70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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平岩 (大糸線) 1987

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大糸線非電化区間も、高山線通いと一体で撮っていた線区である。その旅が東京へ戻る行程であれば帰路に立ち寄っていた。一日を撮り終えての帰路には、そのまま南下して松本で夜行<アルプス>を捕まえられれば八王子も近いのだが、大糸線は距離の在る上に時間が掛り過ぎて叶わず、糸魚川から直江津を回って長野に出て夜行<妙高>に乗るのが定番だった。

写真は、第八下姫川橋梁上の430D、南小谷行き。
国道148号線(現新潟県道375号平岩停車場蒲原線)を葛葉峠へのつづら折りを登った定番位置からの俯瞰である。
姫川流域を襲った1995年7月11日から翌日にかけての集中豪雨災害は記憶に新しい。大糸線も姫川の氾濫や斜面崩壊、土石流にて寸断され、長期間の不通を余儀なくされた。
真那板山の急斜面直下の峡谷を抜けた水流は、この谷間を広く奔放に流下して全てを押し流し、水流の強い位置にあった第八下姫川橋梁は桁流失ばかりか橋脚も損壊し、右岸に見える電気化学工業の横川第二発電所すら半壊の被害を受けた。
当然に国道も不通区間を生じて、この平岩付近は孤立してしまい、住民約500名がヘリコプターにより緊急移送されたる事態となったのだった。新聞一面にも水没する見覚えの在る国道・鉄道兼用の洞門(写真中央に見える)の空撮が報道され、衝撃を覚えた記憶が在る。
復旧は姫川の流路改修が優先され、大糸線南小谷-小滝間の列車運行再開は実に1997年11月29日のことであった。

葛葉峠への国道148号線は、その前年の1994年に直下をトンネルで貫く通称-平岩バイパスが開通して交通量が激減し、この撮影位置付近に在ったドライブインを中心にした休憩施設は、全てが廃屋と化している。また、不要不急路線と化したゆえか、県道に移管された現在、峠頂上から蒲原温泉へと降りる区間と県境を越えて長野県道への区間は、前記の豪雨災害の復旧がなされていない。

現在もこの位置からの撮影は可能らしいが、姫川は復旧時の改修にて護岸で固められた水路と化しては、もはや魅力は無い。

[Data] NikonF3P+AiNikkorED180mm/F2.8S 1/250sec@f8 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.
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山寺 (仙山線) 1982

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それの観光資源化が進められて、季節の風物詩としてマスコミにも報じられるから「芋煮会」と聞けば、秋の山形を思い浮かべる人も多いだろう。
ここでの山形とは、巨大鍋イヴェントの開催される山形市とその周辺を指すことになるのだが、この家族・友人・職場・地区などの単位での親睦会的屋外料理の集団行事は、同じ山形県の庄内地方は勿論、青森県を除く東北地域一円に存在して、鍋っこ(秋田県)や芋の子会(岩手県)、きのこ山(福島県)などと呼ばれている。
宮城県仙台市とその周辺地域でも「芋煮会」の名称で行われており、河川敷での実施や味噌味の汁に具材も同一で明らかに山形内陸地域からの伝播と思われる。異なるのは、山形市では市街地を貫流する馬見ヶ崎川の河川敷が多用されるのに対して、仙台市内の広瀬川に例を見ることなく、八ツ森や奥新川と云ったその上流域や秋保地域の支川を含む名取川の上流域など山間部が会場に選ばれる。これは伝播の比較的新しく、芋煮そのものが目的である山形に対して、それが紅葉狩りなどのレクリエイション行動にともなうものとして伝わった結果であろう。
本家山形市でも、それのない訳ではなく、ここ山寺の立谷川もシーズンには多くのグループで賑わう。けれど、これより上流にその姿を見ることは稀で、仙台市側との相違は興味深い。

山寺とは、その駅前から仰ぎ見る天台宗の寺院、宝珠山阿所川院立石寺の通称からの駅名である。長い階段の参道を登り詰めれば、眼下に門前町の市街地を望める。
写真は、立谷川橋梁上の814M<仙山4号>、仙台行き。
仙台運転所による仙山線への単独運用の[A341]仕業の組まれていた頃で、これは山形から812-811-814-813-816-815と回る運用だが、816-815間で仙台所に入区して編成を差替えていた。

