と称すると解される。
軌道法は、幾度かの改正を経ているものの、制定からまもなく100年を迎える今日も未だ現役の法規である。現行法規は2006年3月31日法律第19号による改正となっている。

さて、設備の現存となると、知り得る限りで名古屋鉄道豊川線の諏訪新道信号所に土佐電気鉄道伊野線に所在の市場前信号所と八代信号所の2施設である。普通の鉄道と何ら変わらない名鉄豊川線線だが、ここは軌道法に準拠する線区ゆえ「信号所」である。但し、名鉄部内ではこれを永く諏訪新道信号場と呼んでいる。全線が地方鉄道建設規程の準用条項の多い軌道法での「新設軌道」区間ゆえと推定する。

軌道法準拠線本来の路面上での「信号所」として存在したのが、2012年3月24日を以て廃止された、この富山地方鉄道軌道線の「鵯島(ひよどりじま)信号所」であった。同線に属する呉羽線安野屋-大学前間1.2キロが全線単線につき、中間に位置する新富山停留場の終点寄りに設置された交換設備だったが、富山大橋の架け替えにともない複線化がなされ消滅したものである。

写真は、鵯島信号所にて離合する大学前行と南富山駅前行の共にデハ7000形電車。
都電8000形をプロトタイプとした日本車輛での1957-1965年製の自社発注車で、この当時も現在でも主力車両である。
ここでは必ず交換が行われ、先着側が退避して通票らしきものをやり取りしていた。ここから大学前まではそれを携行しないと入れない運転法であったと思う。
信号機も転轍機のテコ操作も無く、それはスプリングポイントである。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec@f5.6 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

北常盤-浪岡 (奥羽本線) 1980

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道内へ向かう旅に、<津軽>には幾度も乗っていた。
奥羽本線やそこからの支線区への立寄りにも乗りそうなものだが、五能線に弘前から入るなら青森に早朝に着ける<八甲田>が有利だったし、米坂線の米沢には逆に深夜に下車せねばならず、陸羽東線や北上線、花輪線にも東北本線からに利があったから、これから降りるのは能代からの五能線ぐらいで、ほとんどは旅の楽しみに乗っていたのである。ただ、それは下りばかりで、2本運転時代も青森の時刻がスケジュールにかみ合い難く、上りの記憶は数える程しか無い。

この<津軽>系統は永年の旧形客車から1978年10月改正にて座席車が12系に置替られて以来、1993年12月改正での予定臨格下げまで運用車両が幾度も替わった。その全てに乗車経験があるから、確かに良く乗っていたのである。
旧客の時代、初めて乗った頃には補機を要した矢立峠通過から座席車は軽量客車に限定されて、スハ43/スハフ42の東北/常磐線急行より上等だった。1971年10月改正で同区間が電気運転となり、それが解除されると今度は板谷峠での定数確保からオハ/オハフの限定となり、通常にはオハ46にオハフ45でスハと同等なのだが、近代化改造車とは云えオハ35の組成されることもあった。
夏に開け放した窓からDD51のエンジン音を聞いたのも、この頃である。

1978年10月改正で12系に置替られれば、さすがに快適で真夏の乗車も苦にならず、窓を開ければTR217系列台車の軽いジョイントの踏音が心地良かった。終焉の間近だった軽量客車寝台車の乗り納めも、この列車と記憶する。
1往復運転となった、1982年11月改正での<十和田>からコンヴァートのナハ21の座り心地は最も素晴らしかったのだけれど、閑散期と云うのに立ち客の出る始末で、このために1983年7月1日の下りより季節<おが>と運用編成を差替えて14系座席車での運転とされた。実際には一足早く、同年5月26日に発生した日本海中部地震の災害により、5月28日下りから6月6日の上りまで上野-秋田間に区間を短縮した403・402に<おが>編成が充当されていた。
この14系運用は、1984年2月から1985年3月までの寝台車組成を挟んで1990年8月31日まで続いて、最も利用回数は多かったものと思う。

583系電車で仙山線を運転した<津軽>は、性能を持て余し気味でとにかくゴロゴロと走って良く揺れた。閑散期なら座席を引き出してのゴロ寝も黙認されたけれど、布団も無いそれは落ち着かなかった覚えが在る。
1992年7月改正からの485系には、昼行特急で乗り馴れていて<津軽>と云う感慨はなかった。
そう云えば、最末期の再びの583系には乗っていない。

写真は、穂仁王掛けの津軽平野を北上する401列車<津軽1号>。
宮城県の大崎平野なら穂仁王と書いて「ほにょ」と呼ぶのだが、ここでの名称は聞き漏らしている。
スロフ62が外されオハネフ12の組成順位がオロネ10の前位に替えられた、80年10月改正後の編成である。