急行<仙山>への455系急行形電車編成(453・457系列を含む)の運用は、奥羽本線米沢-山形間の電化にともない1968年10月1日改正より山形に6403・6404Mとして乗入れた仙台運転所のTb車を含まない付属編成の間合いにて、それから分割したTc'-M'-Mc編成が2往復に充当されたのが始まりである。残存した気動車運用とは、面白山トンネル両側に連続する33パーミル勾配での走行性能から到達時分を20分以上も短縮するものであった。山形からの入線に付き、仙台駅在姿では編成前位が東京方になる。
72年3月15日改正以降には、旅客需要の増した訳ではないのだが、編成分割を廃して全編成6両での運転となって仙山線にスロハ32以来の特別車(旧2等車)が復活した。この当時に全車自由席のそれに何度か乗っているが、いつも回送のような有様ではあった。78年10月1日改正では、残存していた1往復とともに仙台からの運用に変更され、線内での編成が方転して82年11月15日改正での快速列車格下げを迎えるのである。
85年3月まで通票閉塞を施行していた仙山線にあっては、タブレットキャリアの走行中の授受に対応して、運転台後位の客扉を締切扱として窓部に保護枠を仮設していた。キハ58/28等と異なり常設構造でないのは、この系列の通票閉塞区間の運転など想定していなかったためである。

[Data] NikonF3P+AiNikkor180mm/F2.8S 1/250sec@f8 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

羽前沼沢 (米坂線) 1971

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米坂線は、それは雪の深いところだった。蒸機の時代の70年と71年の二冬、その年が多雪だったのか少雪であったのかも解らないけれど、函館山線の雪しか知らぬ身には遥かに豪雪に見えた。積雪は小国方面に向けて深さを増して往くから、宇津峠あたりはそれでも序の口である。

新雪は北海道のパウダースノウとも少し違って、粉雪だけれどもフカフカなのである。一度、線路から築堤斜面に向けて飛んだら頭まで埋まってしまったことがある。抜け出そうにも雪に抵抗がなくて、もがくばかりで何ともならないのだった。幸いなことに、通りかかった他の鉄道屋がGITZOの足をフルに伸ばしてくれて「救出」された。
これの脱出方法は後に会得して、それは、よく云われるように雪中を「泳ぐ」のである。機材の荷物は放り出して、まさに前傾姿勢で「泳ぐ」、そうとしか言いようが無い。ただし、これをやると幾らマウンテンパーカやフードのドローコードをきつく締めても雪はアンダシャツの中まで入り込んだ。

列車走行の巻上げによる車体への着雪や積雪分の走行抵抗は牽引定数にも影響する。そのせいか、冬の米坂線には補機付きとなる列車が多々在った。貨物列車より軽いと思われる旅客列車に多かったのは、やはり定時性の確保がより優先される故だろうか。しかも、それは前補機だったから、降雪/多雪となれば旅客列車のどれかが重連でやって来た。

列車は、激しい降雪の最中を宇津トンネルへ向かう128列車、米沢行き。
9600蒸機の重連は、ボイラの太い貨物機だけに迫力がある。
視界が無く、接近しないと捉えられない。

[Data] NikomatFTN+AutoNikkor105mm/F2.5 1/500sec@f4 Y48 filter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

能代 (五能線) 1972

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その海沿いを往くロケーションで語られることの多い五能線だが、津軽平野の林崎/藤崎の林檎園や五所川原近辺の岩木山を仰ぐ田園地帯も捨て難い景観ではあった。そして、同じく内陸平野部の能代側には違った魅力も存在していた。長編成の旅客列車である。

秋田県北部沿岸地域の中心都市である能代市には、東能代/能代/向能代を最寄り駅として5校もの公立高等学校が集中しており、1970年当時に人口7万人あまりであった山本郡地域を加えた広域圏から広く生徒を集めていたのである。当然に朝方には大きな通学交通需要が発生して、五能線の深浦からの722列車は9両と云う川部側にはなかった長編成で設定されていた。それの東能代到着編成を一部解放して運用した沢目折返しの225-228列車の6両編成も含めて、朝間に3本のそれを見ることが出来た。

写真は、能代を出発する722列車、東能代行き。
緩い曲線の構内が編成を捉えるに好都合で、煙も期待出来ると選んだ位置だけれど、8620蒸機は軽々と9両編成を引き出してしまった。見たことなど在るはずの無いのに、戦前の東海道/山陽筋での急客機時代を彷彿とさせる姿は、重連や後補機で花輪線の峠を越えていたのと同じ機関車とはとても思えず、これがこの形式本来の持ち味なのだろう。その細身のボイラが客車編成の実に似合う機関車と再認識したものだ。デフレクタも無い方が良い。
それにしても、全てを台無しにしているクルクルパー。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor135mm/F2.8  1/500sec@f4 Y48filter  NeopanSSS  Edit by CaptureOne5 on Mac.

福井駅前 (福井鉄道・福武線) 1986

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普通の鉄道線路を往く路面電車、軌道法で云うところの新設軌道区間には惹かれたものだが、その逆のケースも札幌には無いものだっただけに多いに興味をそそられた。すなわち、路面区間に乗入れて来る鉄道線車両のシーンである。東京でも、その外れの二子橋に66年まで東急大井町線の例があったけれど、間に合っていない。
だから、写真では見ていた名鉄犬山線の犬山橋を実見した際には、撮影も忘れて眺め入ってしまった。そこには、キハ8000系列の気動車列車までもが自動車を押しのけてやって来たのである。

ここ、福井鉄道の福井駅前は橋上ではなく、駅前商店街の真ん中である。福武線の武生新起点18.1キロにある鉄軌分界点から田原町まで、市役所前で分岐して福井駅前までが、「鉄軌分界点」の名のとおり軌道法に準拠して道路上に敷設され、武生新からの鉄道線列車が乗入れていたのである。
高山本線からの帰路を米原経由しておけば、当時に仮住まいの福岡へも新幹線で直行出来たから、このルーラル私鉄には何度か立ち寄っていた。同じ電化区間なら鳩原のループ線よりここだったのである。神明や鳥羽中あたりの情緒ある街並の鉄道線区間も良かったけれど、やはり軌道線は欠かせなかった。

写真は、市役所前でスウィッチバックして分岐線に進入して来るモハ120形(122-1+122-2)編成。僅か500メートルばかりを、狭い路面に溢れる自動車との接触を避けるように低速でゴロゴロとやって来る。
福井駅前の電停に到着すれば、ドア開きとともに長いステップが降りて、高床の鉄道線車両への乗降は近年のバリアフリーとは対極にある光景だった。
なお、この分岐線は福井駅高架化にともなう駅前整備に関連して、2003年に本線より分岐した直後の位置からが単線化されている。

ところで、去る2013年3月29日の報道によれば、福井市の提案による分岐線の福井駅駅前広場への乗入れ計画は、この駅前通り商店街の理解し難い理由の反対(*)もある中で、現在線を延伸して左折しバスプールと並行に停留所を設置するプランでの実行が決まり、2016年の開業を目指すそうである。一方では田原町でのえちぜん鉄道との相互乗入れも2015年実施が決定して、両線のライトレイル化が一挙に進むことと思う。そうなれば、再び鉄道線区間を撮りに往かねばなるまい。もっとも、2005年度以降には廃止された名鉄美濃町線から路面電車タイプ車両が大量に入線して、普通の鉄道線を往く路面電車は先取りされている。

(*) - 電停の遠くなることでの集客への影響や交通渋滞の発生による商品搬入の不便を理由としているが、商店街への停留所存置を要求するでなく、対案には中央大通りへの移設を提出している。要するには、この機に乗じての従前からの主張である駅前通りからの軌道撤去を実現したい訳である。
そこがトランジットモール化されれば、どれだけ街に潤いと集客をもたらすのかを、ここの商店主達は想像出来ぬらしい。

[Data] NikonF3P+AiNikkor35mm/F2S 1/125sec@f4 Fuji SC48filter NeopanSS Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

福来信号場-焼石 (高山本線) 1983

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少し前のこと、下原ダムのダム湖の水位がいつもより下がって湖岸の露出していたものだから、そこまで降りて行ったことがある。湖面近くからの画角は新鮮ではあったのだが、しばらく見ていると水位は10センチくらいの幅で常に変動しているのに気がついた。
このダムは、中山七里と呼ばれる飛騨川の景勝地に所在して、その景観保全のために常時放水している。ダム関係には全くの素人で知り得ないけれど、その放流ゲートはスリットの開口幅をそれほどに細かく調節を続けているものなのだろうか。降水のあったでは無いから流入水量に変化はないはずである。水位変動はゲート調整に違いないと思えた。
いずれにせよ、急激な増水(通常水位への復帰)も考えられたものだから、背後の2メートル程の擁壁をよじ登り斜面を越えれば国道へとエスケイプ出来るところに撮影位置を変えたのだった。この後、ここを列車で通る度に湖岸の其の位置を確認したが、露出を確認することは無かった。