[Data] NikonF3P+AiNikkor28mm/F2.8 1/250sec@f8 Nikon O56filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

中山平 (陸羽東線) 1971

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陸羽東線は堺田を最高地点として鳴子-羽前赤倉間に18.2パーミル勾配が連続する線形だけれど、その施工基面高の337Mは、仙山線の453M、花輪線の504Mに比べれば遥かに低い。実際に、山間に分け入り険しい谷を詰めるで無く、開けた谷間を直線的に上り奥羽山系の緩やかな鞍部を越える線形である。むしろ、大谷川が峡谷を刻む区間に隧道を穿って、その切り立った左岸の僅かばかりの平地に至る中山平周辺に山間の趣はあった。この線区の蒸機撮影の核心であり、小牛田から入って早朝の列車を大崎平野区間で押さえてから、ここへ入るのが定番になっていた。

紅葉黄葉の季節には、鳴子峡散策の起点につき観光客で賑わうのだが、それを除けば駅周辺の集落と斜面に棚田の続くばかりの山村であった。後に駅名ともされた中山平温泉は、駅の東側の国道48号線から線路を越えて大谷川河畔に降りた元蛇の湯/東蛇の湯と云われる地区に集中していて、静かな湯治場と記憶している。今の国道沿いの宿は後の開業である。

ここは、1983年3月に施行されたCTC制御による軌道回路検知式特殊自動閉塞化に際して要員が引上げられ、島式乗降場を挟んでいた上下本線の上り線が撤去されて、そこに小さな待合所が立てられた。
1981年度の乗車人員が232人と比較的多く、ここを始発終着とする列車が3往復も設定されていたから、棒線化は意外な印象を持ったものだった。
軌道回路検知式特殊自動閉塞とは、単線区間において停車場内に連続した軌道回路を設け、これにて列車の進入/進出を検知して自動的に閉塞および信号を現示する方式であり、既に停車場両端に軌道回路の設備されていた連査閉塞施行区間からの転換が比較的容易なため、80年代に同方式閉塞線区へ急激に普及した。隣接停車場間に一対の方向てこが設けられ共同での扱いを要するが、CTC制御を併用すれば現地扱いは不要になる。

写真は、この71年11月3日に実施された「仙鉄SLの旅71」と称する募集団体旅行の専用列車の、帰路運転に際しての中山平への客車回送列車。列番は失念した。同駅に転車設備は無いからC58は逆向き運転である。
この仙台-中山平間に運行の団体列車は、その募集旅行名のとおりに仙台から(まで)C58が直通牽引した。往路/帰路間に客車と牽引機は川渡留置であった。
もう分からぬ方も多いと思うが、仙鉄とは国鉄仙台鉄道管理局のことである。

[Data] NikomatFTN+AutoNikkor105mm/F2.5 1/250sec@f8 Y48 filter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

広戸 (五能線) 1978

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広戸は、戦後の1954年12月25日に深浦から3K940Mの位置に開業した停車場である。行合崎後背の段丘上に存在する集落の利便を図ったものと思われるが、そこからはかなり距離のあって周辺に人家の無い海岸沿いの地点が選ばれている。五能線は、ここから行合崎に向けて20パーミルの勾配が続くから、やむを得ない選定だったのだろう。国道と線路敷との僅かな用地に乗降場が置かれる現況だけれど、開業当時の国道はそれとは名ばかりの狭い悪路であったから、それでも駅としての存在感は今の比ではなかったはずである。

ここに下車して、国道の坂道を喘ぎながら登って往くと地図に無い水流がある。それは段丘の縁を広戸川へ向かうでなく、行合崎へと細い流れに似合わぬ深い谷を刻んでいて、水源が何処なのか一見不可思議な光景に思えた。五能線は、これに延長25Mの行合川橋梁を架橋し、しかもここが行合崎に続く段丘越えのサミットである。
岬へは、その先を右折して五能線の跨線橋を渡れば到達する。樹木の無い平坦な地形が続いて、何処からでも広戸駅方向を望めたのだが、それは凡庸に過ぎて下に見えていた漁港へと降りたのだった。

海岸線を往くのは、混合1730列車。このサイズの写真では分かり難いかもしれないが、機関車次位に有蓋車を1両組成している。
広戸漁港は、地元漁船のみが利用する第一種漁港である。ここには水揚げ施設は無いから、それは深浦漁港へ持って行くのだろう。シーズンの烏賊釣り漁に磨かれた集魚灯に海が満たされる。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5S 1/500sec@f8 FujiSC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

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