ところで、最近の報告によればダム天端部への立入りが禁止された、とある。ここは地元との協定でそこを通路とした対岸への自由通行が認められており、近年には国道側からはフェンスで囲まれて一見立入りの出来ぬように見えるが、その出入り扉は施錠されていなかったはずである。報告者はそれを見落としたのかも知れぬが、もし事実であれば、やはり押し寄せる鉄道写真屋対策なのであろうか。残念なことではある。

下原ダム湖畔を往くのは、1042D<北アルプス>。
名鉄線内は神宮前の発着で、シーズンには富山地方鉄道の立山まで延長運転していた頃である。
この名古屋鉄道キハ8000/8200系列については、思い入れに溢れる記事がWeb上にも多数あり、ここには繰返さない。

[Data] NikonF3P+AiNikkorED180mm/F2.8S 1/125sec@f11 Fuji SC52 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.
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お詫び
福来信号場-焼石 (高山本線) 1982 の記事におきまして、高山本線の第一/第二境平橋梁を含む下原ダム前後区間がそれの建設にともない付け替えられた旨の記述をしましたが、その事実はありませんでした。
下原ダムの設置決定により、建設工事の或る程度進んだ高山本線の設計を変更せざるを得なくなり、当時の東邦電力がそれにて生ずる第一/第二境平橋梁の架橋経費他の建設費用を負担して工事を進めたのであり、高山本線の線形は開通時より変わっておりません。事実誤認をお詫び申し上げます。
なお、記事の該当部分は上記に訂正してあります。

陣場 (奥羽本線) 1978

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鉄道屋には定番の第二下内川橋梁(169M)から続く盛土構造の区間である。
この当時のその立ち位置である風穴前の畑作地は、営農者も若かったのだろう、このようにしっかりと耕作されていた。何度かここでお会いして、立入り許可を求めれば快く受け入れてくれたものだったが、後年にはトラブルもあったと聞いている。前縁に生育した立ち木を断りも無く伐採したと云う事件で、それ自体よりも苗を踏み荒らされることに憤慨して、立札を立て畑に居れば撮影を断っていたと、後にご本人から伺ったことがある。結局のところ前縁部近くの耕作を諦めたそうなのだが、最近のしなの鉄道での件と云い、常識を知らぬ馬鹿野郎はいつの時代にも居るものだ。

この2404Mもの松原トンネルを掘削しての勾配緩和線は、奥羽北線の電化開業のダイヤ改正直前の1971年9月25日に下り線としての使用を開始しており、この白沢-陣場間が矢立峠を挟む区間での複線化としては最も遅いものとなっていた。それは、新線矢立トンネルへの取付けに関連して構内の嵩上げを要した陣場駅へ盛土を連続して続くこの新線が、必然的に旧線を支障し、これも将来上り線となる新線建設を事前に要したためである。切替は、陣場駅の新線上への移設に関連して1970年11月5日の(新)矢立トンネルを含む陣場-津軽湯の沢間と同時に行われている。現在も、この上り新線脇の低い位置に、下り新線と合流後の築堤の傍らにも旧線跡が確認可能で小さな水路に橋台も残されている。単なる移設に過ぎぬからか、廃線跡探訪的記事には出会っていない。

写真は、案山子に見守られて盛土区間を往く、予定臨8503列車のスジで運転された12系客車-12両組成の回送列車。
2両が秋田車両センターに残されるも、ここでのED75 700番台の運転が過去帳入りして久しい。ここの電化開業時には所要両数が不足して、72年3月改正までは一部列車にDD51牽引の残存したものであった。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8  1/500sec@f8  Y48 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

東鳴子 (陸羽東線) 1975

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陸羽東線へは、ここの蒸機運転が無くなってからも行っていた。煙の無くても良い撮影なら、ポイントの選択範囲も広がったものだった。

東鳴子は、荒雄川右岸で第二荒雄川橋梁(389M)に接する盛土部に、戦後の1952年1月25日に開設された比較的新しい駅である。当初より場内を持たない閉塞区間中間の停車場であった。
ここの特徴は、用地の関係からか橋梁上まで延伸された乗降場にあり、それは既設の橋脚や桁への荷重負担を避けて独立して設けられていた。橋梁に高架橋のへばりつく如き外観は、あまり例の無いだろう。たかが乗降台を支えるために河川敷から高く構築された構造は、軽量鋼材の入手出来なかった時代の所産であろうか。近年ここに通された国道47号線新道への支障部分が撤去されたものの一部は健在である。
ここは1997年3月22日改正を以て、鳴子御殿湯と改称している。御殿湯は、古に赤湯と呼ばれたここに湧く温泉の別名からと云うが、未だに馴染めない。けれど、切妻屋根を乗降場上屋に兼用した木造モルタル造りの旧本屋を2004年に改築した現駅舎の意匠は好ましく、岩出山 (陸羽東線) 1972 の岩出山駅舎と同じ東日本旅客鉃道仙台支社の仕事とは思えぬ程だ。

写真は、第二荒雄川橋梁上の711D列車。キロ28を含む前4両が青森行き<千秋1号>、後2両が羽後本荘行き<もがみ>である。
1959年12月1日に、それぞれ<たざわ><もがみ>として新設されたこの列車は、その後に続々と東北地域に誕生する多層建気動車急行群の先駆けであり、その中でも仙台からと米沢からの同名列車と新庄で相互に編成を入替える点に置いて特異な存在であった。(各区間での編成表を追記に掲げるので、興味のある方はご覧いただきたい)

歓楽温泉化しつつあった隣の鳴子に対して、ここは湯治客中心の鄙びた風情を見せていた頃である。画角の下側に目立つ「いさぜん旅館」は、40年を経た現在でも湯治宿としてここに在る建物のままに盛業中である。虎党は往かねばならぬ宿でもあるようだ。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F1.8S  1/250sec@f8  Y48 filter  Tri-X(ISO320)  Edit by PhotoshopLR3 on Mac.
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小波渡 (羽越本線) 1971

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小波渡に降りたのは、おそらくその駅名に惹かれてのことだろうが、どのようにして、このポイントを見つけてそこに立ったのかは思い出せない。集落の名は、鶴岡市堅苔沢字淵ノ上と云う。
この区間には、背後の丘陵地と海岸線との間の狭い土地ごとに集落が点在していて、そのうちのひとつである。
集落を見下ろす小波渡の弧を描くホームから緩い坂道を国道へと出て、海を右手に見ながら歩き、やや奥まったこの集落の背後に築堤の線路を認めて、そこの小さな流れ(これが堅苔沢なのか)を辿ったものと思う。風雪の季節のはじまった頃で、波浪に沸き立つ泡を見たのも、この時だったような気がしている。

築堤と集落を画角にすべく、山裾に張付く数軒の民家の背後へと登ったのは、鉄道写真屋の習性みたいなものだ。架線柱は運び込まれていたものの、幸いなことに線路端に寝かされたままであったことには、この時に気がついている。
雪混じりの強風を低い丘陵に避けた集落の濡れて鈍色の瓦屋根が印象に残る。群青色の夏の日本海と対極の色である。

ここには、この波渡崎を回っていた旧線に対して五十川までをほぼ直線で結ぶ新線が開通している。羽越本線の複線化に例の多い、山側増設線を上り線として使用するものではなく複線規格である。旧線上にも数多く存在したトンネルの老朽化対策を含んでの措置であろうか、1977年10月18日の使用開始と云うから、この撮影の直後には着工したものと思う。

列車は、旧線の大波渡トンネルを抜けた821列車の秋田行き。
この頃には新津機関区のC57も5両まで配置を減らしていて、昼間に撮影可能なのは、この列車に上りの荷2048列車に限られていた。必然的に撮影上の重点列車だった訳である。
今は、この立ち位置に新線堅苔沢トンネルの入口抗口が在り、正面上部の建物位置へ向けて高架が延び、そこに大波渡トンネル出口側抗口が設けられている。Web上の廃線跡探訪記事によれば、この旧線築堤は健在なそうである。

[Data] NikomatFT+AutoNikkor50mm/F2 1/500sec@f4 Non filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

下小川 (水郡線) 1980

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その通路面が河川敷と同高位に河川の低水路部にのみ架された橋が沈下橋である。出水時に水面下に没することと引替に最小限の延長と桁流失時の復旧を容易とする簡易構造から建設費低減を得る架橋形式である。架橋の原初形態のひとつであり、近代では主に山間僻地など人口希薄域の交通路確保に採用されて来た。
全国的に見られたけれど、流水部に或る程度の幅のあり、架橋前後の河川敷が避溢部となることが条件ゆえ、河川と流域は限られる。関東では荒川や小貝川、相模川などの平野部に、そしてこの久慈川中流域に架橋例が多かった。永久橋(沈下橋の対語なら水抜橋)への架替えが進行しており、今では比較的多くが残る四万十川流域が高名である。

水郡線下小川駅の所在する山方町(現常陸大宮市)平山集落と久慈川対岸の家和楽(やわら)地区に架橋された、この平山橋もそのひとつで、橋脚はコンクリートに鋼管によるものだが、橋桁部は低い欄干を含めて全て木造であった。上流側に斜めに付された構築物は「流木避け」と呼ばれるもので、出水時に橋脚を保護するためそれ毎に設けられていた。

この区間での撮影では格好の素材に違いなかったのだが、鉄道線路と直交方向の架橋のため、それを取り込む画角は限られてしまうのだった。
列車は348D。常陸大子からの水戸行きである。
ルーラル輸送の線区とは云え比較的利用の多く、昼間帯でも一部を除き4両組成が基本と記憶している。気動車は全て水戸機関区の運用である。

平山橋は、この当時に更新架替の終わったばかりで、以来30年余り度々の出水にも桁の流されることも無く、写真の状態で健在である。ただ、木板であった通路面は2001年にコンクリートに舗装されている。
鮎で高名な久慈川だけれど、この川岸の釣り人に聞けば、この澱みでの獲物はフナ/ウグイにコイと教えられた。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor50mm/F1.4S 1/250sec@f5.6 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

野矢 (久大本線) 1986

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福岡に仮住まいの頃、仕事のオフに東京へ戻らなければ久大本線に通ったことは前に書いた。
その沿線は湯布院を筆頭に温泉地が点在していたから、当然泊まってみようと気にはなる。とは云え、湯布院は田園に開けた温泉だったし、日田温泉は市街地の川縁りに湧いていた。玖珠川に面した天ケ瀬温泉も良かったのだけれど、やはりそれは山間に分け入ったイメージの有って、筋湯温泉を地図から探し出したのである。
地熱地帯の九住連山には、それこそ数多くの温泉の散在するのだが、そこは大分県道40号線を牧の戸峠へ上り詰める手前の標高1000メートルに近い山峡な上に、豊後中村からそれなりのバス便数もあるのだった。
当てずっぽうで予約を入れた宿は「ホテル太船」と云った。2階建てのこじんまりした宿で古い建物だけれど居心地が良く、以後常宿にしていた。ここへは久大本線撮影ばかりでなく、博多での仕事先事務所の連中も誘って車を出させても通ったのである。

この宿自体には内湯しかないのだが、そこの勝手口から眼と鼻の先に露天の共同浴場が在った。近いものだから、そこまで燗酒や肴を届けてくれたのである。酒が切れれば、浴衣を引っ掛けて追加を頼みに行けば良かった。
冬の夜だったと記憶するが、仲間3人で例によってこの露天で呑んでいた。熱い湯に浸かりながらだから、なかなか酔わないのである。何度かのオーダーで二合徳利20本あまりを呑んでしまい(4升である)、再び勝手場を訪ねると、よほど呆れられたものか一升瓶をそのまま渡されたことがあった。それは温泉の湯につければ、ほどよく燗がついた。

写真は、水分トンネルへの勾配を登る601D<由布1号>。
沿線は野上川の狭い谷に棚田が続く。小屋のように積み上げた稲束は、それの乾燥だと思うのだが、あまり見かけない独特のものだ。シートのほっかぶりこそ無いものの、北海道での豆のニオ積みに似ている。なんと呼ぶのかは聞き逃している。

この記事に際して調べてみると、「ホテル太船」は「旅館山の宿太船」として現在も盛業の様子であった。改装はされているが、建物自体は当時のままにも見える。
件の露天風呂の共同浴場は、「岩ん湯」との名称を与えられ有料化されていた。行けばいつでも入浴出来たものが、「薬師湯」との隔日交互の男女別湯化により混浴が解消されたのは時代の流れか。時間も22時までに制限がかけられた。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f4 Fuji SC42filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

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